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第137話 名前に値札を付けるな

 名前を知られた。


 それは、思っていた以上に気味が悪かった。


 霧灰白庭迷宮(むかいはくていめいきゅう)。


 その名は、ロード側では正式な名だ。


 ダンジョン新聞にも載る。


 管理音声もそう呼ぶ。


 余もそう認識している。


 だが、人間側はまだ知らなかった。


 人間どもは、灰白庭だの、白箱迷宮だの、銀刻帰らずだの、勝手な通称で呼んでいた。


 それでよかった。


 正式な名を知られないことは、薄い壁になる。


 名を知らぬ相手は、正確に呼べない。


 正確に呼べない相手は、正確に縛れない。


 だが、黒市主(くろいちぬし)は呼んだ。


 霧灰白庭迷宮、と。


 闇市の奥から。


 死んだ迷宮の核片(かくへん)を胸に埋めた人間が、余の名を呼んだ。


「管理音声」


《はい》


「名前を知られると、何が起きる」


《通常、人間側が迷宮の正式名称を知っても、即時の支配権侵害は発生しません》


「通常ではない場合は」


《名称を用いた契約、指名討伐、封印指定、取引指定、呪的索引(じゅてきさくいん)に利用される可能性があります》


「最後が嫌だな」


《はい》


 フィルエが森灰観測室(しんかいかんそくしつ)から出ていた。


 まだ完全に万全ではない。


 だが、さっきからずっと白い部屋の床を見ている。


 床には、黒い破片の図が浮かんでいた。


 死迷宮核片小片(しめいきゅうかくへんしょうへん)。


 黒市主から噛み取った、死んだ迷宮の欠片の構造記録。


 物体そのものは持ち帰れていない。


 だが、形は記録した。


 それだけでも、嫌な気配がする。


「ロード」


「何だ」


「あれ、ただの欠片じゃない」


「分かるのか」


「うん。死んでるけど、空っぽじゃない」


「どういう意味だ」


「死んだ迷宮の癖が残ってる。命令じゃなくて、癖。ずっと同じことをしてた場所の、腐った反射みたいなもの」


 フィルエは少し眉を寄せた。


「あれを体に埋める人間、普通じゃない」


「黒市主が普通でないことは見れば分かる」


「違う。強いとか、悪いとかじゃなくて……自分の中に、死んだ迷宮の癖を入れてる」


「癖を入れるとどうなる」


「たぶん、人間のまま、迷宮みたいなことが少しできる」


 白い部屋が静かになった。


 人間のまま、迷宮みたいなことができる。


 最悪に近い言葉だった。


 迷宮は、領域で戦う。


 罠で戦う。


 帰路を奪い、欲を誘い、魔物を動かす。


 人間は、身体で戦う。


 剣で戦う。


 魔法で戦う。


 その境目があるから、こちらは人間を喰える。


 だが、黒市主は、その境目を汚している。


 死んだ迷宮を着て、人間のまま、迷宮のようにこちらを見ている。


「管理音声。死核隔離室(しかくかくりしつ)は」


《形成準備中》


「急げ」


《ソウル消費:1,200》


「許可」


《現在保有ソウル:26,390》


 白い部屋の奥、コア区画から少し離れた場所に、新しい小部屋が作られていく。


 白磁でもない。


 灰霧でもない。


 泥でもない。


 壁は厚い黒灰色。


 戻り水を通さず、影糸も直接つながない。


 白磁根で外側を囲み、その外をさらに泥で封じる。


 中には、何も置かない。


 ただ、中央に小さな台座。


 その上に、死迷宮核片小片の構造記録を封じるための黒い器を置く。


《死核隔離室、形成完了》


《隔離対象:死迷宮核片小片の構造記録》


《接続深度:最浅》


《警告:観測時、迷宮側への汚染反応に注意してください》


「観測しなければ、何も分からぬ」


《はい》


「観測する」


 黒い器の中に、死迷宮核片小片の構造が映し出された。


 小さな黒い破片。


 だが、その中は空洞だった。


 空洞の奥に、さらに細い通路がある。


 通路の奥に、古い鐘のような形。


 その周りに、腐った命令がこびりついている。


 進め。


 鳴れ。


 戻るな。


 沈め。


 捧げろ。


 誰の声でもない。


 ロードの意思でもない。


 だが、迷宮だったものの習性が、まだそこに残っていた。


「これは、どこの迷宮だ」


《一致情報なし》


「黒鐘大廟(こくしょうたいびょう)か?」


《記事にあったSSランク迷宮とは反応が異なります》


「では、別の死んだ迷宮か」


《その可能性が高いです》


 フィルエが静かに言った。


「たぶん、黒市主は一つだけじゃない」


「複数埋めているか」


「うん。胸にあったのは中心だけ。腕や首にもあった。死んだ迷宮を、部品にしてる」


「……気分が悪いな」


「私も」


