第122話 白い箱は、町で開く
ニル・カートは、町へ戻るまで白灰匣を開けなかった。
仲間たちは何度も言った。
「少しくらい見てもいいだろ」
「中身が空だったらどうすんだよ」
「罠が残ってたら町の中の方がまずいんじゃねえか?」
だが、ニルは首を横に振り続けた。
「町で開ける」
「なんでだよ」
「ここで開けたら、取り合いになる」
そう言うと、誰も反論できなかった。
実際、六人の視線はずっと白灰匣に吸い寄せられている。
泥まみれの白い小匣。
灰色の継ぎ目。
影のような細い封。
そして隙間から漏れる、銀色の光。
それはもう、ただの箱ではなかった。
霧灰白庭迷宮――人間たちがまだその正式名を知らない、白庭化した旧迷靄洞から持ち帰った“証拠”だった。
町へ入る頃には、彼らは泥と灰でひどい姿になっていた。
前衛の片足鎧は失われ、弓使いの靴紐は戻り水に濡れて変色し、魔術師の短杖には白い霧の残滓がこびりついている。
その姿を見た門番は、目を丸くした。
「お前ら……旧迷靄洞に入ったのか」
「浅いとこだけだ」
前衛が息を荒くしながら答える。
「浅いとこでそれかよ」
「浅いとこでこれだよ」
弓使いが吐き捨てた。
「ネズミに矢筒をやられた。泥に足鎧を持っていかれた。霧が後ろから来た。箱があった。箱があったんだよ、本当に」
その声が大きかったせいで、周囲の冒険者たちが振り返った。
「箱?」
「白い箱か?」
「この前、白い花の欠片が出たってやつか?」
噂はすでに育っていた。
ニルは黙って歩いた。
箱を抱えたまま、冒険者ギルドではなく、まず素材商の店へ向かう。
ギルドへ持ち込めば記録される。
記録されれば、税と報告と面倒が増える。
だが、素材商なら先に値を見ることができる。
それを見てから、どう報告するか決めればいい。
ニルはそう考えていた。
だが、その慎重さも完全ではなかった。
白灰匣を抱えて町中を歩けば、目立つ。
泥まみれの冒険者が、白い箱を抱えている。
しかも、その箱から銀色の光が漏れている。
見られないわけがなかった。
◇
素材商の店主は、最初こそ眉をひそめた。
「またお前か」
ニルは白灰匣を台の上に置いた。
「鑑定してくれ」
「その前に、店の床を汚すなと言いたいが……」
店主の視線が、箱に止まる。
白磁の外殻。
灰霧の継ぎ目。
影のような封。
戻り水を吸った底。
店主の顔つきが変わった。
「どこで拾った」
「旧迷靄洞」
「奥か?」
「浅層の奥」
「浅層の奥、ねえ」
店主は奥へ声をかけた。
「鑑定板を出せ。あと、遮断布。念のため聖水は置くな。白磁系なら反応が乱れる」
奥から若い店員が慌てて道具を持ってくる。
その間にも、店の外には人が集まり始めていた。
冒険者。
素材屋。
商人。
ただの野次馬。
その中には、ギルドの記録係もいた。
ニルは嫌な顔をした。
「見世物にする気はない」
店主は箱を見たまま答えた。
「もうなってる」
「……」
「開けるぞ」
ニルは頷いた。
店主は直接手で触れなかった。
長い金属棒で封の端を探り、白磁の蓋を少しずつ持ち上げる。
周囲が静かになる。
誰かが唾を飲む音がした。
蓋が開いた。
中から、白い霧は出なかった。
毒も、刃も、叫び声もない。
代わりに、銀色の小片が一つ、白灰匣の底に置かれていた。
親指の爪ほどの大きさ。
薄い。
だが、光を受けると白くも銀にも見える。
まるで、白磁の骨に銀の血管が通っているような素材だった。
店主は息を止めた。
「……触るな」
弓使いが思わず伸ばしかけた手を引っ込める。
店主は鑑定針を使い、銀色の小片に触れた。
針の先から、細い光が走る。
鑑定板に線が浮かぶ。
白磁。
灰霧。
水脈。
金属魔力。
そして、微量だが非常に質の高い戦闘魔力。
店主の顔から、冗談が消えた。
「これは……魔力伝導材だ」
