第114話 命脈契約は、死にかけた命を縫う
白磁門の亀裂が、花のように広がっていく。
こん。
こん。
門の向こうで、古い血が叩いている。
たったそれだけの音なのに、迷宮全体が震えていた。
グズが唸る。
影縫い大蜘蛛の糸が軋む。
カゲヌイが作った影罠が、発動前から揺れている。
アンデッドゴブリンどもは意味も分からず入口へ向かおうとし、通常ゴブリンどもは意味も分からずその後ろについていく。
「行くな、馬鹿ども!」
余は白い部屋で叫んだ。
「今あれに群がって何になる! 餌皿に飛び込む虫かお前らは!」
《ゴブリン群、一部待機命令を理解していません》
「理解しろ!」
《知能限界です》
「くそっ!」
いつもなら腹立たしいだけの馬鹿さが、今は本気で恐ろしい。
あれにゴブリンをぶつけても意味がない。
ソウルの無駄だ。
いや、ソウルどころではない。
あれに迷宮内部の配置を読ませる方がまずい。
ヴェルグレイヴ。
古血のヴァンパイア。
フィルエが持ち帰った名。
その名の主が、門の向こうにいる。
そして、フィルエは今、白磁床の上で血を流していた。
「フィルエをコア近くへ急がせろ!」
《搬送中》
白磁床が滑る。
泥が彼女の体を下から支え、影糸が傷口を無理やり押さえる。
だが、血が止まらない。
フィルエの血は人間のものとは違う。
森の匂いがして、薄い緑と灰が混ざっている。
それが白磁床に落ちるたび、迷宮が小さく脈打った。
以前から契約はあった。
フィルエは、もう完全な外部者ではなかった。
連絡を取り、迷宮の流れを読み、ロードである余と繋がっていた。
だが、それはまだ細い契約だった。
互いを縛りすぎない、観測と協力のための線。
今からやるのは違う。
命を繋ぐ。
コアに縫い込む。
つまり、余の迷宮が壊れれば、フィルエも消える。
管理音声が淡々と告げる。
《命脈接続準備》
《対象:フィルエ》
《既存契約を確認》
《契約深度を上昇させます》
《警告。対象は以後、霧灰白庭迷宮のコア生命線に組み込まれます》
《警告。コア破壊時、対象フィルエも同時消滅します》
「分かっている」
《警告。ロード生命領域の一部を分配します》
「分かっている!」
《警告。分配後、対象の損傷が一定値を超えた場合、コア側にも反動が発生します》
「くどい!」
余は白い部屋の中央で叫んだ。
「余がやれと言った! 今さら警告で止まるなら、ロードなどやっておらん!」
《承認を確認》
床が白く光った。
いや、白だけではない。
霧の灰。
泥の黒。
戻り水の鈍い青。
白磁庭園の冷たい白。
影縫い糸の淡い紫。
それらが、フィルエの体へと細い線になって伸びていく。
フィルエが苦しげに息を吐いた。
「……ロード」
「喋るな」
「これ、深くなるね」
「分かっている」
「戻れなくなる」
「分かっていると言っている」
「私、コアが壊れたら消えるよ」
余は一瞬だけ黙った。
白い部屋の外で、こん、と音がした。
白磁門の亀裂がさらに広がる。
だが、余はフィルエを見ていた。
「余も消える」
「うん」
「同じことだ」
「同じではないよ。私は、外に逃げられたかもしれない」
「今、逃げられていないだろうが」
フィルエが、血の混じった息で少し笑った。
「そうだね」
「なら黙って繋がれ。余の迷宮に入った以上、余が拾う」
「拾うんだ」
「使えるからな」
「ひどい」
「使えるものを失う趣味はない」
「うん」
フィルエは目を閉じた。
「それでいい」
光が彼女の胸に沈む。
次の瞬間、白い部屋の中心に、細いひび割れのような痛みが走った。
痛み。
余に肉体はない。
だが、痛みとしか言いようのないものがあった。
コアの奥から、何かを引き抜かれる感覚。
熱いものを分ける感覚。
余という存在の一部が、フィルエへ流れていく。
「っ……!」
《ロード生命領域、分配開始》
《対象フィルエ、生命維持開始》
《損傷部位、迷宮マナによる補填》
《森系マナと霧灰白庭迷宮マナの適合率、上昇》
《命脈接続、進行中》
フィルエの傷口から、白い霧が漏れた。
裂けた肩に、灰色の細い紋様が走る。
背中の深い傷に、影糸のような黒い線が縫い込まれていく。
血が止まる。
完全に治ったわけではない。
だが、死へ向かって流れていたものが、迷宮の内側へ引き戻された。
フィルエの呼吸が、わずかに安定する。
「……変な感じ」
「生きているなら文句を言うな」
「うん。生きてる」