 その時、黒い器の中で、死迷宮核片が震えた。


 誰も触れていない。


 観測しているだけだ。


 なのに、破片の中の古い鐘が、小さく鳴った。


 ごん。


 白い部屋まで届くはずのない音が、余の中に響いた。


《警告》


「何だ」


《死核隔離室内で、外部応答》


「外部?」


 黒い器の中に、文字が浮かんだ。


 迷宮文字ではない。


 人間の文字でもない。


 だが、読めた。


 読めてしまった。


⸻


霧灰白庭迷宮

買値未定

生体迷宮器官あり

宝物庫機能確認

帰路捕食反応あり

契約存在、推定複数


⸻


 余は、白い部屋の床を叩きたくなった。


「値札を付けられている」


《外部闇市側の索引反応と推定》


「余の迷宮にか」


《はい》


「買値未定だと?」


《はい》


「ふざけるな」


 声が低くなった。


 自分でも分かるくらい、低くなった。


 フィルエがこちらを見た。


「ロード」


「余の迷宮に値札を付けたぞ、あの人間」


「怒っていい」


「怒っている」


 黒い器の中で、さらに文字が増える。


⸻


出品候補:

白箱系器官

灰霧採取物生成部

帰路捕食個体の痕跡

命脈契約線

古血反応、不確定


⸻


 余の思考が止まった。


 古血反応。


 不確定。


 不確定だが、見られかけている。


 ヴェルグレイヴ。


 夜棺白庭(やかんはくてい)。


 あれを知られるのはまずい。


 絶対にまずい。


「管理音声」


《はい》


「夜棺白庭の遮断を最大」


《すでに高水準です》


「最大だと言っている」


《追加遮断にはソウル消費が発生します》


「いくらだ」


《2,400》


「許可」


《現在保有ソウル:23,990》


《夜棺白庭、秘匿強度上昇》


 白い部屋の奥で、夜棺白庭へ続く通路がさらに沈む。


 白磁根が重なり、影糸が外周を覆い、戻り水が内側循環だけに切り替わる。


 古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴの棺は静かなままだ。


 だが、ほんの一瞬。


 白磁の棺の蓋が、内側からこつりと鳴った。


 余は固まった。


「起きたか」


《ヴェルグレイヴ、状態:睡眠》


「今、鳴ったぞ」


《睡眠中の微反応です》


 フィルエが小さく言う。


「外が、あれの匂いを嗅いだから」


「起こすな」


「うん」


「絶対に起こすな」


「分かってる」


 黒い器の中の文字は、さらに増えようとしている。


 死迷宮核片を通じて、闇市の何かが、こちらを索引している。


 余の迷宮に値札を付け、売れる部品を探している。


 宝物庫。


 採取物生成部。


 帰路喰らい。


 命脈契約線。


 古血反応。


 どれも売るものではない。


 どれも余のものだ。


「この索引、切れるか」


《可能ですが、切断すると黒市主側に遮断反応が通知されます》


「もう気づかれているだろう」


《はい》


「なら切れ」


 フィルエが止めた。


「待って」


「なぜだ」


「切る前に、逆に書き込める」


「何を」


「値札を、嘘で塗れる」


 余はフィルエを見た。


 フィルエの目が、少し光っている。


「黒市主は、迷宮を商品として見てる。なら、商品情報を汚せばいい」


「具体的には」


「危険すぎる。すぐ腐る。持ち出すと爆ぜる。買い手を喰う。そういう情報を混ぜる」


 なるほど。


 闇市は、価値を見る。


 なら、価値を下げる情報を混ぜる。


 ただし、完全に価値がないと思わせてはいけない。


 価値がありすぎると群がる。


 危険すぎると上位の買い手が来る。


 なら、扱いにくい商品に見せる。


 高いが面倒。


 欲しいが危険。


 買い手を選ぶ。


 そういう品にする。


「やれ」


 フィルエが床に手をついた。


 森灰観測網が、死核隔離室へ細く伸びる。


 死迷宮核片の構造に直接触れないよう、灰を挟んで、情報の表面だけを撫でる。


「森灰術・値札汚し(ねふだよごし)」


 黒い器の中の文字が揺れた。


 その上に、新しい文字が重なる。


⸻


注意:

霧灰白庭迷宮の器官は高汚染

持ち出し後、自律捕食の危険あり

帰路捕食反応、所有者にも作用する可能性あり

命脈契約線、逆流危険

古血反応、不確定につき取引非推奨


⸻


「良い」


《外部索引に偽装警告を書き込みました》


「もっと嫌な文言を入れろ。買った者の倉庫が迷宮化する可能性あり、とか」


《事実ではありません》


「事実でなくてよい。闇市の連中が嫌がればよい」


 フィルエが少し笑った。


「じゃあ、こう」


 文字が追加される。


⸻


追記:

