第118話 値札とは、迷宮への招待状である
宝は、持ち帰られただけでは足りない。
値が付いて初めて、人間の目の色を変える。
だから余は待っていた。
白い部屋の中央で。
腕を組み。
壁面を睨み。
ひたすら待っていた。
「まだか」
《まだです》
「遅い」
《外部での鑑定、売却、噂の拡散には時間がかかります》
「人間はなぜ何をするにも遅い」
《慎重だからです》
「迷宮に入る時は慎重ではなかったぞ」
《欲が混ざると慎重さは低下します》
「なら今も欲を混ぜろ」
《外部人間への直接干渉はできません》
「不便だな」
《迷宮ですので》
余は鼻を鳴らした。
逃げた三人。
前衛。
弓使い。
そして、痩せた斥候。
あやつらは白磁花の欠片を持ち帰った。
怖がった。
震えた。
矢筒も失った。
そして、きっと話す。
問題は、どのように話すかだ。
ただ「怖かった」とだけ言えば、人は避ける。
ただ「宝があった」とだけ言えば、人は舐める。
必要なのは、その両方だ。
死ぬほど怖い。
だが、宝は本当にある。
これが一番いい。
「フィルエ」
「うん」
「逃げた人間は、本当に自分の恐怖を話すのか」
「話す」
「恥ではないのか」
「恥だけど、話す」
「なぜだ」
「自分が怖かった理由を、他人にも分からせたいから」
寝台の上で、フィルエは薄く目を開けた。
「それに、宝を持って帰ったなら、怖かった話も自慢になる」
「恐怖が自慢になるのか」
「なる」
「人間は面倒だな」
「うん。だから噂が育つ」
なるほど。
つまり、あの痩せた男が酒場か、冒険者ギルドか、素材屋かで震えながら語ればよい。
霧が出た。
箱があった。
ゴブリンの足音がした。
赤い牙のネズミに装備を齧られた。
だが、白い花の欠片は本物だった。
そう話せ。
余のために。
震えながら。
声を裏返らせながら。
できれば少し誇張して。
《報告》
「来たか!」
余は身を乗り出した。
《外部流出物、鑑定反応を確認》
「売れたか」
《白磁花片、外部素材商に持ち込まれました》
「よし!」
《鑑定結果、白磁系迷宮素材。微量の灰霧残滓、白磁庭園系魔力、戻り水由来の湿潤反応を確認》
「もっと簡単に言え」
《珍しい素材として扱われています》
「よし!」
《買い取り価格、想定より高め》
「いくらだ」
《銀貨四十八枚相当》
「……高いのか?」
《Cランク下位冒険者にとっては十分な収入です。失った矢筒と矢の損失を差し引いても黒字です》
「くそ」
《どうしましたか》
「矢筒をもう少し壊しておけばよかった」
《目的が変わっています》
「利益を出しすぎると調子に乗るだろう」
《調子に乗らせることも、報酬構造の一部です》
「腹立たしい構造だ」
だが、成功だ。
白磁花の欠片に値が付いた。
しかも、黒字。
命を賭けるには安い。
だが、浅層で拾えたものとしては高い。
これが重要だった。
「外の反応は」
《断片的な噂を確認》
「読め」
《霧灰白庭迷宮の浅層に白い箱がある》
「よし」
《箱には罠がある》
「よし」
《だが、中には白磁系素材が入っている》
「よし」
《奥にはさらに高価な宝があるかもしれない》
「非常によし」
《赤い牙のネズミが装備を食う》
「それもよし」
《ゴブリンの笑い声が霧の中から聞こえる》
「大変よし」
《銀刻の五人が戻らなかった迷宮なので、浅層でも危険》
「そこは少しよくない」
《総合的に、探索関心と警戒心が同時に上昇しています》
「つまり」
《人は来ます》
余は笑った。
来る。
人間が。
宝に釣られて。
恐怖に怯えながら。
それでも来る。
素晴らしい。
非常に素晴らしい。
「管理音声」
《はい》
「二つ目の白灰匣はどうなっている」
《灰霧回廊奥に設置準備中です。内容物は劣化版の灰霧封じの小瓶》
「罠は」
