第13話 湿臭洞窟(仮称)
Dランク昇格の余韻が落ち着いたのは、外界で言えば半日ほど経ってからのことだった。
その間、余は三度ほど新聞の昇格速報を見返し、二度ほど「見間違いではないよな」と管理音声に確認し、一度だけ「余、今ならちょっと偉そうにしてもよいのではないか」と口にして、《元からやや偉そうです》と返されて機嫌を損ねた。
だが、機嫌が損ねたままで終わらぬのが今の余である。
すぐに立て直した。
なぜなら、昇格は終わりではないからだ。
むしろ、ここから忙しくなる。
「まず損耗の回復だな」
今回の迎撃でゴブリン四、鼠五、茸二を失った。Dに上がったからといって、現実の手駒が勝手に増えるわけではない。穴は埋めねばならぬ。
《昇格報酬として基礎ソウル増加を確認》
「何?」
《+40です》
「そういう大事なことを先に言え!」
一覧が表示される。
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【現在所持ソウル:58】
⸻
「……おお」
ありがたい。
実にありがたい。
これなら補充と小規模改修を同時に進められる。
「鼠を四、茸を二、ゴブリンを三。まずはそこだ」
《承認しますか》
「うむ」
淡い光とともに、迷宮の各所に新たな戦力が生まれていく。
細穴を走る新しい鼠。
湿った壁際に膨らむポフキノコ。
棍棒を握ってきょろきょろする新顔のゴブリン。
どれも頼もしい、とは言い難い。
だが、余の手足であることには変わりない。
「グズ」
「ギィ!」
「新入りを回せ。入口に二、旧小部屋に一。鼠は外周、茸には触らせるな」
「ギィッ!」
うむ。
よく動く。
その様子を見ていると、やはりグズを進化させたのは大正解だったと思う。余が一つ一つ怒鳴りつけていた頃より、迷宮がずっと“自走”している気配がある。
「……階級とは大事だな」
《ランク上昇と個体統率は相互に作用します》
「余も学んでおるな」
《はい》
「素直でよろしい」
《事実ですので》
まったく愛想はないが、たまにこうして乗せてくる。
悪くない。
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その頃、ギルド支部では重い沈黙が落ちていた。
「D?」
支部長代理が書面を見返す。
「ええ。新聞にまで出たなら、ほぼ確定」
レネが答える。
「お前、新聞が見えるのか」
「見えない。迷宮関連の変動は、調査記録から推定できることもある」
「推定で当てるな、気味が悪い」
「褒め言葉として受け取る」
ミーシャは椅子にもたれ、げんなりした顔で天井を見た。
「最悪。あれ、育っちゃった」
「まだDだ」
ハルドが静かに言う。
「でもEじゃない」
フィナが小さく続けた。
「……もう、初級訓練場みたいには扱えませんよね」
「当然だ」
支部長代理は深く息を吐いた。
「ここから先は支部判断だけでは危うい。本部照会を出す」
「待って」
レネが言う。
「なぜだ」
「まだ一つ、見たいことがある」
「またそれか」
「大きくなる前に、何を軸に伸びるかだけは見ておきたい」
支部長代理は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前な。敵に情が湧いたのか」
「違う」
レネはきっぱり否定する。
「ただ、相手を知らないまま人を増やしてぶつける方が危ない」
「それは一理ある」
ハルドが腕を組む。
「だが本部照会は止めない。並行だ」
「……それでいい」
レネは窓の外を見た。
辺境の曇った空。
その向こうに、湿臭い洞窟がある。
壊すべき相手だ。
それは分かっている。
だが同時に、次に行く時、あれがどう変わっているかを考えると、どうしようもなく胸の奥がざわつくのも事実だった。
「本当に、嫌な趣味ね」
ミーシャが呟く。
「知ってる」
レネは苦笑した。
・
・
余のもとには、その日のうちに新聞経由でいくつかの反応が届いた。
まずは井守。
【井守より】
“おー、D昇格おめでと。早かったね湿り系新人”
「また湿り系と言ったなあやつ」
だが、続きはちゃんとしていた。
【井守より】
“複数迎撃で上がったなら立派立派。次からは“どう生き残るか”より“どういう迷宮になるか”が問われるよ。あと、投稿欄が少し使えるようになってるはず。下手にイキると目立つから気をつけて”
「最後の助言が実にありがたいな」
《あなたに必要です》
「否定しにくいのが腹立たしい」
次に、見覚えのない名から一つ。
【“玻璃宮の姫”より】
“昇格おめでとうございますわ。湿りを主軸にされるのは相変わらず趣味が悪いですけれど、低位で生き残るという一点では結果が全てですもの。せいぜい無様に死なないことですわね”
「祝っておるのか煽っておるのか分からぬ」
《両方では》
「両方だな」
さらにもう一つ。
【“灰冠のロード”より】
“Dに上がったなら、次は“読まれた後の二手目”を持て。斥候に見られている迷宮は、一手では死ぬ”
余は、その一文をしばし見つめた。
斥候。
レネ。
やはり、他のロードから見ても、そこは重要なのだ。
「……ふむ」
余は新聞を閉じ、見取り図へ目を戻した。
一手目はできた。
湿り、細穴、鼠、茸、横圧、統率。
では二手目は何か。
次巻以降の課題が、もうそこに見え始めている。
そして、D昇格によって解放された新規要素の中でも、余の目を引いたのは“簡易取引欄”であった。
「取引、か」
