第112話 号外は、Aランクの死を売る
白い部屋は、しばらく静かだった。
いや、正確には静かではない。
迷宮の各所では、まだ音がしていた。
白磁回廊の割れ目に泥が流れ込む音。
影縫い大蜘蛛が、裂けた糸を張り直す音。
赤錆噛みどもが、折れた金具片や鎧留めを齧る音。
アンデッドゴブリンが、死んだはずのゴブリンの腕を引きずって、また立ち上がろうとする音。
そして、奥の通路では。
帰路喰らいの落武者が、何もいない出口の方を、まだ見ていた。
……怖い。
味方なのに怖い。
あれはもう、追跡者と呼んでいた頃とは違う。
帰ろうとするものを覚え、帰り道そのものを喰った怪物だ。
Aランク冒険者パーティ。
銀刻の五人。
その最後の一人が、出口寸前で内側へ引き戻された光景は、余の中にもまだ残っている。
ラザルとかいう剣士の顔。
あの、理解できないという目。
勝った。
余は勝った。
霧灰白庭迷宮は、Aランク冒険者パーティを帰さなかった。
なのに。
「……管理音声」
《はい》
「勝った、のだな?」
《はい。侵入者群、全員の生命反応消失を確認しています》
「そうか」
余は、できるだけ落ち着いて頷いた。
配下の前では堂々とする。
それがロードである。
それが霧灰白庭迷宮の主である。
だから、白い部屋の中央で、余は重々しく言った。
「当然だな」
《はい》
「余の迷宮に入ったのだ。当然、死ぬ」
《はい》
「……途中、かなり危なかったが」
《はい》
「そこは否定しろ!」
《事実です》
くそ。
管理音声はいつも正直で困る。
だが、今回は本当に危なかった。
白磁庭園を吸収していなければ。
帰路喰らいの落武者が進化していなければ。
影縫い大蜘蛛とカゲヌイの仕掛けが間に合っていなければ。
グズが泥を支え、赤錆噛みが金具を齧り、アンデッドゴブリンが死体の壁にならなければ。
……負けていたかもしれない。
いや、負けていた。
余は、それを認めるくらいには、もう馬鹿ではない。
白い部屋の壁面に、戦利品の一覧が浮かぶ。
《戦利品処理中》
《銀刻剣の折れ刃》
《銀刻式帰還標識片》
《老魔術師の杖核片》
《破砕術式残滓》
《浄化祈祷具片》
《白衣の聖布》
《斥候用影針靴》
《迷宮地図帳の破片》
《大盾破損片》
《盾役の踏ん張り骨》
《Aランク迷宮攻略記憶片》
ずらりと並ぶ文字列を見て、余は黙った。
多い。
そして、どれも使えそうだった。
「殺した後も、役に立つのだな」
《はい。高位侵入者の装備、術式、記憶片は迷宮強化資源として有効です》
「なるほど」
余は、少しだけ笑った。
「では、銀刻の五人とやらは、死んでからも余の役に立つわけだ」
《はい》
「よし」
実によい。
人間どもは勝手に入ってくる。
死ぬ。
ソウルになる。
素材になる。
罠になる。
迷宮の一部になる。
素晴らしい循環ではないか。
……いや、待て。
余はそこで、ふと気づいた。
「管理音声」
《はい》
「外の人間どもは、これをどう知る?」
《詳細は把握できません。ただし、外部に残された痕跡、生還者不在、遠距離魔力観測、入口周辺の戦闘痕から、Aランクパーティの帰還失敗は推測可能です》
「ふむ」
つまり、内部で何が起きたかは分からない。
だが、銀刻の五人が帰ってこないことは分かる。
それだけで十分騒ぎになる。
余は、白い部屋の床に視線を落とした。
「悪目立ち、したか?」
《はい》
「……やはりか」
その時だった。