その言葉に、余はようやく息を吐いた。
存在しないはずの喉が、ひどく渇いた気がした。
だが、安堵する暇はなかった。
入口第一層。
白磁門の亀裂が限界を迎える。
こん。
四度目の音。
白磁門が、内側へ砕けた。
破片が白い花びらのように飛び散る。
泥壁が即座に盛り上がる。
影糸が束になって走る。
カゲヌイの影罠が床から立ち上がる。
グズが泥門の奥で棍棒を構える。
アンデッドゴブリンが呻く。
だが、そこに立っていた男は、まるで他人の家の玄関を開けた程度の顔をしていた。
古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴ。
黒衣は破片の白を受けても汚れない。
白い肌は、灯りのない入口で薄く浮かび上がっている。
血のように暗い瞳が、迷宮内部を見た。
「……よい」
第一声が、それだった。
余は白い部屋で固まる。
「よい、だと?」
ヴェルグレイヴはゆっくり歩いた。
泥壁が蠢く。
影罠が伸びる。
だが、余はまだ発動させなかった。
早すぎる。
相手の動きも、目的も、まだ読めない。
「霧がある」
ヴェルグレイヴが言う。
「灰がある」
一歩。
「湿った泥がある」
一歩。
「戻る水の匂いもある。死体の気配もよい。白い石は冷たい。奥には血の通った契約がある」
その視線が、コア近くへ向いた。
フィルエのいる方向だ。
余は声を低くした。
「そこを見るな」
ヴェルグレイヴが、ぴたりと足を止めた。
迷宮内に、余の声が響く。
ロードの声だ。
もう、最初の頃のように裏返りはしなかった。
震えも、飲み込んだ。
「そこから先は、余の迷宮だ」
ヴェルグレイヴが顔を上げる。
「ロードか」
「そうだ」
「生きているロード」
「当然だ。勝手に死んだことにするな」
「コアもある」
「ある」
「契約者もいる」
「いる」
「寝床として、悪くない」
「勝手に寝床にするなと言っている!」
思わず怒鳴った。
いや、これは仕方ない。
今、こいつは余の迷宮を完全に寝床候補として見ている。
攻略でも侵略でもない。
寝に来た。
たちが悪い。
戦うつもりで来た敵なら、罠にかける。
奪いに来た敵なら、欲を利用する。
だが、寝に来た災厄はどう扱えばいい。
しかも、あまりにも強い。
ヴェルグレイヴは、砕けた白磁門の破片を拾った。
指先で転がし、薄く笑う。
「白い庭の欠片か」
「それも余のものだ」
「冷たい」
「返せ」
「よい」
ヴェルグレイヴは破片を床に落とした。
なぜか素直だった。
余は一瞬だけ困惑した。
こいつは何なのだ。
本当に殺しに来たのか。
本当に寝に来たのか。
いや、フィルエは殺されかけた。
肩を裂かれ、背中を割られ、死にかけた。
油断はできない。
「管理音声」
《はい》
「第一層の罠、発動準備。だが、まだ撃つな」
《承知しました》
「グズ、前に出すな。泥壁を厚くしろ」
《承知しました》
「影縫い大蜘蛛は、糸を床下に回せ。上からではなく、足元から縫え」
《承知しました》
「カゲヌイは二重罠に切り替えろ。一つ目は見せ罠。二つ目を本命にしろ」
《承知しました》
余は高速で指示を飛ばす。
怖くないわけがない。
怖い。
ものすごく怖い。
Aランク冒険者とは質が違う。
人間なら呼吸があり、隊列があり、焦りがあり、欲がある。
だが、こいつにはそれが薄い。
目的が眠ることだから、戦意の読み方が狂う。
怒りで踏み込ませることも、焦りで分断することも難しい。
だが、それなら。
別の欲を使う。
寝床。
こいつが求めているもの。
そこに、引っかける。
「ヴェルグレイヴ」
余は名を呼んだ。
古血のヴァンパイアが、ゆっくりこちらを見た。
「名を知っているのか」
「フィルエが持ち帰った」
「あれは、まだ生きているのか」
「生きている」
「しぶとい」
「余の契約者だ。勝手に殺されては困る」
「契約者」
ヴェルグレイヴの目が細くなる。
「ならば、あれもこの迷宮の一部か」
「そうだ」
「殺せぬのか」
「殺すな」
「命令か」
「提案だ」
余はそこで、一拍置いた。
自分でも、何を言おうとしているのか分かっている。
馬鹿げている。
危険すぎる。
だが、罠だけで止めきれるか分からない相手を前に、ただ正面から潰し合う方が馬鹿げている。
余はロードだ。
迷宮の主だ。
ならば、殺すだけが勝ちではない。
飼えないなら、住み着かせる。
住み着くなら、条件をつける。
