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第120話 宝とは、使わせてこそ噂になる

 入口とは、ただの穴ではない。


 そこを越えてよい者と、越えてはならぬ者を分ける口である。


 噛み砕くための口ではない。


 まず、味を見るための口だ。


「管理音声」


《はい》


「まだ殺すな」


《承知しています》


「低ランクは帰す。舐めた者は痛める。考える者は通す」


《迷宮教育ですね》


「選別だ!」


《訂正します。迷宮選別です》


「微妙に腹立たしいな」


 壁面には、森の外縁が映っていた。


 八人。


 正確には、前に出た五人と、少し遅れて歩く三人。


 二組の冒険者が、ほぼ同時に霧灰白庭迷宮の入口へ近づいていた。


 片方は浮かれている。


 安い革鎧。


 手入れの甘い剣。


 やたら大きく見せたがる盾。


 腰の袋は空に近い。


 目だけがぎらぎらしていた。


 もう片方は静かだった。


 その中に、痩せた斥候がいる。


 ニル・カート。


 顔色は悪い。


 足取りも軽くない。


 だが、目だけは迷宮の入口から外れない。


「あれは怯えているな」


「うん」


 フィルエが寝台の上で答えた。


「だが、帰らない」


「うん」


「なぜだ」


「怖い場所だと知ってるから」


「意味が分からぬ」


「知らない怖さと、知っている怖さは違う。知っている怖さは、準備できると思ってしまう」


「人間は面倒だな」


「うん。だから戻ってくる」


 余は腕を組み直した。


 なるほど。


 あの男は、前回の恐怖を忘れて戻ったのではない。


 覚えているから戻ったのだ。


 次はもっと上手くやれる。


 次はもっと奥へ行ける。


 次はもっと高い物を持ち帰れる。


 そう思ったのだろう。


「非常によい」


《嬉しそうですね》


「嬉しくなどない。利用価値を確認しているだけだ」


《声が弾んでいます》


「弾んでいない」


 壁面の中で、浮かれた若い冒険者が笑った。


「おい、本当に銀貨四十八枚の花欠片が落ちてたんだろ?」


「落ちてたんじゃない。箱に入ってたって話だ」


「浅層だぞ? 浅層で銀貨四十八枚なら、奥は金貨だろ」


「銀刻の五人が消えた迷宮だろ、ここ」


「だからいいんだろ。誰も奥まで行ってねえってことだ」


 その言葉に、余は目を細めた。


「管理音声」


《はい》


「あの大口を記録しろ」


《記録しました》


「後で泥に落とす」


《予定に組み込みます》


 冒険者たちが入口へ踏み込む。


 霧が薄く揺れた。


 灰白の壁。


 白磁片のような光。


 湿った土の匂い。


 その奥で、何か大きな影が横切る。


 実体はない。


 ただの影だ。


 だが、弱い者ほど、それを大きく見る。


「……今、何かいたか?」


「牙、見えなかったか?」


「気のせいだろ」


「気のせいで木がああなるかよ」


 入口横の木には、大きな噛み跡が刻まれていた。


 赤錆噛みではない。


 存在しない大型獣の牙跡だ。


 もちろん偽物である。


 だが、人間は偽物の牙跡を見て、勝手に本物の獣を想像する。


 非常に便利だ。


《低ランク反応、動揺》


「よし」


《一名、撤退を提案》


「よし」


《二名、強がっています》


「泥だ」


《実行します》


 大口を叩いていた若い剣士が、一歩踏み出した。


 その足元の泥が、ぬるりと動く。


「うおっ!?」


 足が滑った。


 剣士は盛大に尻から落ちた。


 泥が跳ねる。


 顔にかかる。


 盾が転がる。


 後ろの仲間が一瞬笑いかけ、次の瞬間、その笑いを飲み込んだ。


 転がった盾の留め具に、小さな赤い影が群がっていた。


 赤錆噛み。


 灰噛みネズミから派生した金属食いの小型魔物だ。


 赤い牙が、盾の金具をかりかりと齧る。


「お、おい! 俺の盾!」


「噛まれてるぞ!」


「取れ! 取れって!」


 若い剣士が慌てて盾を掴んだ瞬間、留め具が外れた。


 盾の持ち手が壊れる。


 盾そのものは無事だ。


 だが、構えられない。


「管理音声」


《はい》


「齧りすぎるな」


《赤錆噛み、金具のみを齧っています》


「よし。肉は噛ませるな」


