第113話 古い血は、寝床を探していた
それは、今起きた出来事ではなかった。
もっと前だ。
霧灰白庭迷宮がまだ、白磁庭園を喰う前。
ロードがBランクに上がった頃。
遠い、遠い場所に、ひとつの迷宮があった。
名を覚えている者は、もうほとんどいない。
ロードは消えていた。
コアは完全には砕けていなかった。
命令は腐り、罠は古び、魔物は眠り、迷宮だけが腹を残していた。
フィルエがかつて言った、例外。
ロードがいないのに、迷宮だけが残る異常。
死に損なったダンジョン。
その空殻迷宮は、長く長く沈黙していた。
だが、沈黙とは安定ではない。
命令するロードがいない。
修復する意思がない。
不要な魔力を逃がす器もない。
迷宮の腹に溜まり続けたマナは、やがて腐った血のように膨れ上がり、ある夜、破れた。
それが、ダンジョンブレイクだった。
石壁が裂けた。
古い棺が開いた。
罠が外へ流れた。
眠っていた魔物たちが、夜に吐き出された。
人間の村が三つ、朝までに灯りを失った。
通りかかった冒険者の一団は、悲鳴を上げる暇もなく消えた。
そして、壊れた迷宮の最奥から、一体の魔物が起き上がった。
白い肌。
古い黒衣。
血のように暗い瞳。
だが、その魔物は、出てすぐに暴れ回ったわけではなかった。
空を見た。
風を嗅いだ。
壊れた迷宮の残骸を振り返り、つまらなさそうに呟いた。
「……浅い」
棺は壊れていた。
寝床は崩れていた。
迷宮の腹は破裂し、湿りも闇も失われていた。
眠るには足りない。
休むにはうるさい。
古血のヴァンパイアは、夜の中へ歩き出した。
名は、ヴェルグレイヴ。
昔は、そう呼ばれていた。
だが本人は、名にさほど興味がなかった。
血にも、支配にも、名誉にも、あまり興味がない。
ただ、眠れる場所が欲しかった。
深く。
暗く。
静かで。
魔力が濃く。
死の匂いがあり。
なおかつ、崩れない場所。
ヴェルグレイヴは旅をした。
人間の町は駄目だった。
灯りが多い。
鐘がうるさい。
血はあるが、浅くて騒がしい。
聖堂はもっと駄目だった。
白い香が鼻につく。
祈りの声が耳障りだった。
森の洞窟も駄目だった。
湿りはあるが、魔力が薄い。
獣の巣も駄目だった。
温い。
弱小ダンジョンもいくつか見つけた。
だが、どれも狭く、浅く、怯えていた。
ヴェルグレイヴが近づいただけで、迷宮の魔力が縮こまる。
その時点で寝床ではない。
「……違う」
そう呟いて、また歩く。
長い旅だった。
人間たちは、夜の怪物の噂をした。
ロードたちは、どこかで何かが流れていると新聞で読んだ。
だが、誰もその正体を掴めなかった。
ヴェルグレイヴは、戦うために歩いていたのではない。
眠るために歩いていた。
そして今。
その古い血は、霧灰白庭迷宮の近くの森へ辿り着いていた。
白い部屋の壁面に映る森は、ひどく見づらかった。
迷宮の内部ではない。
外だ。
ロードである余の目は、迷宮内ならいくらでも届く。
だが、外は違う。
入口付近や霧の届く範囲、戻り水の湿りが触れる場所、影縫い大蜘蛛の糸がかすかに伸びた場所。
それくらいしか見えない。
だから、森の外縁は途切れ途切れだった。
黒い幹。
白い霧。
濡れた土。
その向こうに、何かがいる。
「管理音声。もっと鮮明にできぬか」
《外部領域のため、監視精度には限界があります》
「限界を超えろ」
《不可能です》
「使えん!」
《現在可能な監視手段をすべて展開しています》
分かっている。
分かっているが、苛立つ。
フィルエはもう森へ向かっている。
止めたのに、行った。
見ないと分からない、と言って。
あいつはいつもそうだ。
余が知らないものを見ている。
余が見落とす流れを読む。
それは役に立つ。
非常に役に立つ。
だが、今回ばかりは嫌な予感がした。
「フィルエとの通信は?」
《微弱ですが接続中》
「繋げ」
《接続します》
白い部屋の空気が揺れた。
