第121話 白銀磁片は、湿地の底で光る
ニル・カートは、三度目に戻ってきた。
予想より早かった。
「……早いな」
《前回侵入から二日です》
「人間はもっと休め」
《通常は休みます》
「なら、なぜ戻る」
《欲があるためです》
「便利な言葉だな、欲」
《迷宮運営上、極めて重要です》
白い部屋の壁面に、外縁の森が映っていた。
霧の外側。
湿った土の上。
そこに六人の冒険者が立っている。
前回より一人多い。
そして、装備が少しだけ良い。
盾の金具は新しい。
弓使いは予備の矢筒を二つ持っている。
前衛は泥よけの革巻きを足に巻いている。
魔術師らしき女が一人、短杖を持っていた。
そして、ニル・カート。
痩せた斥候。
怖がり。
だが、見て、考え、戻ってくる人間。
彼の腰には、灰霧封じの小瓶があった。
半分使った、劣化版の宝。
売らずに持ってきた。
「フィルエ」
「うん」
「あれは、かなり良い広告塔ではないか」
「うん。もう広告塔になってる」
「なっている?」
「外で話してきた。箱の中身を売らずに持ってる。だから、周りは思う。売るより使う価値があるんだって」
「なるほど」
余は頷いた。
白磁花の欠片は、値段を付けた。
灰霧封じの小瓶は、命を助けた。
この二つの噂が合わされば、こうなる。
霧灰白庭迷宮には宝がある。
その宝は金になる。
その宝は、次の探索で命綱にもなる。
非常に良い。
非常に悪質で、非常に良い。
「三つ目を出す」
《白銀磁片入りの白灰匣ですね》
「ああ」
《高価値報酬です。生還率低下が予測されます》
「だから湿地に置く。行くか、引くか、選ばせる」
《戻り水湿地、開放します》
迷宮図が切り替わる。
灰霧回廊のさらに奥。
白磁床が途切れ、泥と戻り水が混じる湿地がある。
昔の迷靄洞らしい湿った腹に、白磁庭園の白い破片が沈んでいる場所だ。
そこは美しくない。
白磁の清浄さもない。
ただ、泥の奥に白い光がちらちらと見える。
宝が沈んでいる、と一目で分かる。
だが、取るには踏み込むしかない。
そして、踏み込めば足を取られる。
まさに宝箱向きだ。
「白灰匣を湿地の中央へ」
《配置します》
泥の中に、白磁の小匣が沈んだ。
完全には沈めない。
蓋の白い角だけを見せる。
その隙間から、微かに銀色の光が漏れる。
白銀磁片。
白磁素材に、銀刻の五人由来の金属を極微量混ぜて再構成した希少素材。
魔力伝導率が高い。
外の魔道具職人や錬金術師が見れば、まず欲しがる。
だが、銀刻の刻印は潰してある。
由来は分からない。
分かるのは、霧灰白庭迷宮でしか得られない、ということだけ。
「価値は?」
《白磁花片の十倍以上》
「高すぎるな」
《高価値報酬です》
「よし」
《よろしいのですか》
「よい。高すぎる宝を一つ置くから、人間は奥を夢見る」
余は湿地図へ指示を重ねる。
「グズの泥は使うな」
《なぜですか》
「グズを使うと殺意が強すぎる。今回は湿地そのものにやらせる」
《戻り水による沈降調整を行います》
「ああ。膝まで沈めろ。腰までは沈めるな。慌てれば腰まで沈めていい」
《了解》
「赤錆噛みは二体。だが宝を持った者ではなく、助けに来た者の金具を噛め」
《救助行動への圧力ですね》
「そうだ」
「性格が悪い」
フィルエがぼそりと言った。
「迷宮だからな」
「最近、それ便利に使ってる」
「便利な言葉は使うべきだ」
外縁の冒険者たちが動き出した。
今回は、入口で浮かれていた者はいない。
ニルが先頭ではない。
先頭には盾役の男。
次に前衛。
中央に魔術師と弓使い。
後ろにニル。
最後尾にもう一人、荷物持ち兼短剣使い。
隊列らしい隊列になっている。
前回、入口で痛い目を見たせいだ。
良い。
恐怖は、形になる。
「入口選別は軽めでいい」
《低ランク撤退用の牙跡、泥滑り、赤錆噛み威嚇を低出力で維持します》
「よし。今回はニルたちを湿地まで通す」
《承知しました》
冒険者たちは入口を越えた。
前回のような悲鳴はない。
ニルが止まり、壁を見る。
霧を見る。
足元を見る。
そして、仲間へ小さく指示を出す。
「声は信用するな。足跡は信用しすぎるな。箱は正面から開けるな。泥に落ちた金属は諦めろ」