《はい》


「ただし財布の留め金は許可する」


《嫌がらせですね》


「選別だ」


 若い剣士の腰袋が、ぽとりと落ちた。


 中身の銅貨が泥に散らばる。


 悲鳴が上がった。


「帰る! 俺は帰るぞ!」


「待てよ、まだ入口だぞ!」


「入口で盾が死んだんだぞ! 中に入ったら俺が死ぬ!」


 正しい。


 余は深く頷いた。


「賢いではないか」


《撤退者、三名》


「よし」


《一名、泥の中の銅貨を拾っています》


「拾わせろ。だが、三枚は沈めろ」


《承知しました》


「迷宮に入場料は必要だからな」


《徴収しました》


 入口だけで三人が帰った。


 非常によい。


 弱すぎる者は帰した。


 ただ帰しただけではない。


 泥。


 牙跡。


 壊れた盾。


 赤い牙の小型魔物。


 これを持ち帰る。


 話になる。


 笑い話にもなる。


 恐怖話にもなる。


 つまり噂になる。


「いい入り口」


 フィルエが言った。


「そうだろう」


「弱い人を殺してない」


「死体は宣伝しないからな」


「少し違う気もする」


「同じだ」


 残った五人は、入口で足を止めていた。


 そのうち一人がニル・カートを振り返る。


「本当に進むのか、ニル」


「進むなら、ここから先は騒ぐな」


 ニルの声は小さかった。


 だが、震えてはいない。


「前と同じ道だと思うな。印だけ見るな。霧の流れを見る。壁の湿り方を見る。足音が返ってくる場所では止まる」


「お前、前は浅層までだったんだろ?」


「浅層で十分死にかけた」


 いい。


 非常によい。


 余は身を乗り出した。


「あれは恐怖を道具にしている」


《評価しますか》


「まだだ。二つ目の白灰匣まで行けたら評価する」


《では、灰霧回廊への誘導を開始します》


「ああ。だが簡単に通すな」


 霧が薄く割れた。


 道が見える。


 まっすぐではない。


 ほんの少しだけ右へ曲がる道。


 だが、地面には前回の探索者が付けたような古い印が残っていた。


 それは偽物だ。


 影縫い大蜘蛛の糸で、土の表面だけを動かして作った印。


 普通なら、その印をたどる。


 そして、泥の薄い膜の上へ出る。


 滑る。


 転ぶ。


 背後から霧が濃くなる。


 軽い恐慌が起きる。


 その程度の罠だ。


 だが、ニルは止まった。


「違う」


「何がだ」


「印が新しすぎる」


「古く見えるぞ」


「古く見せてる」


 ニルはしゃがみ、地面に触れた。


 指先に湿った灰がつく。


「前に俺が付けた印は、もう少し浅い。これは誰かが作った。いや、迷宮が作った」


「迷宮が印を作るのかよ」


「作ると思って動け」


 余は眉を上げた。


「生意気だな」


《突破されました》


「まだ罠は終わっていない」


 道の上に、細い糸が張られている。


 影縫い大蜘蛛の糸。


 肉を裂くためではない。


 足首に触れた瞬間、影をわずかに縫い止める。


 一歩だけ遅れる。


 それだけで、隊列は崩れる。


 未熟な弓使いが、そこへ足を出した。


 ニルが肩を掴む。


「止まれ」


「何だよ」


「足元」


「何もねえぞ」


「見えないなら、足を出すな」


 ニルは短剣の鞘を伸ばし、空中を軽く撫でた。


 糸が震える。


 灰霧の中に、細い線が一瞬だけ浮かんだ。


 弓使いの顔が青くなる。


「……見えた」


「次から先に見ろ」


 余は壁面を睨んだ。


「見えすぎではないか」


《ニル・カートの警戒能力、前回より向上しています》


「育ったな」


《教育成果ですね》


「だから教育ではない!」


 しかし、悪くない。


 罠を見抜く者は、迷宮にとって厄介だ。


 だが、罠を見抜いた話を持ち帰る者は、もっと役に立つ。


 見えない糸があった。


 足を止めなければ死んでいた。


 そう話す。


 なら、次に来る者は糸を警戒する。


 糸を警戒すれば、足元を見る。


 足元を見れば、頭上を見るのが遅れる。


 頭上を見れば、背後を見るのが遅れる。


 警戒とは、別の隙を作る行為でもある。


「管理音声」


《はい》


「灰霧回廊の小瓶、予定通り置け」


《はい》


「罠は背後だ」


《開封者正面ではなく、同行者背後から灰霧を流します》


