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第117話 逃げ帰る者こそ、最初の広告塔

 白灰匣はくかいばこを置いた。


 置いたからには、開ける者が必要だ。


 つまり。


「人間どもはまだか」


《設置から一時間しか経過していません》


「遅い」


《通常、迷宮に宝箱を設置しても即座に冒険者は発生しません》


「なぜだ」


《畑に種を植えても即座に実はなりません》


「宝箱は畑ではない」


《噂の成長には時間が必要です》


「時間がかかるものは嫌いだ」


《ロードは待機が苦手ですね》


「敵が来れば殺せる。来なければ殺せん。非常に非効率だ」


《報酬構造の目的は殺害効率ではありません》


「分かっている!」


 余は白い部屋の中央で腕を組み、壁面に映る浅層を睨んでいた。


 灰霧の浅層。


 そこに、一つ目の白灰匣がある。


 白磁花の欠片を入れた、もっとも価値の低い箱だ。


 低いと言っても、外の人間には珍しい。


 白磁庭園由来の白磁花。


 霧灰白庭迷宮でしか採れぬ欠片。


 それが小匣に入っている。


 見つけた冒険者は、きっとこう思う。


 奥にはもっと良いものがあるのではないか、と。


 愚かだ。


 非常に愚かだ。


 だが、その愚かさが必要なのだ。


「フィルエ」


「うん」


「人間は本当に箱を開けるのか」


「開ける」


「罠だと分かっていてもか」


「開ける」


「なぜだ」


「開けないと、損した気がするから」


 寝台に横たわったまま、フィルエは淡々と言った。


 恐ろしい理屈だった。


 死ぬかもしれない箱を前にして、損得で手を伸ばす。


 人間という種族は、やはり迷宮向きの生き物なのではないか。


《外縁部に反応》


「来たか!」


 余は壁面に手をかざした。


 霧の外側。


 森の切れ目。


 そこに三つの影があった。


 冒険者だ。


 ただし、強くはない。


 銀刻の五人のような圧はない。


 装備も不揃い。


 革鎧。


 短槍。


 小盾。


 弓。


 そして、やたら周囲を見回している痩せた男。


「ランクは」


《推定Cランク下位から中位》


「弱いな」


《試験対象としては適切です》


「死ぬのではないか?」


《殺しすぎなければ生還可能です》


「殺しすぎなければ、か」


 難しい。


 非常に難しい。


 殺すなと言われると、途端に罠の調整が面倒になる。


 殺すならば簡単だ。


 穴に落とす。


 泥に沈める。


 糸で吊るす。


 追跡者を放つ。


 終わりだ。


 だが、生還させるとなると加減が要る。


 余は加減が嫌いだ。


「名前は分かるか」


《会話音声を拾います》


 壁面の映像が近づく。


 三人の声が、霧を通して白い部屋に響いた。


「本当に入るのかよ……銀刻が戻ってこねえ迷宮だぞ」


「だからだろ。Aランクが死ぬ場所には、Aランクの装備が落ちてる」


「落ちてたとして拾えるわけねえだろ」


「奥には行かねえ。浅いところだけだ。白い花の欠片が出るって噂、聞いただろ?」


「噂っていうか、酔っ払いの寝言だろ」


「寝言でも、売れれば金だ」


 余は目を細めた。


「ほう」


《噂がすでに一部発生しているようです》


「なぜだ。まだ誰も持ち帰っていないぞ」


《外縁に流出した白磁花粉片、戦後の魔力揺れ、周辺探索者の目撃情報などが混ざった可能性があります》


「人間は勝手に噂を育てるのか」


《はい》


「便利だな」


《危険でもあります》


「今回は便利な方だけ見ろ」


 冒険者たちは森へ入った。


 三人。


 前衛が一人。


 弓が一人。


 斥候らしき痩せた男が一人。


 痩せた男は、ずっと逃げ腰だった。


 何度も後ろを振り返る。


 草の揺れに怯える。


 霧が濃くなるたびに足を止める。


 だが、引き返さない。


「フィルエ」


「うん」


「あれか」


「あれ」


 フィルエの声が、ほんの少しだけ強くなった。


「怖がり。でも、見てる。足跡も、霧も、音も。仲間が先に行きすぎると止めてる」


「生還者向きか」


「うん。たぶん、話す」


「よし」


 余は指を鳴らした。


「浅層のゴブリンを下げろ。灰霧だけ濃くしろ」


《承知しました》


「ただし、音は立てさせろ。見えない場所で足音。壁の裏で爪音。遠くで笑い声」


《心理圧迫を開始します》


「殺すな。怖がらせろ」


《はい》


 灰霧が動いた。


 冒険者三人の周囲で、白と灰の霧が低く這う。


 視界は奪いすぎない。