《開封者正面ではなく、同行者背後へ灰霧を流す構造に変更済みです》
「よし。箱を開ける者だけでなく、見ている者も怖がらせろ」
《はい》
「三つ目は」
《戻り水湿地に白銀磁片入りの白灰匣を配置予定です》
「まだ置くな」
《なぜですか》
「あれは餌が強すぎる。今の連中では死ぬ」
《生還率を考慮しますか》
「当然だ。宝を持って帰れぬ死体に広告はできん」
《成長しましたね》
「うるさい」
余は壁面に浅層図を映した。
白灰匣の配置。
霧の濃度。
赤錆噛みの待機位置。
灰霧ゴブリンの巡回範囲。
影縫い大蜘蛛の糸の張り方。
影縫い罠師カゲヌイの罠札。
殺すだけなら、線を一本引けばいい。
帰れぬ道にしてしまえばいい。
だが今は違う。
進ませる。
怖がらせる。
損をさせる。
少し得をさせる。
そして帰す。
非常に面倒だ。
だが、面白い。
「ロード」
フィルエが言った。
「何だ」
「あの斥候、名前が出た」
「名前?」
《外部登録情報と照合。白磁花片持ち込み者、Cランク斥候。ニル・カート》
「ニル・カート」
余はその名を繰り返した。
痩せて、逃げ腰で、だが目だけはよく動いていた男。
仲間を止めた。
糸を見つけた。
帰路の印を付けた。
宝を取り、退く判断をした。
「あれはまた来るか」
「来る」
フィルエは迷わず言った。
「どうして分かる」
「怖がってるけど、考えてるから」
「恐怖より欲が勝つのか」
「違う」
フィルエは少しだけ首を振った。
「怖いから、次はどうすればいいか考える。考えると、もう一回試したくなる」
「人間は本当に迷宮向きだな」
「うん」
余は壁面に、ニル・カートの名を刻んだ。
生還者候補。
広告塔候補。
再侵入候補。
殺害禁止、ではない。
だが、できれば生かす。
何度か入らせる。
何度か持ち帰らせる。
そうすれば、あの男の言葉には重みが出る。
ただの一度の幸運ではない。
危険を知った者が、それでも戻る迷宮。
そうなれば、他の者も来る。
《警告》
「何だ」
《外部噂により、低ランク冒険者の関心も上昇しています》
「低ランクとは」
《Dランク、Eランク相当》
「来たら死ぬぞ」
《はい》
「なぜ来ようとする」
《浅層で銀貨四十八枚相当の素材が得られたためです》
「馬鹿なのか」
《はい》
「断言したな」
《危険判断能力が不足している可能性があります》
「来させるな」
《迷宮側から外部冒険者を制止することは困難です》
「では、浅層入口で怖がらせて帰す」
《入口威圧を強化しますか》
「ああ。Eランクは入ってすぐ逃げる程度にしろ。Dランクは足を踏み入れた後、後悔する程度だ。Cランク以上は進ませろ」
《難度を段階化します》
「冒険者を選別する。宝に届く者と、噂だけ持って帰る者を分ける」
《報酬構造と恐怖構造の両立ですね》
「そうだ」
余はさらに指示を出した。
「浅層入口に灰霧の薄い壁を作れ。近づくと中で何かが動く影だけ見せろ」
《実体は?》
「不要だ。影だけでいい」
《心理的忌避効果》
「それと、外縁の木に噛み跡を残せ。赤錆噛みではなく、もっと大きい牙に見えるように」
《存在しない大型獣の痕跡を偽装します》
「そうだ。弱い者はそれを見て帰る」
《帰らない者は?》
「入口の泥で滑らせろ」
《殺傷性は?》
「ない。尻を打つ程度だ」
《屈辱による撤退誘導ですね》
「二度と来るな、ではない。一度鍛えてから来い、だ」
《ロードが教育を始めました》
「違う。選別だ」
余は言い切った。
だが、少しだけ分かってきた。
迷宮は、ただ喰うだけではない。
育てる。
恐怖を。
欲を。
噂を。
そして、冒険者そのものを。
弱すぎる者を殺せば、それで終わりだ。
だが、弱い者を怖がらせて帰せば、話になる。
少し強い者を傷つけて帰せば、警告になる。
十分な者に宝を持たせて帰せば、餌になる。
では、強すぎる者は?