「ただし濃度は殺傷手前で止めろ」


《帰還可能性を残します》


「小瓶を使えば抜けられる程度だ」


《宝を消費させる設計ですね》


「……いや」


 余は少し考えた。


 使わせる。


 そうか。


 宝をただ持ち帰らせるより、使わせた方がよいのではないか。


 灰霧封じの小瓶。


 劣化版。


 それが本当に灰霧を封じると、人間自身が体験する。


 未使用なら素材だ。


 使用済みなら証言だ。


「フィルエ」


「うん」


「宝は、使って減ったら価値が下がるか」


「物としては下がる」


「では失敗か」


「でも、話としては上がる」


 フィルエは薄く笑った。


「怖い霧を、本当に止めた小瓶になるから」


「……なるほど」


 宝とは、持ち帰る物だけではない。


 命を助けた事実も、値札になる。


「管理音声」


《はい》


「小瓶は半分だけ使わせろ」


《難しい指示です》


「できるだろう」


《できます》


「ならやれ」


《承知しました》


 五人は灰霧回廊へ入った。


 そこは白磁庭園の名残が薄く混じる回廊だった。


 壁の一部は白い。


 床の一部は灰色。


 湿った空気の奥で、戻り水の匂いがする。


 前衛が低く呟いた。


「嫌な場所だな」


 ニルが頷く。


「嫌だと思えるうちは、まだ戻れる」


「お前、そんな話ばかりだな」


「戻れなくなったら、話す暇もない」


 その時、灰霧の奥に箱が見えた。


 白灰匣。


 白磁外殻。


 灰霧の継ぎ目。


 影縫い糸の封。


 戻り水を吸わせた底。


 まだ正式な宝箱ではない。


 だが、人間の目には十分宝箱に見える。


「……あった」


 弓使いが息を呑んだ。


「本当に、二つ目が」


 前衛の男が笑いかけた。


 だが、入口で盾を壊された者たちを見たせいか、すぐに笑いを引っ込める。


「罠は?」


「ある」


 ニルは即答した。


「正面か?」


「正面に見える罠は、見せるための罠だ」


 余は思わず舌打ちした。


「こやつ、分かってきているぞ」


《良い生還者候補です》


「腹立たしい生還者候補だ」


 ニルは箱の正面に立たなかった。


 横にも立たなかった。


 仲間を下げ、長い鉤付きの棒を使って蓋に触れる。


 白灰匣の封が、かちりと鳴った。


 蓋が少し開く。


 その瞬間。


 箱の中ではなく、彼らの背後の床が湿った。


 足跡が黒くなる。


 戻り水を含んだ灰が泡立つ。


 そこから、灰霧が噴き上がった。


「後ろだ!」


 ニルの叫びは早かった。


 だが、霧の方が早い。


 弓使いの肩が飲まれる。


 前衛の片腕が白く霞む。


 視界が割れる。


 五人の隊列が、薄い灰色の壁で二つに裂かれた。


「下がるな! 走るな! 息を浅くしろ!」


 ニルが叫ぶ。


 いい判断だ。


 だが、足りない。


 灰霧はただの煙ではない。


 方向感覚を鈍らせる。


 音の距離を狂わせる。


 自分の足音が、背後から聞こえる。


 前にいる仲間の声が、壁の向こうから響く。


 未熟な者ほど、そこで走る。


 走れば転ぶ。


 転べば置いていかれる。


「ニル!」


「箱だ! 中を見ろ!」


「今かよ!」


「今だ!」


 ニルは霧の中へ腕を伸ばした。


 灰霧が手袋を濡らす。


 指先が震える。


 それでも、白灰匣の中から小瓶を掴み取った。


 灰色の小瓶。


 劣化版の灰霧封じ。


 彼は栓を抜きかけて、止まった。


「全部使うな」


 小さく、そう呟いた。


 余は目を細めた。


「聞いたか」


《聞きました》


「あやつ、宝の価値を考えたぞ」


《命の危機でも売却価値を意識しています》


「人間らしいな」


《はい》


 ニルは小瓶の口をわずかに傾けた。


 中の灰色の液体が、一滴、二滴、床へ落ちる。


 霧が音もなく縮んだ。


 完全には消えない。


 だが、道ができる。


 人ひとりが通れる細い穴。


「通れ!」


 前衛が弓使いを押し出す。


 弓使いが転びかける。


 ニルが首根っこを掴んで引く。


 五人は、咳き込みながら灰霧の壁を抜けた。


 誰も死んでいない。


 だが、全員が青ざめていた。


 そして、小瓶は半分ほど残っている。