白い部屋の空間に、ぱさり、と黒い紙が落ちた。
次の瞬間、二枚、三枚、四枚。
白い床に、黒い新聞紙が積み重なっていく。
表題は、見慣れた文字。
ロードだけが読める新聞。
人間どもには決して届かない、迷宮のための情報紙。
ダンジョン新聞だった。
《ダンジョン新聞、号外です》
「早いな!?」
《号外ですので》
「そういう問題か?」
余は新聞を拾い上げた。
そして、目を通した瞬間、固まった。
⸻
《号外》
《霧灰白庭迷宮、Aランク冒険者パーティ“銀刻の五人”を全滅》
《白磁庭園吸収後、初の高位攻略戦にて帰還者なし》
《評価更新:Bランク上位相当より、Aランク査定対象へ正式移行》
《注意喚起:帰還阻害、白磁複合区画、死体系魔物運用、帰路捕食個体を確認》
⸻
「……書かれている」
《はい》
「余のことが、ものすごく書かれている」
《はい》
「勝ったのに、全然安心できぬのだが?」
《高位迷宮として認知が進んでいます》
「それは喜んでいいのか?」
《状況によります》
「便利な言葉で逃げるな」
余は新聞をさらにめくった。
記事は、実に楽しそうだった。
いや、書いている側は楽しそうだった。
読まされる余は、少し胃が痛い。
⸻
《解説》
白磁庭園を吸収した旧迷靄洞、現・霧灰白庭迷宮は、白磁属性、霧灰属性、泥水系、死体系、影糸系を複合運用する稀少迷宮へ移行した。
今回のAランク冒険者パーティ全滅により、単なる成長迷宮ではなく、明確な高位危険迷宮として扱うべき段階に入ったと見られる。
特に注目すべきは、出口直前における帰還失敗である。
帰路を断つだけでなく、帰路そのものを餌場化している可能性がある。
⸻
「帰路そのものを餌場化……」
余は、ちらりと帰路喰らいの落武者の視界を開いた。
奴は、まだ出口の方を見ていた。
白い霧の中に、折れた銀剣のかけらが沈んでいる。
それを踏むこともなく、ただ佇んでいる。
あれはもう、普通の魔物ではない。
通路を歩くものを追うのではなく、帰ろうとする意思を追っている。
「……うむ。記事の言い方は癪だが、間違ってはいないな」
《はい》
新聞の下には、ロードたちの反応欄があった。
⸻
《ロード反応欄》
《井守》
Aランクを帰さなかったか。
もう弱小迷宮とは呼ばれまい。
だが、名が売れるほど、次に来るものは選べなくなる。
勝てる敵だけが来るとは思うな。
「……ふん」
余は鼻を鳴らした。
「分かっている。勝ったからといって、楽になるわけではない」
《はい》
「むしろ、面倒なものを呼ぶ」
《はい》
「だが」
余は新聞を握った。
「呼ばれる側になるのも、悪くない」
昔の余なら、ここで叫んでいただろう。
嫌だ、来るな、余はまだ弱い、どうしてこうなる、と。
今も、叫びたい気持ちはある。
かなりある。
だが、それをそのまま表に出すほど、余はもう最初の余ではない。
霧灰白庭迷宮の配下は増えた。
白磁庭園は余のものになった。
Aランク冒険者は死んだ。
ならば。
余も、それに相応しく振る舞わねばならない。
新聞のコメント欄は続く。
⸻
《黒泥胎窟》
泥と白磁の併用、悪くない。
清潔な床ほど沈む時に美しい。
⸻
《逆骨廟》
Aランク聖職者の装備片、死体系罠に転用可能。
浄化を逆流させられるなら価値あり。
⸻
《鏡霧劇場》
声真似個体の運用記事を希望。
帰路で仲間の声が聞こえる迷宮はよい迷宮。
⸻
《匿名ロード》
Aランクを喰ったら次はSランクが来るのでは?