フィルエの声が、霧の奥から届く。
『ロード』
「戻れ」
『まだ何も見てない』
「だから戻れと言っている」
『見ないと、もっと危ない』
「見て死んだら意味がないだろうが!」
返事は少し遅れた。
『死ぬつもりはないよ』
「死ぬつもりのある奴は少ない」
『それはそう』
「納得するな。戻れ」
通信の向こうで、草を踏む音がした。
フィルエは止まらない。
余は白い部屋の床を睨んだ。
「グズは?」
《泥門番長ゴブリン、入口第二層に配置済み》
「影縫い大蜘蛛は?」
《外縁側へ糸を伸ばしています。ただし、迷宮外への長距離展開は不安定です》
「カゲヌイは?」
《影罠を入口内側に再構成中》
「帰路喰らいの落武者は?」
《移動可能。ただし、迷宮外へ出す場合、制御精度が低下します》
「出すな。絶対に外へ出すな」
《承知しました》
あれを外へ出して、人間に見られるのも困る。
ましてや、何か分からぬ相手にぶつけて、こちらの切り札を壊されるのはもっと困る。
余は、まだヴェルグレイヴを知らない。
古血のヴァンパイアという名も知らない。
だが、嫌なことだけは分かった。
あれは、普通の魔物ではない。
フィルエは森の中を歩いていた。
白い髪に霧がかかる。
足元の草は、彼女を避けるようにわずかに傾いた。
彼女は剣士ではない。
魔術師でもない。
人間でもない。
森から来たもの。
迷宮のマナ流を見て、魔物進化の歪みを嗅ぎ、ロードの迷宮が変質していく様子を観測してきた存在。
だからこそ、分かる。
森が怯えていた。
獣が逃げているのではない。
草木が沈黙している。
虫の音が途切れ、風の通り道が曲がっている。
そこにいる何かを、森そのものが避けていた。
『フィルエ』
ロードの声が通信越しに響く。
『まだ行くのか』
「うん」
『余は止めたぞ』
「聞いた」
『なら戻れ』
「聞いたけど、従うとは言ってない」
『お前な……!』
フィルエは少しだけ笑った。
でも、その笑みはすぐに消えた。
前方の霧が、黒く沈んでいた。
霧灰白庭迷宮の霧は白と灰を含む。
白磁庭園を吸収してからは、冷たい白も混じるようになった。
だが、目の前のそれは違う。
夜だった。
霧が夜を吸っている。
そこに、一人立っていた。
男の姿をしていた。
長い黒衣。
白すぎる顔。
血の色を沈めたような瞳。
魔物にしては静かすぎる。
人間にしては古すぎる。
フィルエは息を止めた。
見えた。
見えてしまった。
その存在の奥に、迷宮の残骸がある。
破裂した空殻迷宮。
腐った命令。
眠っていた棺。
古い血。
流れ出した夜。
「……ロード」
『何だ。見えたのか』
「うん」
『何だ』
「魔物」
『それは分かっている!』
「でも、ただの魔物じゃない」
黒衣の男が、ゆっくりこちらを向いた。
視線が合った瞬間、フィルエの背筋に冷たいものが走った。
殺意ではない。
興味でもない。
ただ、邪魔な枝を見るような目だった。
「迷宮の匂いがする」
男が言った。
声は低く、乾いていた。
「お前から、迷宮の匂いがする」
フィルエは後ろへ半歩下がった。
『フィルエ?』
ロードの声が硬くなる。
『相手が喋ったのか?』
「うん」
『戻れ』
「たぶん、もう遅い」
『何?』
黒衣の男が一歩進む。
足音はしなかった。
だが、地面に落ちた葉が、血を吸ったように黒ずんだ。
「そこの迷宮」
男は、フィルエの向こうを見ていた。
霧灰白庭迷宮の方を。
「霧がある」
また一歩。
「灰がある」
また一歩。
「泥もある。水も巡っている。死の匂いもある。白い石の冷たさも混じる」
フィルエは理解した。
こいつは、迷宮を攻略対象として見ていない。
獲物としても、敵としても見ていない。
もっと奇妙な目で見ている。
寝床を探す目だ。
「あなた、何?」
フィルエが問う。
黒衣の男は、少しだけ目を細めた。
「名を聞くのか」
「うん」
「昔は、ヴェルグレイヴと呼ばれていた」
その名が、森の中で落ちた。
重い名だった。