「お前は寝床を探しているのだろう」
ヴェルグレイヴの視線が変わった。
初めて、明確にこちらへ興味を向けた。
「そうだ」
「この迷宮を気に入ったか」
「悪くない」
「悪くない、では足りぬ。ここは余の迷宮だ。寝床にするなら、余の許可が要る」
「許可」
ヴェルグレイヴは、その言葉を面倒そうに繰り返した。
「余は、この迷宮の主だ。霧も、灰も、泥も、戻り水も、白磁庭園も、影も、死体も、すべて余のものだ」
「ならば、よい寝床を持つ主だ」
「褒めても勝手には寝かせん」
「では、どうする」
その問いを待っていた。
余は白い部屋の中心で、声を落とした。
「契約しろ」
迷宮内の空気が止まった。
フィルエが、コア近くで薄く目を開ける。
「ロード……?」
「黙っていろ、フィルエ」
「それ、正気?」
「たぶん正気ではない。だが、考えている」
ヴェルグレイヴは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、静かに問う。
「契約とは」
「寝床を与える」
「どこに」
「奥に作る。白磁庭園区画を使い、霧と灰と戻り水を巡らせる。死体の匂いも薄く流してやる。必要なら棺も作る」
「棺」
ヴェルグレイヴの瞳に、わずかな光が宿った。
食いついた。
余は続ける。
「ただし条件がある」
「言え」
「余のコアに牙を向けるな」
「よい」
「フィルエを殺すな」
そこで、ヴェルグレイヴが少し黙った。
空気が冷える。
フィルエの息が止まる。
余はすぐに言葉を重ねた。
「殺せば寝床はなくなる」
「……」
「フィルエは余の契約者だ。殺すなら、お前は余の敵だ。余の敵に寝床は与えん」
「なるほど」
「さらに、余の配下を勝手に喰うな」
「邪魔なら?」
「余に言え。余がどかす」
「面倒だ」
「寝床とは、面倒を受け入れて得るものだ」
よく分からない理屈だが、言い切った。
ヴェルグレイヴはなぜか納得したように、わずかに顎を引いた。
「他には」
「この迷宮が本当に破壊されかけた時、お前は防衛に加われ」
「起きろと?」
「そうだ」
「頻繁なら断る」
「余にもプライドがある。お前を毎度起こす気はない」
「ならよい」
よいのか。
余は内心で叫んだ。
だが表には出さない。
出すな。
ここで小物に戻るな。
「契約は命脈契約とする」
《警告》
管理音声が即座に反応した。
《対象ヴェルグレイヴの存在格は極めて高位です》
《命脈接続は危険です》
《コア側への負荷、測定不能》
「黙れ」
《警告》
「分かっている。だが、ただ住まわせれば、いつ裏切るか分からん」
《事実です》
「なら縛る」
余はヴェルグレイヴへ告げた。
「命脈契約を結べ。お前は寝床を得る。余は防衛戦力を得る。ただし、コアが砕ければお前も消える」
ヴェルグレイヴが、初めてはっきり笑った。
「面白い」
「何がだ」
「寝床と死を同じ場所に置くのか」
「ロードとはそういうものだ」
「お前は、弱いのに妙なことを言う」
「弱いは余計だ」
「だが、迷宮はよい」
ヴェルグレイヴは砕けた門を越え、第一層の内側へ一歩入った。
罠はまだ撃たない。
余はすべての配下を止める。
ヴェルグレイヴは、床に手を触れた。
「冷たい」
「白磁床だ」
「湿っている」
「戻り水を巡らせている」
「死が近い」
「アンデッドゴブリンが多いからな」
「……よい」
その一言が、ひどく重かった。
「ここなら眠れる」
フィルエが、コア近くで弱々しく言った。
「ロード」
「何だ」
「あれ、置くの?」
「置く」
「私を殺しかけたんだけど」
「殺せなくする」
「そういう問題じゃない」
「余もそう思う」
「思うんだ」
「だが、あれは強い」
余は言った。
「強いものを、ただ敵にしておく余裕はない」
フィルエは黙った。
反論はなかった。
彼女自身が、一番よく知っている。
ヴェルグレイヴの強さを。
見えていたのに勝てなかった相手を。
ヴェルグレイヴが顔を上げる。
「契約しよう」
《警告。命脈契約対象として登録しますか》
「登録しろ」
《対象名を確認》
「古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴ」
《対象確認》
《契約条件を設定してください》
「寝床提供。コア不可侵。契約者不可侵。配下の無断捕食禁止。迷宮存亡時の防衛義務。コア破壊時、同時消滅」
《条件設定》
《対象承認を確認します》