《ロード間で低級素材、罠設計、魔物系統情報などの交換が可能です》
「危なくないのか」
《危険です》
「そうだろうな」
しかし、魅力的でもある。
罠設計図。
魔物の進化情報。
他迷宮の生態運用。
今の余が喉から手が出るほど欲しいものばかりだ。むろん、こちらも何か差し出さねばならぬのだろうが。
「……まだ売るものがないな」
《“継続妨害型の初期迷宮運営事例”には一定需要があるかもしれません》
「そんな湿っぽい売り出し方をするな」
だが実際、その通りかもしれぬ。
ゴブリンと鼠と茸と湿りでDまで上がった例など、低ランク帯にはそこそこ価値があるのではないか。
もちろん、それをそのまま出せば自分の弱点も知られる。
だから、まだ早い。
「取引は保留だ。だが、いずれ使う」
《妥当です》
いずれ。
そう、“いずれ”が増えた。
これまでは今日と明日を生き残るだけで精一杯だった。今は違う。先を見ている。先の選択肢を考えている。
それだけでも、王への一歩だ。
・
・
外界では三日後、湿臭洞窟の前に新しい杭が立てられた。
【危険区域】
Dランク相当迷宮・無許可侵入禁止
簡素な札だ。
だが、その意味は大きい。
この洞窟はもう、辺境のひよこ冒険者が肝試し半分で入る場所ではない。ギルド管理下の、明確な“脅威”になったのだ。
その札を見上げて、レネは少しだけ口元を歪めた。
「上がったわね」
「本当に育てちゃった感じがする」
ミーシャが横で言う。
「お前が言うな」
ハルドがあきれたように返す。
「俺たちで踏み台にしたようなもんだ」
「嫌な言い方」
「事実だ」
フィナは札と洞窟を見比べ、小さく祈るように指を組んだ。
「次は、どうなるんでしょう」
「さあな」
ハルドは肩をすくめる。
「ただ一つ言えるのは、次はもっと面倒だ」
「うん」
レネが頷く。
「たぶん、あれはもう次の形を考えてる」
その言葉には、奇妙な確信があった。
そして、その確信は正しい。
・
・
夜。
迷宮の中は静かだった。
戦いの傷はほぼ片づき、配下も持ち場へ戻り、鼠も新しい巡回経路に慣れ始めている。ポフキノコは数を戻し、グズは新入りを叱り飛ばしていた。
余は白い部屋で、新聞の“地域迷宮一覧”を開く。
そこには、本当に載っていた。
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【辺境地域迷宮一覧】
・朽縄井戸 C
・玻璃回廊 B
・灰冠墓所 B
・湿臭洞窟(仮称) D
・赤泥蟻穴 E
・他、略
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「……いた」
一覧の端。
確かに、余の迷宮がある。
名前はまだ仮称のまま。
湿臭洞窟。
ひどい。
だが、そこにある。
世界の迷宮の一つとして。
「管理音声」
《はい》
「迷宮名は、自分で決められるのか」
《一定条件の達成後、正式命名が可能です》
「まだか」
《まだです》
「そうか……」
少し残念だった。
湿臭洞窟のまま世に出るのは、やや不本意である。いや、かなり不本意だ。だが今はまだ仕方ない。名に見合うだけの迷宮になるのが先だ。
「よい。名は後だ」
《はい》
「それより今は、次の構造案だな」
余は見取り図を開く。
Dになって、拡張余地が増えた。
新しい魔物候補も解放された。
通路を伸ばすか、分岐を増やすか、居住区画と戦闘区画を分けるか、もっと継続妨害を尖らせるか。
やることが山ほどある。
怖さは消えぬ。
この先、もっと強い冒険者が来るだろう。本部も動くかもしれぬ。聖職者が増えるかもしれぬ。もっと苛烈な火が飛んでくるかもしれぬ。
それでも。
余はもう、ただ闇の中で目覚めて怯えていた頃の核ではなかった。
配下がいる。
構造がある。
勝ち筋がある。
新聞の向こうに世界があり、そこへ手を伸ばす術もある。
「……余は、育つぞ」
静かな迷宮の中で、その言葉は不思議なほどよく響いた。
誰に聞かせるでもない、ただの宣言。
だが、確かな意志のある宣言だった。
白い部屋の窓の向こう、グズが新入りを殴り、鼠が細穴を駆け、ポフキノコが湿った壁でふくらんでいる。
ひどい眺めだ。
実にひどい。
だが、その全部が、今の余には愛おしい。
愛情ではない。たぶん。
所有だ。
責任だ。
生存のための戦力だ。
そしていつか、王国と呼べるものになるかもしれぬ“余のもの”だ。
「来るがよい、次の敵」
余は、はっきりと笑った。
「次はもう少し、ましな歓迎をしてやる」
【辺境短信】
新興Dランク迷宮“湿臭洞窟(仮称)”が昇格。
初期運営としては異例の速度。
【小評】
・継続妨害型の構成か
・斥候付き侵入者への対応力あり
・今後の変化に注意
そして、その小さな記事を、世界のどこかで複数のロードが読む。
「へえ、辺境に面白いのが湧いた」
「湿臭いのは嫌ですわ」
「斥候相手に生きたなら、ちょっと見ものだな」
「まだDだろ」
「Dだから面白いんだよ。これからどう伸びるかが」
余はまだ知らぬ。
この小さな記事が、やがて新たな縁と敵意を呼ぶことを。
ロード同士の交流が、もっと深く、もっと危うく広がっていくことを。
そして、人間側もまた、この迷宮を“見過ごせぬもの”として認識し始めることを。
だが今はまだ、それでよい。
今夜だけは、Dランクへ上がった小さな迷宮の王として、少しだけ胸を張って眠ればよいのだ。
湿った洞窟の奥で。
白い部屋の静けさの中で。




