第109話 Aランクは、帰り道から死ぬ
銀刻の五人は、迷宮の入口前で足を止めた。
先頭の銀剣使い、ラザル。
大盾を背負う女戦士、ヘルマ。
杖を握る老魔術師、オルド。
白衣の聖職者、イリア。
そして、斥候のネル。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
入口の湿った石、白く濁った霧、灰の匂い、そして奥から漏れる白磁の冷たい魔力を、五人は黙って見ていた。
「ここが、白庭化した旧迷靄洞か」
ラザルが言った。
その名は、人間側の仮称だ。
霧灰白庭迷宮。
余の新しい名を、こいつらはまだ知らない。
知らなくていい。
知る前に死ね。
「標識一号、置く」
斥候ネルが、入口の外側に銀色の杭を刺した。
次に、入口の内側へ小さな青い結晶を置く。
さらに、糸のように細い魔力線を腰の器具から伸ばした。
三重の退路標識。
さすがAランク。
最初から帰ることを考えている。
「……面倒だな」
《はい。退路確保意識が非常に高いです》
「褒めている場合か」
《分析です》
「分かっている!」
叫びかけて、余は声を抑えた。
ここで慌てるな。
こいつらは強い。
だからこそ、急いで殺そうとすると逃げられる。
井守の言葉が頭をよぎる。
強い冒険者ほど帰り道を見る。
なら、帰り道を先に殺せ。
「赤錆噛み。まだ噛むな」
《待機中》
「戻り水は床下だけ。見せるな」
《はい》
「白磁花粉、第一濃度」
《散布開始》
灰白庭回廊が開く。
白磁の床。
白い柱。
左右に咲く白磁花。
その上に薄い灰。
綺麗だ。
だが、綺麗すぎない。
白い床の継ぎ目には、見えないほど細く戻り水が通っている。
花粉には薄灯茸穴から届いた胞子が混じっている。
匂いを消す菌糸。
方向感覚を一瞬だけ遅らせる幻覚茸の粉。
即死ではない。
毒でもない。
だから聖職者は見逃しやすい。
「浄化するか?」
イリアが花を見た。
老魔術師オルドが首を振る。
「待て。強い毒ではない。むしろ清浄系に近い。だが、匂いがない」
「匂い?」
「花粉があるのに、花の匂いがない。匂いだけ抜かれている」
……気づくのか。
「嫌だな、こいつら」
《Aランクです》
「知っている!」
庭番人形が三体、白磁柱の陰から出た。
白い陶器の人形。
細い腕。
白磁の刃。
見た目は美しい。
だが、あえて弱くしてある。
「来るぞ」
ヘルマが大盾を構えた。
庭番人形が跳ぶ。
速い。
だが、ヘルマの盾が一歩前に出た。
白磁の刃が盾に弾かれる。
次の瞬間、ラザルの銀剣が一閃した。
一体目の首が飛ぶ。
二体目はオルドの石弾で砕ける。
三体目はイリアの杖に触れられ、内部から白く割れた。
早い。
無駄がない。
ゴブリンなら十匹いても、今の一呼吸で潰されていた。
「……やはり強いな」
《庭番人形三体、破壊》
「構わん。見せ札だ」
余は自分に言い聞かせた。
怖い。
だが、まだいい。
まだ奥へ来ている。
ネルが床に膝をつく。
「床の継ぎ目が濡れている」
……こいつ。
「白磁床なのに湿っている。水源が見えない。踏む場所を選べ」
ラザルが頷く。
「全員、ネルの足跡だけを踏め」
五人の足並みが変わった。
先頭が斥候になる。
盾が斜め後ろ。
銀剣が中央。
老魔術師と聖職者が後衛。
危険な迷宮で、最も正しい形。
「なら、その足跡を使う」
《戻り水、浅泥井戸記録と接続します》
床下の戻り水が、ネルの足跡をなぞった。
浅泥井戸から得た沈降記録。
泥が足跡を記憶する仕組み。
それを白磁床の下で再現する。
踏まれた床が、ほんの少し沈む。
戻り水が形を覚える。
そして、数歩遅れて同じ足跡を別の場所に浮かべる。
偽の足跡。
偽の安全地帯。
ネルが眉をひそめた。
「止まれ」
五人が即座に止まる。
……本当に嫌だ。
「どうした」
「俺の足跡が、先にある」
「先に?」
「俺はまだそこを踏んでいない」
オルドが杖を鳴らした。
床に薄い魔法陣が広がる。
「水だ。床下に薄い水脈がある。足跡を写しておる」
見破るのが早い。
だが、見破るために止まった。
止まったなら、次を置ける。
「カゲヌイ」
《影針、第一段階》
白磁柱の影が、ほんの少し伸びた。
ネルの足元ではない。
後衛の聖職者でもない。
盾役ヘルマの大盾の影。
そこへ、細い影針が刺さる。
ヘルマの盾が、一瞬だけ床に引かれた。
「影罠!」
ヘルマが即座に膝を落とし、盾を捨てずに体勢を変える。
ラザルが影を斬った。
斬れるのか。
「くそっ」
《影針、破断》
「だが足は止まった」
その隙に、赤錆噛みが床下を走る。
狙いは人間の肉ではない。
ネルの腰から伸びている魔力線の固定具。
金具。
釘。
留め輪。
赤錆噛みの歯が、白磁床の裏で小さく鳴った。
かり。
かり。
かり。
ネルが振り返る。
「退路線が――」
遅い。
魔力線が、ぷつんと切れた。
「一系統切断!」
ラザルの目が鋭くなる。
「撤退標識を確認しろ」
「まだ二系統残っている」
ネルは冷静だった。
焦らない。