怖すぎるので近寄りたくない。
⸻
「最後の奴、正直だな」
《はい》
「余も近寄りたくない」
《自分の迷宮です》
「知っている!」
余は新聞をめくった。
号外の隅には、別の記事も載っていた。
⸻
《周辺情報》
《旧白磁庭園庇護下迷宮、続報》
旧白磁庭園の直接庇護下にあった七迷宮のうち、四迷宮は消滅を確認。
小骨溜まり。
眠り蔦の垣。
白鼠の納骨穴。
硝子蛾の小巣。
錆釘小道は沈黙。所在不明。
薄灯茸穴、浅泥井戸は霧灰白庭迷宮への接続要請を継続中。
⸻
「……まだ生きているのは、二つだけか」
《はい》
「薄灯茸穴と浅泥井戸」
《はい》
余は少し考えた。
薄灯茸穴は胞子、幻覚茸、匂い消し素材を持つ。
浅泥井戸は水脈、泥、足跡記録、戻り水との相性がある。
使える。
守る理由はある。
ただし、今すぐその話を広げる余裕はない。
「後で整理する」
《承知しました》
「善意で守る気はない。使えるなら残す。それだけだ」
《ロード判断として適切です》
「当然だ」
さらに紙面をめくる。
そこで、余の手が止まった。
⸻
《特集》
《Aランク査定対象迷宮に見る、宝物庫機能の兆候》
《宝箱は報酬か、餌か》
《高位迷宮に挑む冒険者たちが命を賭ける理由》
⸻
「……宝箱?」
《関連機能説明を表示しますか》
「表示しろ」
白い部屋の壁面に、新聞記事と連動する形で文字が浮かんだ。
《迷宮宝物庫機能》
《Aランク以上の一部ダンジョンに解放される高位運営機能》
《ロードは宝箱、報酬品、魔道具、武器防具、希少素材などを迷宮内に配置可能》
《配置された宝は、侵入者の誘引、探索深度の増加、攻略価値の付与に寄与します》
余は、じっと文字を読んだ。
宝。
宝箱。
魔道具。
武器。
防具。
希少素材。
冒険者が命を賭けても欲しがるもの。
「待て」
《はい》
「宝を置けば、冒険者が来るのか?」
《はい》
「危険でも?」
《宝の価値が危険度を上回ると判断されれば、侵入者は増加します》
「つまり」
余は、ゆっくり言った。
「餌を置けるのか」
《表現は不適切ですが、概ね正解です》
「正解ではないか」
《概ね正解です》
余は思わず笑いそうになった。
今まで、冒険者どもは討伐や調査で来ていた。
ギルドの命令。
名誉。
危険指定。
攻略依頼。
そういうものに動かされて来ていた。
だが、宝箱が置けるなら話が変わる。
こちらから誘える。
欲を刺激できる。
命を賭ける理由を、余が配置できる。
「これは、よい」
《現在、迷宮宝物庫機能は未解放です》
「なぜだ!」
《霧灰白庭迷宮は現在、Aランク査定対象です。正式なAランク到達後、解放条件を満たす可能性があります》
「可能性では困る!」
《現時点では未解放です》
「くっ……!」
余は新聞を握り締めた。
惜しい。
実に惜しい。
宝箱。
罠部屋。
白磁宝物室。
影縫い献上室。
帰路を狂わせる財宝庫。
冒険者が箱に手を伸ばした瞬間、床が閉じ、影が縫い、泥が沈み、霧が笑う。
素晴らしいではないか。
なぜ今使えない。
《正式なAランク到達が必要です》
「分かっている!」
だが、これは覚えておく。
Aランクになったら、必ず使う。
ただ殺すだけではない。
欲で歩かせ、欲で迷わせ、欲で深く潜らせる。
宝を見つけた冒険者は、引き返す判断が鈍る。
あと一つ。
もう一部屋。
あの箱だけ。
その欲が、命を削る。
「宝とは、侵入者の欲を測る道具か」
《はい》
「よし。余は宝を置く。いずれ必ず置く」
《現時点では未解放です》
「二度言うな!」
新聞の最後の方に、小さな続報欄があった。
目立たない記事だった。
だが、妙に黒いインクが濃い。
⸻
《続報なし》
《辺境ロード不在迷宮、空殻化後の崩壊反応について》
以前報じた遠方のロード不在迷宮におけるダンジョンブレイクについて、追加情報は少ない。
流出した高位魔物の一部は追跡不能。
周辺の小規模集落に夜間消失事例あり。
詳細不明。
⸻
「ロード不在迷宮……」
余は、その文字を見て、フィルエの言葉を思い出した。
普通、ロードがいなくなればダンジョンも消える。
だが、ごく稀に、ロードがいなくても残る迷宮がある。
ロードの意思だけが消え、迷宮の腹だけが残る場所。
命令だけが腐らず、マナの循環だけが歪んで続く場所。
死に損なった迷宮。
フィルエは、そう言っていた。
「これも、その類か」
《可能性があります》
