第134話 盗まれた箱は、闇市で目を開く
墓銭拾い(ぼせんひろい)は、逃げるのが上手かった。
正確には、逃げるためなら何でも捨てるのが上手かった。
仲間。
荷物。
道具。
足跡。
名乗り。
そして、責任。
霧灰白庭迷宮から逃げた四人は、正規の街道を使わなかった。
森を抜け、湿った谷へ下り、古い水路沿いに進み、途中で一度、靴を替えた。
さらに、封印袋を背負ったリスカが、何度も足跡消しの粉を撒いた。
普通の追跡者なら、途中で見失っていただろう。
だが、今回の追跡者は人間ではない。
墓銭札だ。
盗ませた箱に貼りつけた、霧灰白庭迷宮の黒い目。
それは、ムドとガリの手袋に貼りつき、ボルムの靴底に灰として残り、リスカの封印袋に戻り水の匂いとして沈んでいる。
見えない。
臭わない。
鑑定しても、ただの灰や汚れに見える。
だが、余には見えた。
白い部屋の床に、細い黒線が伸びている。
森を抜ける。
水路を下る。
街の裏手を迂回する。
そして、古い石造りの水門の下へ潜る。
「……そこか」
《闇市中継所と推定》
「中継所?」
《盗品の一次鑑定、分配、移送を行う場所です》
「店ではないのか」
《正規店舗ではありません》
「つまり盗人の巣だな」
《はい》
余は白い部屋の床を睨んだ。
そこには、墓銭札が拾った断片が映っている。
完全な視界ではない。
迷宮の外だ。
余の目は、外では鈍い。
だが、墓銭札、浅泥井戸の足跡記録、薄灯茸穴の胞子に乗った会話断片、それらを繋げれば、おおよそは見える。
薄暗い地下水路。
湿った石壁。
黒い布で覆われた台。
錆びた吊り秤。
壁際に積まれた盗品。
そして、その中央に置かれた封印袋。
中には、正式宝箱三号。
余の箱だ。
「……あれは余の箱だ」
《はい》
「盗まれた」
《意図的に盗ませました》
「分かっているが腹が立つ」
《正常です》
墓銭拾い四人は、水路の奥で足を止めた。
ボルムが袋を下ろす。
リスカが封印袋の紐を解く。
ムドとガリが周囲を見張る。
そこへ、もう一人現れた。
背の低い老人だった。
片目に黒い硝子をはめ、指には鑑定用の細い金属輪をいくつも巻いている。
歯が悪いのか、口元がゆがんでいた。
「遅い」
老人が言った。
ボルムは肩をすくめる。
「二人減った」
「減った分、取り分が増える」
「そう言うと思った」
「品は?」
リスカが封印袋を指で叩く。
「箱ごと」
老人の片目が光った。
「開けずに持ったのか」
「開ける時間がなかった」
「違うな」
老人は袋の前にしゃがんだ。
「開けずに持つ価値がある箱だと見たのだろう」
この老人、見えている。
「管理音声」
《はい》
「あれは何だ」
《外部情報照合中》
《対象推定:闇値鑑定士ラグ・エンザ》
「闇値鑑定士?」
《闇市において、盗品、禁制品、迷宮産素材を非公式に鑑定する者です》
「ユーファのような魔導鑑定士とは違うのか」
《技術体系が異なります。正確性よりも、売買可能性と追跡回避を重視します》
「嫌な職業だな」
老人、ラグ・エンザは、封印袋を直接開けなかった。
まず、黒い粉を周囲に撒く。
次に、銀色の針を袋の口に差し込む。
それから、小さな骨の札を三枚並べる。
「所有印は?」
ラグが問う。
リスカが答える。
「袋で消してる」
「迷宮宝箱の記録は、袋だけでは消えん」
「だからここへ持ってきた」
「賢い。だが遅い」
ラグは片目の黒硝子を軽く叩いた。
「この箱、もう何かを付けている」
ボルムが目を細める。