腰の予備標識を取り出し、白磁柱の根元へ刺そうとする。
そこへ、マネが喋った。
ラザルの声で。
「前進」
ネルの手が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬。
Aランクの斥候が、騙されたのは半呼吸にも満たない。
だが、迷宮ではそれで足りる。
「今だ」
影縫い大蜘蛛の糸が、天井から落ちた。
見える糸ではない。
捨て糸でもない。
白磁花粉に紛れた、灰色の極細糸。
ネルの手首。
足首。
首の後ろ。
三点に絡む。
「上!」
ヘルマが盾を上げる。
イリアが浄化光を放つ。
オルドが糸を焼く。
速い。
速すぎる。
だが、ネルの影はもう床に縫われていた。
カゲヌイの本命は、糸ではない。
糸で動きを見せ、影で止める。
ネルが短剣を抜く。
自分の影を斬ろうとする。
その瞬間。
白磁柱の陰から、灰白線喰いの追跡者が出た。
落武者のような鎧。
灰白の刃。
逃げる者の線を喰う、迷宮の追跡者。
「ネル!」
ラザルが踏み込んだ。
銀剣が追跡者の刃を受ける。
火花が散る。
受けた。
こいつ、追跡者の初撃を受けた。
だが、追跡者の刃は一本ではない。
もう一本の短い錆刃が、下から走った。
ネルは避けた。
避けた、はずだった。
戻り水で濡れた白磁床が、足を半歩だけ滑らせる。
その半歩で、首が空いた。
灰白の刃が通る。
音は小さかった。
ネルの首から血が噴き、白磁床に赤い線を引いた。
《Aランク斥候一名、討伐》
《獲得ソウル:六百八十》
《取得:退路標識魔具片、斥候の影針靴、迷宮地図帳の破片、銀刻式魔力線》
白い部屋に表示が浮かぶ。
余は、一瞬だけ言葉を失った。
殺した。
Aランクを。
五人のうち一人を。
歓喜より先に、冷たい震えが来た。
できた。
だが、これで終わりではない。
むしろ、ここからが本番だ。
「ネル!」
イリアが叫ぶ。
ヘルマが盾で追跡者を押し返す。
ラザルの銀剣が、追跡者の肩を裂いた。
灰白の鎧が割れる。
《追跡者、中度損傷》
「下げろ!」
《追跡者、後退》
追跡者が影へ沈む。
ラザルは追わなかった。
追えば死ぬと分かっている。
それがAランクだ。
彼はネルの死体を一瞬見た。
顔を歪めた。
だが、叫ばない。
泣かない。
すぐに判断した。
「撤退する」
ヘルマが歯を食いしばる。
「ここでか」
「斥候を失った。退路線も一つ切られた。敵は声を真似る。床下に水。影罠。天井糸。追跡型の高位魔物。これ以上は情報を持ち帰れない」
正しい。
あまりに正しい。
だから殺す。
「撤退標識二号を起動!」
イリアが青い結晶を掲げた。
光が入口方向へ伸びる。
だが、その光はまっすぐ戻らなかった。
白磁回廊の奥で、マネがイリアの声を真似る。
「撤退標識二号を起動」
同じ声。
同じ響き。
光が二つに割れた。
片方は入口。
もう片方は、偽庭園迷路の奥。
オルドが叫ぶ。
「声に反応しておる! 標識を耳で追うな、魔力で追え!」
「魔力も揺れている!」
ヘルマが盾を構え直した。
白磁花が一斉に開く。
薄灯茸の胞子が、白い霧の中へ溶ける。
匂いが消える。
足跡が消える。
声が増える。
帰り道が、二つ、三つ、四つに割れる。
余は白い部屋で命じた。
「第一層閉鎖。第二層を回せ」
《偽庭園迷路、起動》
「グズはまだ待て」
《了解》
「濁白騎士もまだ見せるな」
《了解》
「赤錆噛み、残った標識の金具を噛め。ただし一気に壊すな。少しずつ狂わせろ」
《了解》
ラザルたちは、ネルの死体を置いていかなかった。
ヘルマが片腕で抱え上げる。
甘さではない。
Aランク斥候の装備と記録を、迷宮に奪わせないためだ。
だが、その分、盾の角度が落ちる。
その分、足が遅くなる。
その分、帰り道が遠くなる。
「……持って帰れると思うなよ」
余は呟いた。
怖い。
こいつらは強い。
一人殺しても、まだ四人いる。
しかも一人を失ったことで、こいつらは油断を完全に捨てた。
ここからは、本気で逃げる。
本気で生き残ろうとする。
だから面白い。
だから喰う価値がある。
《獲得ソウル、使用可能です》
「今は使うな」
《よろしいのですか》
「戦闘中に浮かれて買い物をする馬鹿がどこにいる」
《初期のあなたなら可能性がありました》
「黙れ!」
言ってから、余は笑った。
確かに昔ならやっていたかもしれない。
だが、今は違う。
ソウルは後で使う。
今は、こいつらを逃がさない。
ラザルが銀剣を構え、低く言った。
「全員、耳を信じるな。目も信じるな。俺の背だけ見ろ」
マネが、その声を真似た。
「俺の背だけ見ろ」
四人の表情が凍る。
白い霧の奥で、同じ声がいくつも重なった。
「俺の背だけ見ろ」
「俺の背だけ見ろ」
「俺の背だけ見ろ」
ラザル本人が、初めて舌打ちした。
余は白い部屋の奥で、静かに命じる。
「帰り道を、閉じろ」
白磁の床が、濡れた。
灰が舞った。
霧が沈んだ。
そして、銀刻の五人が入ってきたはずの道が、白い庭の奥へずれた。