「遠方だな?」
《はい。霧灰白庭迷宮からは相当距離があります》
「なら、今は関係あるまい」
《現時点では不明です》
「不明という言葉は嫌いだ」
《事実です》
余は新聞を畳んだ。
今は、戦利品の整理が先だ。
迷宮の修復が先だ。
宝物庫機能は未解放。
薄灯茸穴と浅泥井戸は後回し。
井守の忠告は覚えておく。
Aランク査定対象。
その響きは重い。
だが、悪くない。
余は、白い部屋の中心でゆっくり息を吐いた。
「管理音声。各区画の損傷報告を出せ。グズには泥門周辺の修復を続けさせろ。影縫い大蜘蛛は糸の張り直し。カゲヌイは帰路誤認標識片の保管。赤錆噛みは銀刻剣の金具片に近づけるな。全部齧られては困る」
《承知しました》
「アンデッドゴブリンは?」
《再起動中の個体が複数。損耗個体も含め、死体資源として再利用可能です》
「よし。死んだゴブリンも働かせろ」
《承知しました》
そう言ったところで、白い部屋の片隅に、小さな緑がかった光が灯った。
通信。
契約者からの接続要求。
《契約者フィルエより接続要求》
余は眉をひそめた。
「フィルエ?」
すぐに接続を許可する。
白い壁面に、森の影が滲んだ。
いつものようにぼんやりとした輪郭。
けれど、その声は少し硬かった。
『ロード』
「何だ。今、こちらは戦後処理で忙しい」
『うん。知ってる』
「なら後にしろ」
『後にすると、たぶん近づく』
余は黙った。
「何がだ」
フィルエの声が、一段低くなる。
『森の外縁に、変なのがいる』
「変なの?」
『魔物、だと思う。でも普通じゃない』
「どの程度だ」
少し間があった。
それから、フィルエは言った。
『魔力量が、迷宮みたい』
白い部屋の空気が、わずかに冷えた気がした。
「……迷宮みたいな魔物?」
『うん』
「Aランク冒険者の残党か?」
『違う』
「白磁庭園の残りか?」
『違う』
「人間側の新手か?」
『違うと思う』
「なら何だ」
『分からない』
フィルエが、分からないと言った。
その事実が、嫌だった。
『でも、古い』
「古い?」
『血の匂いがする。夜みたいな魔力。たぶん、遠くから来た』
余は、先ほど読んだ小さな記事を思い出した。
ロード不在迷宮。
ダンジョンブレイク。
流出した高位魔物。
追跡不能。
「フィルエ。近づくな」
『見るだけ』
「見るだけで済む相手か?」
『分からない』
「なら行くな!」
思わず声が荒くなった。
白い部屋に、余の声が響く。
フィルエは少しだけ黙った。
そして、いつもの調子で、静かに言った。
『ロードは外に出られない』
「……」
『だから、私が見る』
「フィルエ」
『大丈夫。危なかったら逃げる』
「逃げられる相手なのかと聞いている」
『分からない』
「分からないなら行くなと言っている!」
返事はなかった。
森の影が、少し揺れる。
通信の向こうで、フィルエがもう歩き出している気配がした。
『ロード』
「何だ」
『もし、私が戻ったら』
「戻る前提で話せ」
『うん。戻る』
それだけ言って、通信は薄くなった。
最後に、フィルエの声が届く。
『あれ、こっちを見てる。霧灰白庭迷宮を』
通信が切れた。
白い部屋に、静寂が戻る。
余は、しばらく何も言えなかった。
新聞は床に落ちていた。
Aランクの死を売る号外。
宝物庫機能の予告。
ロード不在迷宮の小さな続報。
そのすべてが、急に一つの線で繋がったような気がした。
「管理音声」
《はい》
「森の外縁を監視しろ。霧、影、戻り水、蜘蛛の糸。届くものは全部伸ばせ」
《承知しました》
「グズを待機させろ。帰路喰らいの落武者も動かせる位置に置け。ただし、外へは出すな」
《承知しました》
「フィルエの通信を切るな。途切れても追え」
《承知しました》
余は白い部屋の中央で、ゆっくりと目を細めた。
Aランク冒険者を喰ったばかりだ。
白磁庭園を吸収したばかりだ。
ようやく、次の餌の置き方を考え始めたところだった。
なのに。
今度は、迷宮みたいな魔物が森に来た。
「……ふざけるな」
余は小さく呟いた。
だが、声は震えなかった。
震えさせなかった。
「ここは余の迷宮だ」
白い部屋の壁面に、森の外縁が映る。
夜のような黒が、木々の間でゆっくりと動いていた。
余はそれを見つめた。
「余のものを見ているなら、相応の覚悟をしてもらう」
そして、白い霧の奥で。
何かが、こちらを見返した。