「最後、嫌だな」
「拾いに行くと食われる」
余は少しだけ感心した。
「学習している」
《はい》
「こちらも学習する」
《はい》
灰霧回廊の二つ目の白灰匣は、空にしておいた。
前回開けられた場所に、似たような箱を置く。
ただし中身はない。
蓋を開けても、灰霧は出ない。
代わりに、箱の内側に薄い文字が浮かぶ。
白磁の線で刻まれた、迷宮語ではない。
人間にも読める簡単な印。
――奥。
それだけだ。
「性格が悪い」
フィルエがもう一度言った。
「誘導だ」
「うん。悪い誘導」
ニルたちは箱を見つけた。
前衛が眉をひそめる。
「また箱だ」
ニルが周囲を確認し、今回はずいぶん時間をかけた。
罠を探る。
糸を探る。
床下を調べる。
箱を叩く。
最後に蓋を開ける。
空。
「……空?」
仲間が落胆する。
しかしニルだけが、内側の文字を見た。
「奥」
「は?」
「奥にあるってことだ」
「迷宮がそう言ってるんだぞ。罠だろ」
「罠だ」
ニルは短く答えた。
「でも、何かはある」
欲と警戒が、同時に声へ混じっていた。
よし。
進め。
迷え。
そして、選べ。
ニルたちは奥へ進んだ。
灰霧が薄くなる。
白磁の床が途切れる。
代わりに、湿った泥が現れる。
戻り水湿地。
空気が重くなる。
足音が鈍くなる。
白い破片が泥の中で光っている。
人間の目には、危険な場所に見えるだろう。
そして、宝のある場所にも見えるだろう。
「あそこ」
弓使いが囁いた。
湿地の中央。
白灰匣の角が見えている。
そこから、銀色の光が漏れている。
露骨ではない。
だが、十分だ。
「戻るぞ」
荷物持ちが即座に言った。
「ここは駄目だ。足場が死んでる」
「でも、見えてる」
前衛の声が少し熱を帯びた。
「見えてるから罠なんだよ」
ニルが言う。
しかし、その目も箱から離れていない。
フィルエが静かに言った。
「迷ってる」
「取るか?」
「取る」
「なぜ分かる」
「もう見ちゃったから」
恐ろしい言葉だ。
人間は、宝を見た時点で半分負けている。
ニルは腰の灰霧封じの小瓶に触れた。
霧対策。
泥には効かない。
それを彼も分かっている。
だから、腰の縄を取り出した。
「俺が行く。腰に縄を結べ。沈みすぎたら引け」
「本気かよ」
「本気じゃなきゃ来てない」
「沈んだら?」
「引け」
「引けなかったら?」
「諦めろ」
余はその会話を聞き、少しだけ黙った。
「自分の死に方を先に決めているな」
《高い生還適性です》
「腹立たしいが、有用だ」
ニルは縄を腰に巻き、湿地へ入った。
一歩。
泥が足首を呑む。
二歩。
膝まで沈む。
三歩。
戻り水が靴の中へ染み込む。
ニルの顔が歪む。
「冷たい」
冷たいだけではない。
戻り水が、足の位置を覚えている。
沈み方を覚えている。
どこで慌てたかを覚えている。
次に来た時、同じ人間をもっと深く沈めるために。
「管理音声」
《はい》
「記録しろ」
《ニル・カートの沈降反応を記録中》
ニルは箱へ近づいた。
仲間が縄を握る。
弓使いが震える。
魔術師の女が足場を固める術式を唱えようとする。
「やめろ」
ニルが止めた。
「魔術を使うな。泥がどう反応するか分からない」
正しい。
使えば泥を動かした。
非常に正しい。
非常に腹立たしい。
ニルは白灰匣へ手を伸ばした。
その瞬間、泥の中から泡が立つ。
白灰匣の周囲だけが、わずかに沈む。
箱を取ると、足場も沈む。
それくらいは当然だ。
「来るぞ」
ニルが言った。
「引け。少しだけ」
仲間が縄を引く。
ニルの体がわずかに後ろへ戻る。
その状態で、彼は棒の先を箱の取っ手に引っかけた。
慎重だ。
慎重すぎる。
「赤錆噛み」
《待機中》
「今はまだだ」
ニルは箱を引いた。
ずるり、と泥が鳴る。
白灰匣が湿地から抜ける。
その瞬間、箱の下に隠していた灰色の水袋が破れた。
戻り水が広がる。
泥が柔らかくなる。
ニルの片足が一気に沈んだ。
「引け!」
仲間が縄を引く。
弓使いが叫ぶ。
前衛が足を踏ん張る。
その足元に、赤錆噛みを一体だけ出した。
狙いは縄ではない。
前衛の足鎧の留め金。
かり。
一噛み。
前衛の踏ん張りが崩れた。
「うおっ!」
縄が緩む。