「呪いか」
「呪いなら安い。これは、目だ」
余は白い部屋で眉をひそめた。
「気づいたか」
《墓銭札の存在を疑っています》
「剥がせるか」
《不明》
「不明は嫌いだ」
ラグは、ムドとガリの手袋を見た。
「手を出せ」
「なんでだよ」
「持ったのはお前たちだろう」
二人が嫌そうに手を出す。
ラグは手袋の裏を見た。
墓銭札は見えない。
だが、老人は舌打ちした。
「灰がある」
「灰くらいあるだろ」
「違う灰だ。お前ら、もう見られている」
ムドとガリの顔が変わる。
「剥がせるか」
ボルムが問う。
「剥がすだけなら」
「なら剥がせ」
「ただし、痛いぞ」
ラグは黒い針を取り出した。
ムドが手を引こうとする。
ボルムがその腕を押さえた。
「やれ」
「待て、俺の手――」
針が刺さった。
ムドの手袋ではない。
皮膚の下。
見えない墓銭札が、手袋ではなく、すでに皮膚の魔力の薄皮へ貼り付いていたのだ。
「うわあああ!」
ムドが叫ぶ。
ラグは表情を変えず、針をねじった。
黒い煙が上がる。
墓銭札の一片が、灰のように剥がれ落ちた。
《墓銭札、一点破損》
「剥がされたか」
《はい》
「だが、見たな」
《闇値鑑定士ラグ・エンザを記録》
「よし」
ムドは指を二本押さえてうずくまった。
死んではいない。
だが、もうその手ではしばらく物を持てないだろう。
ボルムはそれを見ても顔を変えない。
「ガリもやれ」
「おい!」
「片方だけ見られてても意味がない」
ガリは逃げようとした。
だが、リスカが足を引っかけ、ボルムが肩を押さえた。
ラグの針が入る。
悲鳴。
黒い煙。
墓銭札がもう一片、剥がされる。
《墓銭札、二点目破損》
「二つ消えたか」
《はい》
「だが、リスカの袋とボルムの靴底は?」
《反応継続》
「よし」
ラグは、封印袋へ視線を戻した。
「袋にも付いているな」
リスカが顔をしかめる。
「剥がせる?」
「剥がすと袋の遮断機能が半分死ぬ」
「困る」
「なら、箱を出してから焼く」
「箱の中身は?」
「その前に、箱そのものを見る」
ラグは封印袋を開いた。
黒い布の口が広がる。
中から、正式宝箱三号が姿を現した。
白磁の外殻。
灰霧の縁。
戻り水の湿り。
蓋には、霧灰白庭迷宮の紋。
水路の薄明かりの中で、箱は静かに光っていた。
闇市の連中は、全員黙った。
墓銭拾いですら、その箱がただの箱ではないと分かったらしい。
ラグが低く呟く。
「正式宝箱だ」
ボルムの目が光った。
「やはりか」
「中身より箱だ。これは高い」
「売れるか」
「買い手はいる。だが、その前に迷宮の印を殺す」
余は笑った。
「殺せると思うか」
《鑑定返し準備可能》
「まだだ。見させろ」
ラグは黒硝子の義眼を箱へ向けた。
「闇値鑑定・黒秤」
青ではない。
白でもない。
黒い線が箱の上に走った。
ユーファの魔導鑑定とは違う。
価値を正しく見るのではない。
売れる部分を見る。
追跡される部分を見る。
危険すぎて買い手がつかない部分を見る。
それを、剥がすための鑑定。
気に入らない。
非常に気に入らない。
「鑑定返し」
《実行します》
正式宝箱の紋が、灰白に光った。
ラグの黒い鑑定線が、箱の中へ入ろうとする。
その瞬間、箱が見返した。
ただし、今回はユーファの時とは違う。
ユーファは価値を見ようとした。
だから、価値で焼いた。
ラグは売れる場所を見ようとしている。
なら、売れる場所を偽る。
《鑑定返し:闇値偽装》
ラグの黒硝子に、偽情報が映る。