フィルエは、すぐにロードへ伝えようとした。
だが、その前に、ヴェルグレイヴの視線がフィルエへ戻った。
「お前は何だ」
「フィルエ」
「種ではない」
「森から来たもの」
「森のものか」
「たぶん」
「迷宮と繋がっている」
「うん」
「なら、邪魔だ」
次の瞬間、フィルエは横へ跳んでいた。
判断より先に体が動いた。
見えていた。
ヴェルグレイヴの右手が伸びる流れ。
爪が首へ来る角度。
避けるべき方向。
全部、見えていた。
なのに。
肩が裂けた。
「っ」
『フィルエ!?』
ロードの声が遠い。
フィルエは木の幹を蹴り、距離を取る。
肩から血が落ちる。
血は地面に触れる前に、黒い霧へ吸われた。
ヴェルグレイヴは手についた血を見た。
「薄い」
そして、つまらなさそうに言った。
「だが、迷宮の味がする」
フィルエの瞳が細くなる。
森のマナが彼女の周囲に集まった。
蔦が動く。
根が浮く。
木々の影が、ヴェルグレイヴの足元に絡もうとする。
「ロード、聞いて」
『聞いている! 逃げろ!』
「古血。名前はヴェルグレイヴ」
『名前など後でいい!』
「強い」
『それも見れば分かる!』
「たぶん、Aランク冒険者よりずっと上」
通信の向こうで、ロードが黙った。
フィルエは息を整える。
ヴェルグレイヴは急がない。
追い詰めている自覚すらなさそうだった。
ただ、眠る前に邪魔なものを払おうとしている。
それだけ。
「そこを通すわけにはいかない」
フィルエが言った。
「なぜ」
「あそこは、ロードの迷宮だから」
「ロード」
ヴェルグレイヴは、その言葉を口の中で転がした。
「まだ生きているロードか」
「うん」
「なら、コアもある」
「ある」
「深いか」
「あなたの寝床にはしない」
ヴェルグレイヴが、初めてわずかに笑った。
「決めるのは、お前ではない」
空気が沈んだ。
フィルエは森の根を走らせた。
湿った土が隆起する。
蔦が四方から伸びる。
枝が槍のように降る。
森の中なら、フィルエは決して無力ではない。
むしろ、かなり強い。
彼女は力任せに戦うのではない。
流れを読む。
相手の魔力の濃淡を見る。
動き出す前の歪みを察知する。
逃げ道を残しながら、相手の足を止める。
だが。
ヴェルグレイヴは止まらなかった。
蔦が触れた瞬間、枯れた。
根が絡んだ瞬間、黒く腐った。
枝は白い手で軽く払われ、音もなく砕けた。
フィルエは見ている。
見えている。
なのに、対処が追いつかない。
「遅い」
ヴェルグレイヴが消えた。
いや、消えたように見えた。
次の瞬間、フィルエの腹に衝撃が走った。
「っ、あ……!」
体が浮いた。
木を二本折って、フィルエは地面を転がった。
『フィルエ!』
ロードの声が荒れる。
『戻れ! 今すぐ戻れ! 入口まで走れ!』
フィルエは立ち上がろうとした。
膝が揺れた。
口の端から血が落ちる。
視界が赤く滲む。
それでも、彼女はヴェルグレイヴを見た。
見なければならなかった。
見て、伝えなければならなかった。
「ロード」
『喋るな! 逃げろ!』
「この魔物、迷宮を探してる」
『分かっている!』
「違う。攻略じゃない」
フィルエは、震える息で続けた。
「寝床として、見てる」
通信の向こうで、ロードが息を呑んだ気配がした。
ヴェルグレイヴはゆっくり歩いてくる。
足音はない。
だが、夜が近づいてくる。
「お前は逃げるのか」
ヴェルグレイヴが問う。
フィルエは答えなかった。
代わりに、地面に手をつく。
森のマナを掴む。
逃げ道を探す。
霧灰白庭迷宮までの距離。
入口までの最短経路。
ロードの霧が届く境界。
戻り水の湿りがわずかに滲む場所。
影縫い大蜘蛛の糸が、かすかに触れている枝。
そこまで行ければ、迷宮の腹に落ち込める。
そこまで行けば、ロードが拾える。
「逃げるよ」
フィルエは言った。
「そうか」
「でも、覚えておく」
「何を」
「あなたの流れ」
フィルエの目が、淡く光った。
