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第137話 黒市主は、死んだ迷宮を着ている

 黒い扉が開いた。


 闇市の最奥。


 水路のさらに下。


 盗品と呪物と死体の匂いが沈む、地下の黒い部屋。


 その奥に、黒市主くろいちぬしはいた。


 最初、人間に見えた。


 痩せた男だった。


 顔は青白く、目元には黒い紋が刻まれている。


 年齢は分からない。


 若くも見えるし、ひどく古くも見える。


 黒い長衣の胸元から、細い金属線がいくつも伸びていた。


 その線の先に、石が埋め込まれている。


 黒い石。


 灰色の石。


 白く濁った石。


 どれも割れていた。


 だが、ただの魔石ではない。


 それを見た瞬間、フィルエの声が震えた。


「ロード」


「何だ」


「あれ、人間だけど……」


 少し間があった。


「ダンジョンの死骸しがいを、体に埋めてる」


 白い部屋の空気が冷えた。


 ダンジョンの死骸。


 死んだ迷宮の欠片。


 コアではない。


 ロードでもない。


 だが、かつて迷宮だったものの残骸。


 それが、人間の胸に、腕に、首元に、飾りのように縫い込まれている。


「管理音声」


《解析不能》


「役に立たん」


《外部領域かつ未知素材です》


「言い訳はよい」


 黒市主は、盗ませ宝物庫の前へ歩いてきた。


 足音がない。


 いや、足音はある。


 だが、人間の足音だけではなかった。


 石が軋む音。


 古い通路が沈む音。


 死んだ迷宮の壁が、夢の中で崩れるような音が混じっている。


 黒市主は、静かに口を開いた。


「生きているな」


 その声は細い。


 だが、地下の闇市全体が、その声で静かになった。


 ボルムも。


 リスカも。


 片腕を失った箱喰いのヴァドも。


 闇値鑑定士やみねかんていしのラグ・エンザさえ、黙った。


 黒市主は、盗ませ宝物庫へ手を伸ばした。


「白い庭、灰の霧、水の腹、影の糸。なるほど。これは新しい迷宮の器官だ」


「器官だと」


 余は白い部屋で低く呟いた。


「余の宝物庫を、勝手に解剖するな」


 聞こえないはずだ。


 だが、黒市主はわずかに顔を上げた。


 まるで、遠くから何かを聞いたように。


 フィルエが息を呑む。


「少し、聞かれた」


「何?」


「声じゃない。怒りの形」


「……外にいる人間が、余の怒りを見るのか」


「普通じゃない」


 黒市主の胸に埋め込まれた黒い石が、わずかに脈打った。


 死んだ迷宮の欠片。


 それが、こちらの気配に反応している。


 黒市主は笑った。


「良い。まだ熱がある。死んだ迷宮の欠片より、ずっとよく鳴る」


 その言葉に、余ははっきりと怒りを覚えた。


 死んだ迷宮の欠片。


 こいつは、それを知っている。


 知ったうえで、体に埋めている。


 そして、余の迷宮の一部を、同じように扱おうとしている。


「殺すか」


《外部領域です。直接殺害は困難》


「分かっている!」


 黒市主が指を鳴らした。


 闇市の者たちが、黒い台の周囲に道具を並べ始める。


 黒い針。


 骨の杭。


 白い粉。


 割れたコア片。


 そして、肉のように湿った布。


 ラグが低く言った。


「黒市主、それは剥核針はっかくしんですか」


「そうだ」


 その場の空気が変わった。


 ボルムの顔からも余裕が消えた。


「宝物庫を、剥ぐんですか」


「剥ぐのではない。飼う」


 黒市主は、盗ませ宝物庫を見下ろした。


「迷宮の器官は、コアから離れると腐る。だが、死んだ迷宮の核片かくへんを噛ませれば、少しは生きる」