 道は見える。


 だが、横が見えない。


 後ろが分からない。


 今、自分たちがどこまで進んだのか、少しずつ曖昧になる。


「おい、今なんか聞こえたぞ」


「風だろ」


「風は笑わねえよ」


「黙って歩け」


 前衛が苛立つ。


 弓使いが喉を鳴らす。


 斥候の男だけが、地面を見ていた。


「待て」


「あ?」


「戻る道、印つける。ここから霧が濃い」


「そんな暇あるか」


「帰れなくなる」


 その言葉に、前衛が黙った。


 よし。


 あれは生き残る。


 余は壁面の迷宮図に印を付けた。


「あの痩せた男を第一候補にする」


《生還対象、仮登録》


「他二人は?」


《状況次第》


「死なせるなとは言っていない」


《理解しています》


「だが全滅はさせるな」


《難度調整を行います》


 冒険者たちは進む。


 灰霧の浅層。


 白い壁の破片が点々と転がる小道。


 そこに、白灰匣は置かれていた。


 あからさまではない。


 岩陰に半分隠し、しかし白磁の角だけが見える。


 気づく者なら気づく。


 欲がある者なら、必ず近寄る。


「……おい」


 弓使いが足を止めた。


「何かある」


 見つけた。


 余は思わず身を乗り出した。


 前衛が小盾を構えたまま近づく。


 斥候の男が慌てて止めた。


「待て。糸がある」


「糸?」


「箱の蓋。見えにくいけど、黒い糸」


 影縫い糸だ。


 よく見つけた。


 余は少し感心した。


「開けるなよ」


 斥候の男が言う。


「罠かもしれない」


「罠でも中身はある」


「だから開けるなって言ってるんだ」


「じゃあ、どうすんだよ」


「横から糸を切る。離れて。盾構えて。霧が出るかもしれない」


 余は黙った。


 こやつ、思ったより慎重だ。


「管理音声」


《はい》


「罠の霧量を二割増やせ」


《殺傷性はありません》


「分かっている。驚かせるだけだ」


《悪趣味です》


「試験だ」


 斥候の男が短剣を伸ばし、影縫い糸を切った。


 ぷつり。


 その瞬間、白灰匣の蓋がわずかに跳ねた。


 中から、灰白の霧が噴き出す。


「うわっ!」


「下がれ!」


「目が、くそ、見えねえ!」


 霧が三人を包んだ。


 殺しはしない。


 だが、喉に絡む。


 目を濡らす。


 耳元で何かが囁いたように聞こえる。


 そこへ、灰霧ゴブリンを一匹だけ近づけた。


 一匹。


 大勢ではない。


 ただし、霧の向こうで足音だけを鳴らす。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


「いる!」


 弓使いが叫んだ。


「撃つな! 見えてない!」


 斥候の男が叫び返す。


 前衛が盾を構え、霧の中へ短槍を突き出した。


 外れる。


 灰霧ゴブリンは笑った。


「ギ、ギギ」


「ひっ……!」


 良い声だ。


 恐怖の声は、宝の価値を高める。


 楽に拾った宝より、死にかけて拾った宝の方が高く見える。


 人間は苦労を価値と勘違いする。


 これも覚えておこう。


「中身! 中身だけ取れ!」


 前衛が叫ぶ。


「馬鹿、今かよ!」


「手ぶらで帰れるか!」


 やはり冒険者は箱を開ける。


 斥候の男が罵りながらも、霧の中へ手を伸ばした。


 白灰匣の中から、小さな白い欠片を掴む。


 白磁花の欠片。


 淡い光を含んだ、花弁のような素材。


「取った! 戻るぞ!」


「ゴブリンは!?」


「一匹だけだ! 構うな! 走れ!」


 よし。


 判断が早い。


 欲を満たしたら退く。


 これだ。


 余が欲しかったのは、こういう人間だ。


「帰路に赤錆噛みを一匹」


《浅層に赤錆噛みを出すと危険度が上がります》


「一匹だ。噛むのは装備だけ。足は噛ませるな」


《調整します》


「ついでに、弓使いの矢筒の留め具を狙え」


《なぜですか》


「恐怖と損失の両方を与える」


《悪質です》


「それはもう聞いた」


 三人は走った。


 霧の中、来た道を辿る。


 斥候の男が付けた印が役に立つ。


 白い壁の割れ目。


 折れた枝。


 石の上に刻んだ小さな傷。


 それを拾いながら、三人は戻る。


 その横の泥から、赤錆噛みが飛び出した。


 小さい。


 だが、歯が赤黒い。


 金属を喰うための牙が、かちかちと鳴る。


「ネズミ!」


「ただのネズミじゃねえ!」


 赤錆噛みが弓使いの腰へ跳んだ。


 矢筒の金具に噛みつく。


 ぎちり、と嫌な音がした。