「次は、少しだけ避けやすくなる」
ヴェルグレイヴは、ほんの少し興味を持ったようだった。
「次があると思うのか」
「あるよ」
フィルエは笑った。
血だらけの顔で。
「私は、あの迷宮に帰るから」
森が一瞬だけ鳴った。
根が爆ぜる。
落ち葉が舞い上がる。
フィルエの姿が、霧の中へ滑り込んだ。
ヴェルグレイヴの爪が、彼女のいた場所を裂く。
遅れて血が散った。
完全には避けられていない。
背中を深く切られた。
だが、フィルエは走った。
走るというより、森の流れに落ちた。
木々の間を抜け、湿った土を蹴り、白い霧の薄い筋へ向かう。
『フィルエ! 聞こえるか!』
「聞こえる」
『入口まで来い! 内側に入った瞬間、閉じる!』
「うん」
『死ぬな!』
「努力する」
『努力では足りん!』
「じゃあ、命令して」
通信が一瞬だけ揺れた。
ロードの声が、低くなった。
『フィルエ。余の迷宮へ戻れ』
フィルエは、少しだけ目を細めた。
「了解、ロード」
背後で夜が動く。
ヴェルグレイヴは追っていた。
急いでいるようには見えない。
だが、距離は縮まっている。
速い。
理不尽なほど速い。
フィルエは見えていた。
どの枝を踏めば速いか。
どの根を使えば体を支えられるか。
どの霧に入れば一瞬だけ視界を切れるか。
全部見えている。
それでも、背後の古血は近づいてくる。
その時、前方に白い霧が濃くなった。
霧灰白庭迷宮の入口。
その内側から、泥の匂いがした。
灰の匂いがした。
白磁の冷たさがした。
ロードの気配がした。
フィルエは飛び込んだ。
「閉じろ!」
白い部屋で、ロードが叫んだ。
《入口第一層、緊急閉鎖》
白磁門が落ちた。
泥壁が盛り上がった。
影糸が走った。
フィルエの体が、入口内側の湿った床へ転がり込む。
その直後。
白磁門の外側に、白い手が触れた。
音は小さかった。
こん、と。
棺の蓋を叩くような音。
だが、その一撃で、白磁門に細い亀裂が入った。
白い部屋で、余は固まった。
グズが低く唸る。
影縫い大蜘蛛の糸が震える。
カゲヌイの影罠が、まだ作動していないのに怯えたように揺れた。
門の向こうから、声がした。
「ここか」
低く、静かな声。
「よい匂いだ」
フィルエは、血まみれのまま床に倒れている。
余はその姿を見た。
腹の奥が冷えた。
ロードである余に、腹などないはずなのに。
「管理音声」
《はい》
「フィルエをコア近くへ運べ」
《通常権限では推奨されません》
「命令だ」
《承知しました》
泥がフィルエの体を支える。
白磁床が滑るように動く。
影糸が落とさぬように絡む。
フィルエは薄く目を開けた。
『ロード……』
「喋るな」
『来るよ』
「知っている」
『あれ、強い』
「見れば分かる」
『たぶん、止められない』
「黙れ」
余は白い部屋の壁面を睨んだ。
白磁門の向こうに、古い血が立っている。
迷宮みたいな魔力。
夜のような気配。
そして、霧灰白庭迷宮を寝床として見ている怪物。
余は、声を震わせなかった。
「ここは余の迷宮だ」
白磁門に、もう一度、こん、と音がした。
亀裂が広がる。
余は言った。
「勝手に寝床にされてたまるか」
だが、フィルエの血が、内側の床に広がっていく。
先に救うべきものがあった。
先に繋ぐべき命があった。
余は、決断した。
「管理音声」
《はい》
「フィルエとの契約を、深める」
《命脈接続を行いますか》
「やれ」
《警告。命脈接続後、対象フィルエはコア生命線に組み込まれます》
「構わん」
《コア破壊時、対象も同時消滅します》
「分かっている」
《ロードの生命領域を分配します》
「早くしろ!」
白い部屋の床に、淡い光が走った。
フィルエの血が、霧灰白庭迷宮の床へ染み込む。
その瞬間。
白磁門の向こうの古血が、少しだけ笑った気がした。
「中に、入れるのか」
門に三度目の音が響いた。
こん、と。
亀裂が、花のように広がった。