 フィルエの声が硬くなった。


「ロード。まずい」


「何がだ」


「あれ、盗ませ宝物庫を死んだ迷宮の欠片に繋ごうとしてる」


「繋がるとどうなる」


「あなたの制御が薄くなる。向こうのものになるかもしれない」


 白い部屋の床が、わずかに軋んだ。


 余の宝物庫を、奪う。


 ただ盗むのではない。


 迷宮から切り離し、死んだ迷宮の欠片を餌にして、自分のものにしようとしている。


「管理音声」


《盗ませ宝物庫の接続強度、低下予測》


「対抗しろ」


《迷宮本体から距離があります。通常接続では不利です》


「なら通常ではない方法を出せ」


《候補:盗ませ宝物庫の自壊》


「却下」


《候補:内部報酬の全腐敗》


「却下」


《候補:墓銭札全起動による黒市主への逆接続》


「それだ」


《危険です。黒市主側から逆流される可能性があります》


「だが、噛める」


《はい》


「フィルエ」


「見てる」


「どこを噛めばいい」


 フィルエの森灰観測網しんかいかんそくもうが細く伸びる。


 外。


 闇市の奥。


 死んだ迷宮の欠片。


 黒市主の胸。


 その中で、一つだけ他より深く沈んだ黒い石がある。


 フィルエが言った。


「胸の真ん中。あれが一番古い。たぶん、黒市主の中心になってる」


「心臓か」


「人間の心臓じゃない。死んだ迷宮の、仮のコア」


「よし」


 黒市主が剥核針を盗ませ宝物庫へ刺そうとする。


 その瞬間、余は命じた。


「墓銭札、全起動」


《墓銭札、全起動》


 盗ませ宝物庫の内側で、黒い札が一斉に開いた。


 封印袋に貼り付いた札。


 ボルムの靴底に残った札。


 リスカの袖に潜んだ札。


 ムドとガリから剥がれた灰の残滓。


 正式宝箱三号の底材。


 盗ませ宝物庫の床。


 それらが、一本の黒い線になる。


 その線が、黒市主へ向かって走った。


 黒市主は笑った。


「来るか」


 剥核針が、盗ませ宝物庫へ刺さる。


 こちらの黒い線と、向こうの剥核針がぶつかった。


 音はなかった。


 だが、白い部屋の壁が大きく震えた。


《逆流干渉》


《盗ませ宝物庫、接続不安定》


《黒市主側より死迷宮核片しめいきゅうかくへんの干渉》


「耐えろ!」


 盗ませ宝物庫の中で、灰霧が荒れる。


 白磁壁が割れる。


 影糸が切れる。


 中の白銀磁片が黒く濁りかける。


 黒市主の胸の核片が、こちらの接続を噛もうとしている。


 死んだ迷宮の欠片が、余の宝物庫を死体の側へ引きずろうとしている。


「フィルエ!」


「ずらす!」


 フィルエが白磁床に両手をついた。


 命脈紋が光る。


 森灰の流れが、盗ませ宝物庫の黒線へ混ざる。


「森灰術・死脈ずらし(しみゃくずらし)」


 黒市主の剥核針が狙っていた接続点が、わずかにずれた。


 剥核針は、盗ませ宝物庫の中心ではなく、墓銭札の偽の芯へ刺さる。


 黒市主の目が細くなった。


「観測者がいるな」


 フィルエが息を詰める。


「見られた」


「下がれ」


「まだ」


「下がれと言っている!」


 だが、フィルエは下がらない。


 黒市主の胸の黒い核片が脈打つ。


 剥核針が、もう一本出てくる。


 二本目。


 三本目。


 まるで、死んだ迷宮の根が伸びるように。


「管理音声」


《盗ませ宝物庫の保全率、61%》


「どれくらい耐える」


《このままでは長くありません》


「なら、噛み返す」


《箱喰い返しを使用しますか》


「違う。もっと深く噛む」


《機能未登録》


「登録しろ」