「高いのか」
前衛が身を乗り出す。
「高い」
店主は短く答えた。
その言葉だけで、店の外がざわついた。
「どれくらいだ」
ニルが聞く。
店主はもう一度鑑定板を見た。
「銀貨では数えない」
空気が変わった。
弓使いが目を見開く。
「じゃあ……金貨か?」
「金貨三枚」
誰かが小さく叫んだ。
前衛が固まる。
魔術師の女が、息を呑む。
ニルは、何も言わなかった。
店主は続けた。
「ただし、これは小片だ。量は少ない。だが魔道具の芯に混ぜれば、低級品なら一段上げられる。白磁系の清浄性があるのに、灰霧と水の反応もある。普通は混ざらない性質だ」
「旧迷靄洞でしか出ないのか」
外から誰かが聞いた。
店主は顔を上げた。
「今のところ、俺は見たことがない」
ざわめきが広がる。
白庭化した旧迷靄洞。
銀刻の五人が帰らなかった迷宮。
入口で装備を齧る赤い牙のネズミがいる迷宮。
霧の中からロードの声がするという、馬鹿げた噂のある迷宮。
その浅層奥から、金貨三枚の素材が出た。
十分だった。
それだけで、人間の欲は燃える。
店主は白銀磁片を遮断布に包みながら言った。
「売るか?」
仲間たちが一斉にニルを見た。
金貨三枚。
Cランク冒険者にとっては、しばらく命を繋げる額だ。
装備を整え直せる。
借金も返せる。
安宿からまともな宿へ移れる。
危ない依頼を何度か断れる。
ニルは白銀磁片を見ていた。
そして、首を横に振った。
「売らない」
「はあ!?」
前衛が声を上げる。
「金貨三枚だぞ!」
「売らない」
「何考えてんだよ!」
「これは、まだ上がる」
ニルの声は静かだった。
「今日売れば金貨三枚だ。でも、明日になれば、もっと欲しがるやつが出る」
店主が口元を歪めた。
「勘は悪くないな」
「それに、これは証拠だ」
「証拠?」
「旧迷靄洞の奥に、もっと高いものがあるかもしれない証拠」
外の冒険者たちが黙った。
ニルは白銀磁片を布ごと受け取り、懐へしまった。
「今日は売らない。鑑定料は払う」
店主は少し考えた後、頷いた。
「鑑定料は銀貨五枚だ」
「高い」
「金貨三枚の素材を見せたんだ。安いくらいだ」
ニルは苦い顔で銀貨を払った。
その手が震えているのを、何人もの冒険者が見た。
怖いのだ。
その迷宮が怖い。
だが、手放せないほどの宝を持っている。
それを見た者たちは、同じことを考えた。
次は、自分が。
もっと奥へ行けば。
もっと大きな箱があるのではないか。
◇
白い部屋で、余はその光景を見ていた。
正確には、直接見ているわけではない。
外で広がった噂、白銀磁片の鑑定反応、浅泥井戸から届いた人間の足跡記録、薄灯茸穴の胞子に乗って戻った会話の断片。
それらを管理音声が繋ぎ合わせ、壁面に再現している。
便利だ。
かなり便利だ。
「売らなかったか」
《はい》
「なぜだ」
《価値上昇を見込んだためと思われます》
「欲深いな」
《はい》
「非常によい」
余は笑った。
ニル・カート。
あれはただの生還者ではなくなりつつある。
宝を持ち帰る者。
宝の価値を吊り上げる者。
恐怖を知りながら、次の探索を考える者。
つまり、広告塔としてかなり優秀だ。
「フィルエ」
「うん」
「あれは売らなかったぞ」
「うん。そうすると思った」
「なぜだ」
「売るより、持っていた方が強いから」
「素材がか?」
「話が」
フィルエの言葉に、余は少し黙った。
話が強い。
つまり。
金貨三枚で売れた素材、では終わらない。
金貨三枚でも売らなかった素材、になる。
その方が、人間は欲しがる。
あの迷宮には、金貨三枚でも売れない何かがある。
そういう話になる。
「人間の欲は、かなり扱いやすいな」
「扱いやすいけど、増えすぎると面倒」
「分かっている」
《外部噂、急速拡大中》
「読め」
《白庭化した旧迷靄洞の浅層奥に、金貨三枚相当の銀白素材が存在》