箱の外殻が、実際より高く見える。
中身は低く見える。
墓銭札は、箱の底ではなく蓋の飾りに見える。
そして、最も危険な紋は、ただの装飾に見える。
ラグは眉をひそめた。
「……外殻が高い。中身は並。蓋の飾りに呪いがある」
ボルムが問う。
「剥がせるか」
「飾りごと削ればいい」
「削れ」
「中身は?」
「後だ」
よし。
引っかかった。
ラグは、蓋の飾りを削るための刃を取り出した。
それは、実際には危険な場所ではない。
削っても構わない。
むしろ、削れば箱の正式宝箱としての外見が少し壊れる。
闇市での価値は下がる。
だが、霧灰白庭迷宮の記録機能は、底と取っ手に残っている。
「削れ」
余は呟いた。
「自分たちで値を下げろ」
ラグが蓋の飾りを削る。
白磁片がぱらぱらと落ちる。
ボルムが舌打ちする。
「見た目が悪くなる」
「呪い付きより売れる」
「本当に呪いか」
「そう見えた」
フィルエが、静かに言った。
「ロード、あの鑑定士、完全には騙されてない」
「分かるか」
「うん。疑ってる。でも、今は誤認を採用してる」
「つまり?」
「もう一回見られたら危ない」
「では、もう一回見る前に中身を出させる」
ラグは蓋を開けた。
中には、白銀磁片の小片、影糸巻き、灰白採取物の詰め合わせが入っている。
闇市の空気が変わった。
ムドとガリの痛みの声も止まる。
リスカの目が細くなる。
ボルムが、箱ではなく中身を見た。
やはり、人間は宝を見る。
どれだけ汚い人間でも、そこは変わらない。
「白銀磁片」
ラグが言った。
「小さいが本物だ」
「影糸巻きは」
「罠師が欲しがる。灰白の小片はまとめれば売れる」
「買い手は?」
「二種類いる。錬金術師と、盗み専門の罠師」
「値は」
「全部で金貨二枚。箱ごとなら金貨五枚。だが、追跡臭を消し切れたらの話だ」
ボルムが低く笑った。
「やはり当たりか」
「当たりだ。だが、長く持つな」
「なぜ」
「箱が、こちらを覚えている気がする」
勘が良い。
嫌な老人だ。
だが、もう遅い。
箱は覚えた。
ラグを。
ボルムを。
リスカを。
ムドを。
ガリを。
水路の場所を。
黒い吊り秤を。
闇市の匂いを。
《闇市中継所、位置記録完了》
《墓銭札残存反応:リスカ封印袋、ボルム靴底》
《正式宝箱三号、外部接触情報を取得》
「よし」
余は白い部屋で笑った。
「十分だ」
《次の行動は》
「まだ潰さない」
《理由は》
「闇市は宝を広げる。正規ギルドとは別の口だ」
《危険です》
「分かっている。だが、口は多い方が噂は育つ」
フィルエが少し心配そうに言った。
「闇市に流すの?」
「全部ではない。流れを見たい」
「危ないよ」
「だから墓銭札を付けた」
「それでも」
「分かっている」
余は床の黒線を見た。
闇市。
盗人。
非正規の買い手。
ギルドに報告されない宝の流れ。
これは危険だ。
だが、使える。
正規冒険者を呼ぶ噂とは別に、闇の欲を呼べる。
墓銭拾いのような連中が来る。
死体剥ぎ。
箱盗み。
卵盗り。
罠素材泥棒。
それらに対応する罠も作れる。
迷宮は、また一つ学ぶ。
《報告》
「何だ」
《外部闇市にて、正式宝箱三号の分解が試行されます》
「分解?」
《箱を箱として売らず、外殻、紋、底材、影糸、金具に分ける可能性があります》
「ふざけるな。余の箱をばらす気か」
《はい》
急に腹が立った。
盗むのはいい。
いや、よくはないが、こちらも盗ませた。
だが、箱を分解する?