 余は、盗ませ宝物庫の奥に置いた墓銭札へ、帰路喰らいの落武者の記録を少しだけ流した。


 帰る者を喰う記録。


 聖鎖を喰った記録。


 契約型退路を噛み砕いた記録。


 それを、黒い札へ流す。


《警告。帰路喰らいの特性を外部接続へ使用するのは危険です》


「今さら危険で止まるか」


 墓銭札が、ただの追跡印ではなくなる。


 帰り道を喰う札。


 戻ろうとする線を噛む札。


 黒市主の剥核針は、盗ませ宝物庫を自分の側へ引き戻そうとしている。


 なら、その“引き戻す道”を喰う。


「墓銭札、帰鎖喰いを一部転写」


《実行》


 黒い札が、牙のように変形した。


 剥核針が作った黒い道へ噛みつく。


 黒市主の眉が初めて動いた。


「ほう」


 剥核針が一本、折れた。


 闇市の者たちがざわめく。


 ボルムが後ずさる。


 ラグが叫ぶ。


「引け! それ以上は向こうに噛まれる!」


 黒市主は引かなかった。


 むしろ、さらに前へ出た。


「面白い」


「面白がるな、人間!」


 余は叫んだ。


 もちろん届かない。


 だが、怒りは形になる。


 盗ませ宝物庫の中で、白磁壁が開いた。


 箱喰いのヴァドから奪った闇鍵束が、内側で鳴る。


 鍵が、一つずつ開く。


 宝物庫の中身ではない。


 黒市主の胸に埋め込まれた死迷宮核片へ向かう鍵だ。


《闇鍵束、解析反応》


《死迷宮核片への接続鍵を一時形成》


「開けろ」


 鍵が回る。


 黒市主の胸の核片が、一瞬だけ開いた。


 その奥に、死んだ迷宮の記憶が見えた。


 暗い沼。


 骨の橋。


 錆びた鐘。


 誰もいない玉座。


 コアを失い、ロードを失い、剥がされ、売られ、人間の胸へ埋められた迷宮の欠片。


 それが、まだ呻いていた。


 余は、声を失った。


 迷宮の死骸。


 本当に、死骸だった。


 黒市主はそれを身に着けている。


 使っている。


 商品にしている。


 腹の奥に、冷たい怒りが沈む。


「……フィルエ」


「うん」


「今の、見たか」


「見た」


「許せるか」


「許せない」


「なら、少し持って帰る」


《危険です》


「黙れ」


 盗ませ宝物庫の墓銭札が、開いた核片の奥へ牙を立てた。


 黒市主が初めて顔を歪める。


「それは、売り物だ」


 売り物。


 死んだ迷宮の欠片を、売り物と言った。


「そうか」


 余は静かに言った。


「では、買い取ろう。代金は痛みだ」


 墓銭札が、死迷宮核片の欠けた一部を噛み千切った。


 黒市主の胸から、黒い光が散る。


 闇市の空気が震える。


 黒市主が一歩下がった。


 初めて。


《死迷宮核片の欠片を取得》


《名称未登録素材:死迷宮核片小片》


《外部接続限界》


《盗ませ宝物庫、保全率39%》


「戻せ」


《遠隔回収は不可能です》


「では、情報だけでも持ち帰れ」


《墓銭札経由で転写します》


 盗ませ宝物庫の中で、奪った小片が一瞬だけ光り、すぐに灰となった。


 物体としては持ち帰れない。


 だが、その構造は墓銭札を通じて迷宮へ転写される。


 白い部屋の床に、黒い破片の図が浮かんだ。


《死迷宮核片小片:構造記録取得》


「よし」


 黒市主は胸を押さえていた。


 血は出ていない。


 代わりに、黒い灰が指の間から落ちている。


 だが、死んではいない。


 むしろ、笑っていた。


「霧灰白庭迷宮」


 その名を、黒市主が口にした。


 余は凍りついた。


「今、何と言った」


《外部音声:霧灰白庭迷宮》


「なぜ知っている」


 黒市主は笑った。


「いい名だ。灰と白と霧の庭。生きた迷宮の名だ」