「よし」
《素材所有者ニル・カートは売却を拒否》
「非常によし」
《中身を町で開けたため、複数の目撃者あり》
「最高だ」
《今後、Cランク以上の冒険者流入が増加する可能性》
「望むところだ」
《Bランク冒険者の関心も発生》
「……少し早いな」
《高価値素材のためです》
余は考えた。
Cランクならよい。
Dランク以下は入口で帰す。
Cランクは浅層から中層へ誘導する。
Bランクは、まだ早い。
こちらの白灰匣運用は試験段階だ。
正式な宝物庫機能は未解放。
夜棺白庭は秘匿中。
フィルエは回復中。
ヴェルグレイヴは絶対に起こさない。
となると、Bランクが集団で来るのは、少し面倒だ。
「管理音声」
《はい》
「Bランク以上が来た場合、白銀磁片の噂は少し薄めろ」
《どのように?》
「浅層で取れるのは小片だけ。大きなものはない、と流せ」
《外部情報操作は限定的です》
「できる範囲でよい。薄灯茸穴の匂い消し菌糸を商人の倉庫側へ流せるか」
《直接的な操作は困難ですが、素材の匂いを弱めることは可能です》
「なら、白銀磁片の反応を少し鈍らせろ。金貨三枚から、次の鑑定では金貨二枚半くらいに揺らせ」
《価値の不安定化ですね》
「そうだ。欲を煽りすぎるな。今はCランクを育てる」
《迷宮側による冒険者育成方針を確認》
「育成ではない。餌場の管理だ」
《訂正します》
フィルエが小さく笑った。
「もう完全に育ててるよ」
「黙れ。寝ていろ」
「うん」
壁面には、白灰匣の実績値が浮かんでいた。
⸻
白灰匣運用記録
一号:白磁花片
結果:外部売却成功。銀貨四十八枚相当。
効果:浅層宝箱の噂発生。
二号:灰霧封じの小瓶
結果:半量使用後、外部持ち帰り。未売却。
効果:迷宮産魔道具への関心発生。
三号:白銀磁片
結果:外部鑑定成功。金貨三枚相当。未売却。
効果:高価値報酬の存在が複数者に目撃される。
総合評価:
独自報酬構造、実績上昇。
生還者ニル・カートの再侵入可能性、高。
⸻
「良い」
《はい》
「だが、箱だけでは足りぬな」
《理由は?》
「人間が箱だけを目当てにすると、箱だけ探して帰る」
《それは想定されます》
「なら、箱に至るまでの道にも価値を置く」
《具体的には》
「小さな拾得物だ。白磁花粉の結晶、灰霧を吸った布切れ、赤錆噛みの抜け牙、影糸の切れ端」
《迷宮独自産品の自然発生を装いますか》
「そうだ。宝箱以外にも拾えるものがあると思わせる」
《危険度と探索時間が増加します》
「探索時間が伸びれば、迷宮は人間をよく観察できる」
《はい》
「だが、拾い物に夢中になる者は死ぬ」
《はい》
「それでいい」
余は白い部屋に新しい浅層配置を作った。
見つけやすい白磁花片。
見つけにくい影糸。
拾おうとすると赤錆噛みが近づく錆びた金具。
何でもないように見えるが、錬金術師には価値がある灰霧石。
それらを浅層に散らす。
多すぎず。
少なすぎず。
人間が「もう少し探そう」と思う程度に。
《浅層採取物配置、仮設定》
「よし」
《名称を設定しますか》
「名称?」
《迷宮独自産品群の分類名です》
余は少し考えた。
霧灰白庭迷宮の産物。
白磁庭園由来の白。
迷靄洞由来の灰。
そこに、死と泥と糸と錆が混じる。
「灰白採取物」
《灰白採取物、登録》
「安直だな」
《あなたが設定しました》
「言うな」
そこで、白い部屋の外から騒ぎ声が聞こえた。
またゴブリンか。
余は嫌な予感を覚えながら、壁面を切り替える。
浅層準備区画。
そこに、通常ゴブリンが五匹いた。
目の前には、配置前の灰白採取物。
白磁花粉の結晶。
影糸の切れ端。
赤錆噛みの抜け牙。
灰霧石。
ゴブリンたちは、それをじっと見ていた。
「食うな」
余は先に言った。
ゴブリンたちがびくりとした。
「食うな。これは冒険者に拾わせる物だ」