保管場所が霧化する事例あり

所有者の帰路認識を侵食する恐れあり

開封者が迷宮へ再誘導される危険あり


⸻


「最高だ」


《悪質です》


「相手が先に余へ値札を付けたのだ」


 死迷宮核片が震える。


 向こうがこちらの書き込みに気づいた。


 黒い器の中で、鐘の音が強くなる。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


《外部索引側から反発》


「切れ」


《切断します》


 黒い器に白磁の蓋が降りた。


 影糸が巻きつく。


 泥が外側を固める。


 死核隔離室の扉が閉じる。


 鐘の音は、そこで途切れた。


 白い部屋に、静けさが戻る。


 だが、余の中の怒りは戻らない。


「黒市主」


 余はその名を呟いた。


「余を商品にする気か」


《敵対意思が高いと推定されます》


「なら敵だ」


《はい》


「だが、ただ殺すだけでは足りぬ」


 フィルエがこちらを見る。


「どうするの」


「闇市に、余の偽商品を流す」


「偽商品?」


「霧灰白庭迷宮の器官に見えるが、実際は墓銭札の塊。買った者を追い、倉庫を記録し、持ち主の帰路感覚を少しずつ狂わせる宝だ」


 フィルエは目を細めた。


「それ、闇市を迷宮の外部通路にする気?」


「そうだ」


 闇市は、迷宮の外にある。


 だが、そこに余の宝が流れれば、線ができる。


 欲の線。


 取引の線。


 所有の線。


 人間が宝を運び、売り、買い、隠すたび、余はその線を見る。


 完全な支配ではない。


 だが、迷宮の外に、細い外部通路を作ることはできるかもしれない。


「管理音声」


《はい》


「新しい報酬品を設計する」


《用途は》


「闇市汚染用」


《危険な用途です》


「名前は」


 少し考えた。


 闇市で売られる白い札。


 買った者に帰り道の違和感を植えるもの。


「迷子札(まいごふだ)」


《迷子札、仮登録》


⸻


迷子札(まいごふだ)


外観:

白銀磁片に似た薄い札。灰霧の縁取りあり。


表向きの価値:

帰路確認用の迷宮産護符。

低級帰還魔具の補助素材として利用可能に見える。


実際の効果:

所有者の帰路認識を微細に記録。

一定期間後、所有者が通った道、隠し場所、取引相手を迷宮側へ断片送信。

長期保有時、軽度の方向感覚異常を付与。


危険:

聖職者、専門鑑定士に発見される可能性あり。


推定生成コスト:1枚あたり80ソウル


⸻


「安いな」


《効果が軽度のためです》


「100枚作れ」


《ソウル消費:8,000》


「……高いな」


《数量が多いためです》


「では20枚」


《ソウル消費:1,600》


「許可」


《現在保有ソウル:22,390》


《迷子札、20枚生成》


 白い部屋の奥で、小さな札が生まれた。


 白銀磁片に似ている。


 だが、よく見ると縁に灰色の霧が巡っている。


 綺麗だ。


 安っぽくはない。


 闇市で売れる程度には価値がありそうだ。


「これをどう流す」


《墓銭拾い経由、または浅層報酬に混入可能》


「墓銭拾いだな。あいつらは闇市へ流す」


《墓銭札反応は弱化中です》


「では、墓銭拾いがまた来た時に持たせる」


 フィルエが言う。


「来ると思う?」


「来る」


「どうして」


「黒市主は、余の名を知った。こちらに値札を付けた。あの手の者は、一度見た商品を諦めない」


「うん。たぶん来る」


「なら、次はただ盗ませない」


 余は迷子札を見下ろした。


「盗んだつもりで、道を置いていけ」


 その時、死核隔離室の方で、また小さな音がした。


 今度は鐘ではない。


 爪で、黒い器の内側を引っかくような音。


 かり。


 かり。


 フィルエの顔色が変わる。


「ロード」


「何だ」


「死核、まだ何か残ってる」


「切断したはずだ」


「うん。でも、こっちに残った構造記録の中に……声がある」


「声?」


 死核隔離室の表示が、勝手に開く。


 黒い器の上に、一行だけ文字が浮かんだ。


⸻


たすけて


⸻


 余は、黙った。


 フィルエも、黙った。


 管理音声も、しばらく何も言わなかった。


 死んだ迷宮の欠片。


 売られ、埋め込まれ、使われていた核片。


 その奥に、まだ声が残っている。


 ロードなのか。


 眷属なのか。


 迷宮そのものの残響なのか。


 分からない。


 だが、確かにそこには、助けを求める文字があった。


「……管理音声」


《はい》


「死核隔離室の封を、さらに一段強くしろ」


《承知しました》


「ただし、消すな」


《理由は》


「まだ、使い道がある」


 フィルエが静かに言った。


「それだけ?」


 余は、すぐには答えなかった。


 しばらくして、言った。


「それだけではない」


 死んだ迷宮の声。


 助けて、と書いた何か。


 黒市主の胸に埋められていた欠片。


 余は、それを見捨てるほど冷たくはない。


 いや、違う。


 見捨てれば、黒市主に近づく手がかりを失う。


 だから残す。


 そういうことにしておく。


「黒市主は、死んだ迷宮を売り物にした」


 余は言った。


「なら、余はその死骸から話を聞く」


 白い部屋の奥で、死核隔離室がさらに閉じる。


 だが、黒い器の中の文字は、消えなかった。


⸻


たすけて


⸻


 それは、新しい宝よりも、ずっと重いものに見えた。

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