 フィルエが低く言った。


「ロード。こいつ、名前を見た」


「どこから」


「墓銭札と、あなたの怒りから」


 黒市主が、こちらを見ている。


 距離など関係ないように。


 闇市の奥から、白い部屋の方を見ている。


「また取引しよう」


 黒市主は言った。


「今度は、もっと深いものを持ってこい。こちらも、もっと良い死骸を見せてやる」


「ふざけるな」


 余は低く言った。


 届かないはずだ。


 だが、黒市主は笑った。


「聞こえたぞ、ロード」


 その瞬間、墓銭札の接続が切れた。


 盗ませ宝物庫の視界が黒く潰れる。


 白い部屋の床から、闇市の映像が消えた。


《外部接続、遮断》


《盗ませ宝物庫、制御不能》


《墓銭札残存反応、微弱》


 白い部屋に沈黙が落ちた。


 余は、しばらく何も言わなかった。


 フィルエも黙っていた。


 やがて、管理音声が淡々と告げる。


《取得情報を整理します》



闇市情報:


・黒市組合の奥に黒市主が存在

・黒市主は死んだダンジョンの核片を身体に埋め込んでいる

・死迷宮核片を用いて、迷宮器官を外部で飼う技術を保有

・正式名称「霧灰白庭迷宮」を一部認識

・盗ませ宝物庫は制御不能

・死迷宮核片小片の構造記録を取得


現在保有ソウル:27,590



「……最悪だな」


《危険度が高い接触でした》


「だが、得たものもある」


《はい》


 死迷宮核片小片。


 死んだ迷宮の構造記録。


 そして、黒市主という存在。


 闇市は、ただの宝泥棒ではなかった。


 迷宮の死骸を売買する場所。


 死んだダンジョンの欠片を、体に埋める人間がいる場所。


 これは、放置できない。


「フィルエ」


「うん」


「黒市主は、敵だ」


「うん」


「墓銭拾いより、ずっと厄介な敵だ」


「うん」


「だが今すぐ殺せぬ」


「外にいるから」


「ああ」


 余は白い部屋の床に浮かぶ黒い破片の図を見た。


「なら、まず調べる」


《死迷宮核片小片の解析を開始しますか》


「開始しろ」


《危険です》


「分かっている」


《死んだ迷宮の構造が、霧灰白庭迷宮へ汚染をもたらす可能性があります》


「隔離して調べる」


《隔離区画が必要です》


「作れ」


《区画名を設定しますか》


 余は少し考えた。


 死んだ迷宮の欠片を調べる場所。


 黒市主への手がかり。


 そして、ロード不在迷宮やダンジョンブレイクへも繋がるかもしれないもの。


死核隔離室しかくかくりしつ


《死核隔離室、仮設定》


 フィルエが、小さく息を吐いた。


「また危ないものが増えた」


「そうだな」


「でも、見ないと危ない」


「お前が言うと説得力がある」


「でしょ」


 余は笑わなかった。


 黒市主。


 死迷宮核片。


 闇市。


 余の正式名を知った人間。


 新しい敵だ。


 かなり、厄介な敵だ。


 だが、同時に。


 少しだけ、胸が高鳴っていた。


 宝を盗ませたら、闇市の奥が見えた。


 闇市の奥には、迷宮の死骸を着た人間がいた。


 そして、そいつは余の名を呼んだ。


 これは、ただの防衛戦ではない。


 迷宮の死骸を巡る戦いになる。


「黒市主」


 余は白い部屋の中央で告げた。


「余の名を知ったな」


 床下で戻り水が低く鳴る。


 影縫い大蜘蛛の糸が震える。


 グズが泥門を叩く。


 夜棺白庭の奥で、古血の棺がほんのわずかに軋んだ。


「なら、次はこちらがお前の名を暴く」

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