「……帰るぞ」


 前衛の男が言った。


 誰も反論しなかった。


 ニルは白灰匣を見た。


 中は空。


 手の中には、半分残った小瓶。


 それから、彼は回廊の奥を見た。


 もっと奥。


 まだ見えない場所。


 戻り水湿地。


 白銀磁片のある場所。


 そこへ続く暗がりを、彼は確かに見た。


 そして、目を逸らした。


「今日は、帰る」


 余は笑った。


「よし」


《追撃しますか》


「しない」


《本当によろしいのですか》


「よい。今の五人は帰す」


 帰してよい。


 いや、帰さねばならぬ。


 入口の恐怖。


 偽の牙跡。


 泥。


 赤錆噛み。


 影縫いの糸。


 灰霧回廊。


 そして、本当に灰霧を封じた小瓶。


 これだけを持ち帰る。


 十分だ。


「管理音声」


《はい》


「帰路の罠を軽くしろ。ただし、何もないと思わせるな」


《軽度の足音反響、遠距離ゴブリン声、背後の霧揺れを配置します》


「よし。急がせろ。走らせるな」


《承知しました》


 壁面の中で、遠くからゴブリンの笑い声がした。


「ギ、ギギ」


 続いて、余の声が響いた。


『食うな!』


「マネ!」


『マネ!』


「そこで余の声を使うな!」


『そこで余の声を使うな!』


 帰路を急ぐ冒険者たちの顔が、さらに青くなった。


 ニルだけが、一瞬だけ眉をひそめる。


「……迷宮の声が増えてる」


 余は額を押さえた。


「違う。あれは配下の問題だ」


《外部冒険者には区別できません》


「できなくてよい」


 やがて、五人は入口へ戻った。


 外の光に出た瞬間、弓使いが膝をつく。


 前衛の男が肩で息をする。


 ニルは最後に出てきて、振り返った。


 霧灰白庭迷宮の入口を見る。


 恐怖。


 怒り。


 欲。


 計算。


 そのすべてが、痩せた顔の中に混じっていた。


 手には、半分残った灰霧封じの小瓶。


 白灰匣から得た、二つ目の宝。


「……売るのか」


 余は壁面越しに呟いた。


 ニルは仲間に何かを言われ、首を横に振った。


 それから、小瓶を布で包み、懐にしまった。


「売らない?」


 フィルエが言った。


「なぜだ」


「次に使うため」


「次」


「うん」


 フィルエは、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「あの人、また来る」


 余は黙った。


 半分使った宝。


 売れば値は落ちる。


 だが、持っていれば次の命綱になる。


 そして、それを見た仲間は思う。


 あの迷宮には、命を助ける宝がある。


 だが、その宝が必要になるほど危険でもある。


 最高ではないか。


《外部噂予測を更新》


「読め」


《霧灰白庭迷宮の浅層奥に、灰霧を封じる小瓶がある》


「よし」


《罠を踏むと背後から霧が来る》


「よし」


《入口で装備を齧られる》


「よし」


《泥に銅貨を取られる》


「小さいがよし」


《迷宮の中で誰かの声がする》


「マネ!」


《噂としては強いです》


「……なら、よし」


 余は壁面を見つめた。


 入口の霧が閉じる。


 人間たちは去っていく。


 だが、恐怖は残る。


 欲も残る。


 そして、半分残った小瓶も外へ出た。


 値札が付く前から、価値を証明した宝。


 それはきっと、白磁花片より厄介な噂になる。


「管理音声」


《はい》


「三つ目の白灰匣は、まだ置くな」


《白銀磁片入りの白灰匣ですね》


「あれは、ニル・カートがもう一度来てからだ」


《個人誘導を行いますか》


「違う。餌の順番を整えるだけだ」


《迷宮運営が巧妙になっています》


「当然だ」


 余は笑った。


 ただ殺す迷宮では足りない。


 ただ宝を置く迷宮でも足りない。


 恐怖で入口を作り。


 痛みで道を教え。


 宝で奥を見せ。


 生還で噂を育てる。


 そして次に、もっと深くまで来させる。


「ようやく分かってきたぞ」


《何をですか》


「値札とは、金額ではない」


 余は閉じていく霧の奥を見た。


「次も来る、という呪いだ」

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