殺す。
それは変わらない。
《浅層内部で問題発生》
「今度は何だ」
《ゴブリン三匹が空の白灰匣を囲んでいます》
「またか!」
壁面が切り替わる。
浅層の岩陰。
前回開けられた白灰匣の残骸。
その周囲に、通常ゴブリンが三匹いた。
一匹が蓋を持ち上げる。
一匹が匣の角を舐める。
一匹が中に頭を突っ込む。
「ギ」
「ギギ?」
「ギィ」
「食うな!」
余の声が白い部屋に響いた。
同時に、浅層の伝達術式を通して、同じ声が迷宮内へ落ちる。
『食うな!』
三匹のゴブリンが跳ねた。
だが、次の瞬間。
別の声が響いた。
『食うな!』
余と同じ声だった。
マネだ。
音真似をする特殊ゴブリン系個体。
いつの間にか近くにいたらしい。
『食うな! 食うな! 食うな!』
「やめろ、余の声で連呼するな!」
『やめろ、余の声で連呼するな!』
「お前も黙れ!」
『お前も黙れ!』
《浅層ゴブリン、混乱中》
「余も混乱している!」
フィルエが寝台の上で小さく笑った。
笑うな。
非常に深刻な問題だ。
宝箱を置く。
冒険者が開ける。
宝を持って帰る。
噂が広がる。
ここまではいい。
だが、その後に配下が箱を食う。
これはよくない。
迷宮運営上、非常によくない。
「管理音声」
《はい》
「白灰匣に苦味を付けろ」
《ゴブリン用の忌避味ですか》
「そうだ。噛んだ瞬間、ひどく後悔する味にしろ」
《冒険者にも影響します》
「人間は箱を食わんだろう」
《通常は食べません》
「なら問題ない」
《一部例外的な冒険者を除きます》
「いるのか、箱を食う冒険者が」
《稀に》
「人間は本当に何なのだ」
余は額を押さえた。
宝箱を置くだけで、これほど考えることが増えるとは思わなかった。
罠。
中身。
帰路。
生還者。
噂。
低ランク避け。
配下の食害。
箱を食うかもしれない人間。
面倒だ。
だが、迷宮が大きくなるとは、こういうことなのだろう。
喰う対象が増えれば、考えることも増える。
《外縁部に新規反応》
その声に、余は顔を上げた。
「来たか」
《冒険者と思われる反応、複数》
「何人だ」
《八人》
「多いな」
《二組がほぼ同時に接近しています》
「ランクは」
《推定Dランク混じり。Cランク相当が二名。未熟な反応も含まれます》
「噂が早すぎる」
《宝の情報は広がりやすいです》
壁面に森の外が映る。
八人。
装備はばらばら。
目の色もばらばら。
恐れている者。
笑っている者。
疑っている者。
欲に浮かれている者。
そして、その少し後方。
見覚えのある痩せた男がいた。
ニル・カート。
戻ってきた。
前回とは違う仲間を連れて。
顔色は悪い。
手は震えている。
それでも、目は霧の入り口を見ていた。
「……本当に戻ったな」
「うん」
フィルエが静かに答える。
「あれが、人間」
余は笑った。
怖いなら来なければいい。
死にたくないなら近づかなければいい。
だが、人間は来る。
箱があるから。
値段が付いたから。
奥にもっとあると思ったから。
「管理音声」
《はい》
「浅層入口の選別を始めろ」
《殺傷性は抑えますか》
「低ランクは帰す。Cランクは進ませる。ニル・カートは、できれば二つ目の白灰匣まで届かせろ」
《承知しました》
「ただし」
余は壁面の八人を見た。
欲に浮いた顔。
怯えた顔。
疑う顔。
そのすべてが、迷宮の入口に並んでいる。
「舐めた者には、きちんと痛みを教えろ」
《迷宮教育を開始します》
「だから教育ではない」
霧が動いた。
灰白の入口が、ゆっくりと口を開ける。
人間たちは足を止めた。
それでも、引き返さない。
余は白い部屋で笑った。
「ようこそ」
恐怖も。
欲も。
命も。
全部持って入ってこい。
「霧灰白庭迷宮は、宝の値段より高くつくぞ」