「うわあああ! 俺の矢筒!」


「捨てろ!」


「高かったんだぞ!」


「命よりか!」


 斥候の男が弓使いを蹴るように押し出した。


 矢筒の留め具が千切れ、矢が泥へ散る。


 赤錆噛みはそれを嬉しそうに齧り始めた。


 追わない。


 よし。


 よくできた。


「赤錆噛みを下げろ」


《まだ追跡可能ですが》


「追うな。今回は生還させる」


《承知しました》


 冒険者三人は転がるように森の外へ出た。


 前衛は肩で息をしている。


 弓使いは矢筒を失い、半泣きだ。


 斥候の男は、手の中の白磁花の欠片を見つめていた。


 白い欠片。


 小さい。


 だが、確かにそこにある。


 霧灰白庭迷宮から持ち帰った、最初の宝。


「……売れるのか、これ」


 弓使いが震え声で言った。


 斥候の男は答えなかった。


 ただ、欠片を布で包み、胸元にしまった。


「もう二度と入らねえ」


 前衛が吐き捨てる。


「あんな浅いところで、あれかよ」


「二度とごめんだ」


 弓使いも頷いた。


 だが、斥候の男だけは黙っていた。


 森の方を一度だけ振り返る。


 怖がっている。


 心底、怖がっている。


 それでも、その目は考えていた。


 あの白い箱は一つだけだったのか。


 もっと奥には何があるのか。


 白い欠片が売れたら、次はどうするのか。


 余には分かった。


 あれは戻ってくる。


 三日か。


 五日か。


 仲間を変えるか。


 人数を増やすか。


 いずれにせよ、戻ってくる。


「フィルエ」


「うん」


「あれでいいのか」


「うん。すごくいい」


「震えていたぞ」


「だからいい」


「もう二度と入らないと言っていたぞ」


「言うだけ」


「人間は嘘つきだな」


「欲があるから」


 余は笑った。


 白灰匣は機能した。


 宝は持ち帰られた。


 恐怖も持ち帰られた。


 そして、噂の種も。


《報告》


「何だ」


《白磁花の欠片、外部流出第一号です》


「よし」


《同時に、霧灰白庭迷宮浅層に宝箱が存在するという情報も流出します》


「よし」


《冒険者の再侵入率が上昇する可能性があります》


「よし」


《討伐関心も上昇する可能性があります》


「それはよくない」


《報酬構造には危険関心と探索関心の両方が伴います》


「面倒だな」


《はい》


 だが、悪くない。


 ただ恐れられる迷宮ではなくなる。


 ただ避けられる迷宮でもなくなる。


 恐ろしく、危険で、死ぬかもしれない。


 けれど。


 白い箱がある。


 珍しい素材がある。


 奥には、もっと価値あるものがあるかもしれない。


 そう思わせた時点で、こちらの勝ちだ。


 冒険者は剣で来る。


 魔術で来る。


 地図で来る。


 そして、欲で来る。


 欲は、罠より深く人間を引きずる。


「管理音声」


《はい》


「二つ目の白灰匣を調整する」


《灰霧封じの小瓶入りのものですね》


「ああ。罠を少し変える」


《どのように?》


「開けた者ではなく、後ろにいる者の足元へ霧を流せ」


《背後不安の誘発ですか》


「そうだ。箱を開ける者だけが怖いのではない。見ているだけの者も怖いと思わせろ」


《性格が悪いです》


「迷宮だからな」


 余は壁面に映る浅層を見た。


 白灰匣の跡。


 開いた蓋。


 残った灰霧。


 そこに、ゴブリンが一匹近寄り、空になった箱を覗き込んでいた。


「ギ?」


「食うなよ」


「ギギ」


「食うなと言っている」


 ゴブリンは箱の角を少し齧った。


《白灰匣、軽微損傷》


「食うな!」


 やはり味方の管理が一番難しい。


 敵を殺すより。


 宝を置くより。


 生還者を選ぶより。


 うちの連中に“待て”を教える方が、よほど難しい。


 余は深くため息をついた。


「……次の課題は、配下に宝箱を食わせないことだな」


《Aランク査定項目には含まれていません》


「含めろ。重要だ」


 白い部屋に、フィルエの小さな笑い声が落ちた。


 霧灰白庭迷宮の最初の宝は、外へ出た。


 そしてきっと、外で値を付けられる。


 値が付けば、噂になる。


 噂になれば、人が来る。


 人が来れば、迷宮は喰える。


 余は白い箱の残骸を見ながら、静かに笑った。


「さあ、売ってこい」


 震えながら逃げた冒険者の背に向けて、余は言った。


「お前の恐怖ごと、霧灰白庭迷宮の価値にしてやる」

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