余の正式宝箱を、外殻だの金具だのにばらして売る?
「管理音声」
《はい》
「分解されたらどうなる」
《正式宝箱としての機能は失われます。ただし、墓銭札と取得記録の一部は残留します》
「なら、分解前に一つ仕掛けろ」
《何を》
「箱を解体しようとした者に、次の箱を欲しがらせる」
《具体的には》
「蓋の内側に、宝物室の一部を見せろ。偽の映像でいい」
《宝物庫誘引映像ですか》
「そうだ。もっと大きな箱。もっと深い白い部屋。金貨ではなく、人生が変わる宝。そう見せろ」
《闇市側の関心が急上昇します》
「それでいい」
《危険です》
「危険は承知だ。だが、これ以上あいつらに箱を雑に扱わせるのは腹が立つ」
フィルエがぼそりと言った。
「私情が混ざってる」
「混ざっている」
「認めた」
「余の箱だぞ。壊されるのは腹立たしい」
正式宝箱三号の蓋の内側で、霧灰白庭迷宮の紋が淡く光った。
ラグが再び箱を覗き込む。
その瞬間、蓋の裏に映像が走った。
白い宝物室。
灰霧に包まれた棚。
戻り水の小瓶。
白銀磁片より大きな銀白の塊。
影糸が巻かれた高位罠具。
そして、奥にある閉じた宝箱。
もちろん、全部本物ではない。
一部は本物。
一部は予定。
一部は虚像。
だが、闇値鑑定士ラグの目には、見えた。
もっと奥がある、と。
もっと価値がある、と。
ラグの呼吸が少し変わった。
「……ボルム」
「何だ」
「この箱、浅い」
「浅い?」
「これは入口だ。あの迷宮、もっと深い宝物室を持っている」
ボルムの目が変わった。
リスカも封印袋を握り直す。
ムドとガリは、痛む手を押さえながらも耳をそばだてている。
「盗れるか」
ボルムが聞いた。
ラグは、口元を歪めた。
「普通には無理だ」
「なら?」
「箱を開けるんじゃない。宝物室ごと抜く道具が要る」
余は、その言葉を聞いた。
宝物室ごと抜く道具。
何だ、それは。
だが、面白い。
闇市は、正規冒険者とは違う道具を持っている。
危険だ。
だが、見たい。
「管理音声」
《はい》
「記録したか」
《はい》
「宝物室ごと抜く道具。詳細を追え」
《承知しました》
「墓銭拾いを再誘導する。次は、あいつらに宝物室を狙わせる」
《危険度が高いです》
「だから、罠を作る」
余は笑った。
墓銭拾いは、宝箱を開けなかった。
ならば次は、宝物室を盗もうとする。
そんな馬鹿げた発想をする人間がいるらしい。
なら、こちらも用意しよう。
盗めそうな宝物室を。
そして、盗もうとした瞬間、盗人の根城ごと見つける罠を。
「次の部屋の名は決まった」
《どうぞ》
「盗ませ宝物庫」
《名称が直接的です》
「分かりやすい方がよい」
《仮登録します》
フィルエが小さく笑った。
「ロード、楽しそう」
「楽しい」
「危ないよ」
「危ないから、楽しいのだ」
白い部屋の床で、黒い線がさらに奥へ伸びていく。
闇市中継所から、別の地下へ。
買い手へ。
盗品を扱う罠師へ。
そして、まだ見ぬ闇市の奥へ。
墓銭拾いは、余の箱を盗んだ。
その箱は、闇市で目を開いた。
そして今、余は闇市の喉元を見つけ始めている。
「さあ、墓銭拾い」
余は、白い部屋の中央で告げた。
「次は、宝物室を盗みに来い」
正式宝箱三号の蓋裏で、偽の宝物室がゆっくり光った。
「その手ごと、余が持ち帰ってやる」