「ギ……」
一匹が、白磁花粉の結晶を指でつついた。
「食うな」
「ギギ……」
別の一匹が、赤錆噛みの抜け牙を嗅いだ。
「食うなと言っている!」
そこへマネの声が重なった。
『食うなと言っている!』
「お前も来るな!」
『お前も来るな!』
「だから!」
《ゴブリン群、灰白採取物への食欲反応あり》
「何でも食うな! お前たちは本当に、苔スライムとポフキノコを食い尽くしただけでは飽き足らんのか!」
フィルエが、ぼそりと言った。
「また言ってる」
「また言う! あれは損失だった!」
《苔スライム、ポフキノコは現時点で実戦投入可能な群生数なし》
「知っている!」
余は深く息を吐いた。
宝を置く前に、まず配下に宝を食わせない仕組みが必要だ。
本当に、迷宮運営は難しい。
「管理音声」
《はい》
「灰白採取物にも苦味をつけろ。ゴブリンだけが嫌がる味だ」
《冒険者が舐めた場合は?》
「冒険者も舐めるのか?」
《稀に》
「人間もゴブリンも、どうしてまず舐める」
《確認行動の一種です》
「理解したくない」
とにかく、灰白採取物を登録する。
白灰匣だけではない。
浅層に落ちる小さな価値。
拾えば少し得をする。
拾いすぎれば遅くなる。
遅くなれば、迷宮が追いつく。
良い。
実に良い。
《報告》
「今度は何だ」
《外部ギルド側に白銀磁片の情報が届く可能性があります》
「当然だろう」
《ギルドは危険指定強化と同時に、採取制限または専属調査隊派遣を検討する可能性があります》
「宝が出ると、ギルドも絡むか」
《はい》
「冒険者個人だけではなく、組織も来る」
《はい》
「面倒だな」
《はい》
だが、これも必要だ。
Aランクへ至るには、外部に価値を認めさせる必要がある。
危険と価値。
両方を持つ迷宮。
それが高位迷宮だ。
余は、ニル・カートが去っていった方角を見た。
あの箱が開いた。
値が付いた。
売られなかった。
それだけで、人間たちの欲は火を得た。
「管理音声」
《はい》
「ニル・カートを生還者候補から、継続誘導対象へ変更」
《危険です。個人への過度な誘導は予測不能な行動を招きます》
「分かっている。殺さぬ保証はしない。ただ、見ておく」
《登録します》
⸻
継続誘導対象:ニル・カート
分類:Cランク斥候
状態:霧灰白庭迷宮より三度生還
保持品:灰霧封じの小瓶残量半分、白銀磁片入り白灰匣
特徴:恐怖認識あり。罠観察能力上昇中。欲と警戒の両立。
利用価値:外部噂形成、報酬価値流通、生還者証言。
⸻
「よし」
余は頷いた。
人間を完全に信じるつもりはない。
だが、利用できるなら利用する。
宝も。
噂も。
恐怖も。
生還者も。
すべて、迷宮の餌になる。
白い部屋の奥で、夜棺白庭は静かに眠っている。
フィルエの森灰観測室からは、穏やかな呼吸が聞こえる。
グズは入口で泥を練っている。
帰路喰らいの落武者は、出口ではなく帰り道そのものを見ている。
そして、浅層には小さな宝が散り始めた。
「次は、拾わせる」
余は言った。
「箱を開ける者だけでなく、床を見る者も、壁を見る者も、泥に手を入れる者も、欲で迷わせる」
《浅層採取型報酬構造、試験開始》
白い部屋の床に、新しい表示が浮かぶ。
⸻
迷宮独自報酬構造:試験段階二へ移行
要素:
・白灰匣
・灰白採取物
・生還者証言
・外部鑑定価値
・恐怖噂
・再侵入誘導
進行度:上昇中
⸻
余は静かに笑った。
宝箱は、もう置いた。
値札も付いた。
噂も走った。
次は、冒険者どもが勝手に考える番だ。
どこまでなら行けるのか。
どれを拾えば儲かるのか。
どこで引けば生き残れるのか。
そう考えながら入ってくる。
その考えごと、余は喰う。
「来い」
余は白い部屋の中で呟いた。
「今度は、床に落ちた小さな欲から拾わせてやる」