ニルの体がさらに沈む。
「ニル!」
「引け! 留め具を捨てろ! 足鎧を外せ!」
ニルが叫ぶ。
沈みながら、まだ指示を出す。
前衛は足鎧を外した。
泥に沈む。
赤錆噛みはそれを嬉しそうに齧り始める。
追わない。
縄は張り直された。
ニルの体が、少しずつ泥から引き戻される。
だが、白灰匣はまだ彼の手元にある。
「離せば楽だぞ」
余は呟いた。
ニルは離さなかった。
泥まみれの手で、白灰匣を抱えている。
欲か。
意地か。
恐怖か。
全部か。
仲間たちが引く。
ニルが湿地から転がり出る。
咳き込み、泥を吐き、白灰匣を抱えたまま倒れた。
生きている。
「……やった」
弓使いが呟いた。
「開けるな」
ニルは泥の中で言った。
「ここでは、開けるな」
また正しい。
だが、箱は開けたくなる。
人間ならば開けたくなる。
仲間の一人が手を伸ばしかける。
ニルがその手を掴んだ。
「開けたら置いていく」
「……分かったよ」
よし。
余は笑った。
開けずに持ち帰る。
これはこれでよい。
中身が分からないまま帰る。
開けたいという欲を、外まで持って帰る。
酒場か、素材屋か、ギルドか。
そこで開ける。
人が見ている前で。
白銀磁片が光る。
価値が付く。
噂になる。
実に良い。
《追撃しますか》
「しない」
《赤錆噛み、追加で出せます》
「出すな。今は逃がす」
《はい》
「ただし、帰路に一度だけ背後で泥を鳴らせ。走らせるな。急がせろ」
《了解》
ニルたちは帰る。
白灰匣を抱えて。
泥に濡れ、足鎧を一つ失い、灰霧封じの小瓶も残り半分のまま。
命はある。
箱もある。
そして、恐怖もある。
浅層入口まで戻る頃には、全員が無言だった。
外へ出た瞬間、ニルは膝をついた。
白灰匣を地面に置く。
すぐに開けようとする仲間を、また止める。
「町まで戻る」
「中身くらい見ようぜ」
「ここで見たら、戻る前に取り合いになる」
余は思わず感心した。
「よく分かっているではないか」
《人間同士の欲も計算しています》
「ますます良い広告塔だな」
ニルたちは去っていく。
白灰匣を抱えて。
泥まみれで。
恐怖を抱えて。
そして、まだ開けていない宝を抱えて。
「フィルエ」
「うん」
「これは、かなり広がるな」
「うん」
「箱を持ち帰った。しかも中身を外で開ける」
「みんな見る」
「値段も付く」
「噂も付く」
「恐怖も付く」
「次も来る」
余は白い部屋で笑った。
だが、その笑いの途中で、管理音声が告げた。
《報告》
「何だ」
《白灰匣三号、外部流出》
「ああ」
《迷宮独自報酬構造、実績値が上昇しました》
「ほう」
《冒険者による報酬発見、罠突破、持ち帰り、生還の四条件を確認》
《Aランク査定条件の一部が更新されます》
白い部屋の壁面に、新しい表示が浮かび上がる。
⸻
Aランク査定関連項目:
・Aランク冒険者パーティ討伐 達成済み
・敵対ダンジョンコア吸収 達成済み
・複合迷宮化 達成済み
・独自報酬構造 進行中
・生還者による外部価値流通 進行中
・宝箱機能正式解放 未達成
・迷宮名の外部定着 未達成
⸻
「まだ未達成が多いな」
《はい》
「だが、進んでいる」
《はい》
「宝箱機能正式解放は?」
《独自報酬構造の安定運用後、解放可能性があります》
「つまり、まだ試験段階か」
《はい》
「よい。試す」
余は白い部屋の奥を見た。
夜棺白庭は静かだ。
ヴェルグレイヴは眠っている。
フィルエは回復中。
グズは泥を練っている。
マネはどこかで余の声を真似ている。
帰路喰らいの落武者は出口を見ている。
そして、人間は宝を持って外へ出た。
霧灰白庭迷宮は、ただ殺す迷宮ではなくなっていく。
欲を設計する迷宮へ。
「次は、箱の中身が外で開かれるのを待つ」
《待機ですね》
「……待機か」
《はい》
「嫌いだ」
《ロードは待機が苦手です》
「分かっている」
だが、今度の待機は悪くない。
なぜなら、箱は外にある。
余の作った餌が、人間の町へ運ばれている。
その蓋が開く時。
霧灰白庭迷宮の名は、また一つ高く売れる。
「開けろ、ニル・カート」
余は、見えない町の方角へ呟いた。
「お前が開けるその箱が、次の冒険者を呼ぶ」




