プロローグ Dランク指定
「……D、ですか」
部屋の空気は、湿ってはいなかった。
むしろ乾いている。古い木机、革張りの椅子、蝋の匂い、書類の紙粉。辺境ギルド支部の会議室は、洞窟とは正反対の、妙に現実的で味気ない空気に満ちていた。
その味気ない部屋の中央で、レネは机上の報告書を見下ろしていた。
報告書の見出しにはこうある。
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【辺境洞窟型迷宮・再評価報告】
仮称:湿臭洞窟
暫定脅威度:Dランク相当
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支部長代理のギードは、鼻の頭を指で押さえながらうめいた。
「本当にそこまで行くか? ただの辺境洞窟だぞ」
「ただの辺境洞窟なら、二度も変わりません」
レネは即答した。
「入口から新小部屋、さらに旧小部屋。構造変化あり。鼠の配置変更あり。胞子の使い方も前回と違った。統率個体も確認済み。継続妨害の構成思想がある」
「構成思想、ねえ……」
ミーシャが椅子に深く腰掛けたまま、面倒そうに天井を見た。
「嫌なのよね、その言い方がもう」
「だが的確だ」
ハルドが腕を組む。
「二度目までは“面倒な洞窟”だった。三度目で分かった。あれはもう、迷宮として戦ってる」
「聖属性の反応も、完全な下位邪性だけではありませんでした」
フィナが小さく言う。
「邪悪というより……運営、でしょうか」
「運営」
ギードはその言葉を繰り返し、ため息をついた。
「迷宮に対して使いたくない単語だが、分かるのが腹立たしいな」
会議室の壁には、このあたり一帯の地図が貼られていた。
街道、森、岩地、浅い沼地、古い採石場跡、忘れられた獣道。そして街から少し外れた位置に、小さな印で問題の洞窟が記されている。
湿臭洞窟。
ついこの前まで、そこは辺境の訓練にもなりきらぬような低脅威地点だった。運が悪ければ初級冒険者が少し怪我をする程度。少し気の利く者なら稼ぎ場にすらならぬと切り捨てるような場所。
それが今は、こうして会議室の中心にある。
「本部へ上げますか」
若い書記官が控えめに口を挟んだ。
ギードはすぐには答えなかった。
辺境支部にとって、本部照会は“負け”ではない。だが、面倒ではある。報告書の数は増える。判断権は減る。おまけに、あとからやってくる連中は大抵、現場を知らぬくせに偉そうだ。
それでも、上げるべき案件は上げるしかない。
「レネ」
「はい」
「お前はどう見る」
「照会は出すべきです」
レネは迷わなかった。
「ただし、即時大規模討伐までは不要」
「理由は」
「まだ若いからです」
「若い?」
ギードが眉をひそめる。
レネは報告書の余白に自分で書き込んだ短い文を指でなぞった。
【変化が早い】
【だが深追いしない】
【構造思想あり】
【殺傷の自信はまだ浅い】
「この迷宮は変化が速い。でも同時に、まだ完成もしてない」
「つまり」
「今しか見られない段階にある」
レネは淡々と言った。
「ここで本部の大編成を当てれば、壊れる可能性は高い。でも、それだと“何になる迷宮だったのか”が分からないまま終わる」
「お前、研究者みたいなことを言うな」
ミーシャが半眼になる。
「相手は洞窟よ」
「危険な洞窟だから知る価値がある」
「怖っ」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてない」
ハルドが小さく咳払いした。
「知る価値がある、はともかく。戦う側から言えば、今ならまだ壊せる。半年後は知らん」
「半年も待たない」
ギードは切って捨てるように言った。
「そんな猶予を与えるつもりはない」
「なら一度だけ、観測猶予を」
レネは食い下がった。
「流れの変化だけ追いたい」
「また行く気か」
「必要なら」
「必要なら、で済ませる顔かそれは」
「済ませる顔です」
ギードはしばらくレネを見ていたが、やがて重く椅子へ背を預けた。
「……分かった。本部照会は出す」
「はい」
「ただし、回答が来るまでの間は観測継続。再突入は支部判断の範囲で、無茶はするな」
「了解」
「お前一人の判断で踏み込むなよ」
「さすがにそこまでは」
「信用ならん」
「ひどい」
フィナが小さく手を挙げた。
「あの……」
「何だ」
「湿臭洞窟、という仮称なんですが……もう少し何か、ありませんか」
会議室が一瞬だけ静まる。
ミーシャが真顔で言った。
「ない」
「ないな」
ハルドも頷く。
「特徴を的確に表してる」
「不本意ですが」
レネも珍しく同意した。
「湿っていて臭うので」
「お前らな……」
ギードは目頭を押さえた。
「じゃあそのままでいい。正式名が分かるまで仮称は湿臭洞窟で通す」
「かわいそう」
ミーシャがぽつりと言った。
「誰がだ」
「洞窟が」
「同感です」
フィナまで頷いた。
ギードは書類の一番下へ判を押した。
朱の印が、乾いた音を立てる。
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【対象:湿臭洞窟(仮称)】
方針:監視継続/本部照会提出
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その赤い印を見ながら、レネは一瞬だけ視線を遠くへ向けた。
曇った空。
街の外れ。
湿った岩肌の裂け目。
暗い、狭い、嫌な洞窟。
だが今、あそこには確かに“主”がいる。
しかもただ怯えているだけの主ではない。考え、学び、変え、生き残ることに執着している主だ。
「……次に見る時、また変わってるかも」
レネが小さく呟く。
誰に聞かせるでもない声だったが、ハルドだけはそれを拾った。
「変わるさ」
「断言するのね」
「ああ。ああいうのは、変わる」
「嫌な確信」
「敵として見た時の勘だ」
「それ、だいぶ当たりそうで嫌」
ミーシャが顔をしかめた。
会議は散会となる。
紙が閉じられ、椅子が引かれ、靴音が部屋を出ていく。
だが、机上に残された報告書の「Dランク相当」という文字だけは、やけに重くそこに残り続けていた。
辺境の小さな洞窟は、もう誰にも「ただの穴」とは呼ばれない。
それだけは、確定していた。