迷宮全体に、静かな問いが流れた。
《対象ヴェルグレイヴ。契約条件を承認しますか》
古血のヴァンパイアは、ひどく面倒そうに目を細めた。
それから、短く答えた。
「眠れるなら、よい」
《承認確認》
《命脈契約、開始》
白い部屋の床が、再び光った。
だがフィルエの時とは違う。
温かさではない。
冷たい夜が、コアの外側に触れる感覚。
深い棺の蓋が、ゆっくり閉じていくような圧。
余は思わず息を呑んだ。
「っ……重いな、お前!」
ヴェルグレイヴが薄く笑う。
「古いのでな」
「自慢するな!」
《命脈接続、進行中》
《対象存在格、高位》
《契約線を単一化せず、寝床区画経由の間接接続へ変更》
《専用区画の生成を推奨》
「専用区画?」
《古血のヴァンパイアの存在安定、および秘匿のため、専用寝床区画を設ける必要があります》
余は即座に決めた。
「白磁庭園区画の奥を使う。霧を流し、灰を敷け。戻り水は細く巡らせろ。外部から見えぬよう影糸で覆え」
《区画名を設定しますか》
余は少し考えた。
白磁。
夜。
棺。
古血。
「夜棺白庭」
《専用区画:夜棺白庭、仮設定》
白磁庭園区画のさらに奥。
まだ誰も踏み込ませていない、冷たい白の回廊が動き始める。
白磁の床が沈む。
灰が敷かれる。
戻り水が細い水脈となって巡る。
影縫い大蜘蛛の糸が天井を覆う。
白磁花が、血の気配に反応して閉じる。
棺の形をした白い寝台が、ゆっくりと組み上がった。
《夜棺白庭、形成開始》
《命脈契約、成立》
《対象:古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴ》
《契約条件:寝床提供、防衛義務、契約者不可侵、コア不可侵、配下の無断捕食禁止、コア破壊時同時消滅》
その瞬間、ヴェルグレイヴの気配が迷宮内に沈んだ。
敵として外から押し寄せていた夜が、迷宮の一部として深く落ちる。
余は震えそうになった。
いや、震えた。
少しだけ。
仕方ないだろう。
今、余はとんでもないものを迷宮に入れた。
だが、白い部屋では堂々と言った。
「よし。契約成立だ」
フィルエがぼそりと言う。
「本当に置いた」
「置いた」
「飼えてないよ」
「分かっている」
ヴェルグレイヴは、夜棺白庭へ向かってゆっくり歩き出した。
その背中に、余は声をかける。
「古血」
ヴェルグレイヴが振り返る。
「何だ」
「起きる条件は守れ。余が呼ぶまで、基本は眠っていろ」
「弱い敵では起こすな」
「起こさん。余の迷宮は、余の罠で勝つ」
「強い敵なら?」
「本当に詰んだ時だけ起こす」
「よい」
ヴェルグレイヴは白磁の回廊の奥へ消えていく。
最後に、低い声だけが残った。
「寝床を壊す者が来たら、起こせ」
余はしばらく黙った。
白い部屋に、管理音声が響く。
《新規契約存在が追加されました》
《霧灰白庭迷宮、内部危険度が大幅に上昇しました》
《秘匿を推奨します》
「当然だ」
余は即答した。
「こんなものがいると知られたら、SSS級冒険者だの勇者だのが来る。絶対に外へ漏らすな」
《承知しました》
「ダンジョン新聞にも載せるな」
《ダンジョン新聞の完全制御は不可能です》
「努力しろ!」
《可能な範囲で秘匿します》
余は深く息を吐いた。
フィルエは生きている。
ヴェルグレイヴは敵ではなくなった。
だが、安心はできない。
余の迷宮の奥に、災厄が眠ることになったのだ。
フィルエが、弱々しく笑った。
「ロード」
「何だ」
「とんでもないもの、住み着いたね」
「言うな」
「でも、勝ったの?」
余は少し考えた。
勝った。
のか?
倒してはいない。
追い返してもいない。
ただ、契約で縛った。
寝床を与え、防衛義務を負わせた。
ならば。
「勝った」
余は言った。
「余の迷宮に入ったものを、余の条件で縛った。ならば勝ちだ」
フィルエは目を閉じた。
「うん。ロードっぽい」
「当然だ」
白い部屋の壁面には、新たな区画が表示されている。
夜棺白庭。
その最奥に、白磁の棺があった。
そこに、古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴが横たわる。
眠る災厄。
使えない切り札。
見せてはいけない最強戦力。
余は、その表示を見ながら呟いた。
「……絶対に、起こさずに済ませてやる」
だが、白磁の棺の中で。
古血は、楽しそうに目を閉じていた。




