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第96話 戻る水は、報告書を濡らす

人間は、帰った。


 死体を一つ抱え、負傷者を一つ引きずり、三つの封迷箱に汚れた記録を詰めて。


 そして迷靄洞には、血と湿灰と、ほんの少しのソウルが残った。


《獲得ソウル:十八》


《損耗:白灰這い二体、赤錆噛み一体》


《外縁仮穴、二箇所損傷》


《戻り水床下流、一部露見の可能性》


「最後が一番嫌だな」


《はい》


「白灰這い二体も痛い。赤錆噛みも痛い。だが、戻り水を見られたのはもっと痛い」


《危険観測個体が水流異常に気づいた可能性があります》


「若い測量士だな」


《はい》


 白い部屋の監視面には、撤収していく人間たちの残影が映っていた。


 はっきりとは見えない。


 迷宮の外だ。


 だが、フィルエの契約糸が森の音を拾っている。


 荷車の軋み。


 負傷者の呻き。


 封迷箱を固定する金具の鳴り。


 そして、若い測量士の沈黙。


 あいつは、叫ばなかった。


 勝ち誇りもしなかった。


 ただ、濡れた土を見ていた。


 血が奥へ流れず、戻った跡を。


「……殺すべきだったか」


『外で?』


 フィルエの声がした。


「できるならな」


『できたとしても、次に来る人がもっと雑になるだけだよ』


「雑なら殺しやすい」


『でも情報が読みにくい。あの測量士は危ないけど、動きがきれい。追える』


「敵を便利扱いするな」


『ロードもしてるでしょ』


「しているが、言われると腹立たしい」


 フィルエは少しだけ笑ったようだった。


 契約糸が、森の葉擦れのように震えた。


『それと、聖杭技師。あれも危ない』


「分かっている。北側偽脈を餌と読んだ」


『でも外さなかった』


「そこが嫌だ。囮だと分かっていても縛る価値があると判断した」


《高位技術者の可能性が高いです》


「名前は分かるか」


『まだ。周りは“杭師殿”って呼んでる』


「名前を隠しているのか、呼ぶ必要がないほど有名なのか」


《後者の場合、危険度上昇》


「黙っていても上がるものを口に出すな」


 白い部屋の床に、第二層《偽封餌場》の損耗図が浮かんだ。


 外縁仮穴が潰れている。


 戻り水の一部流路が白く濁っている。


 封迷箱の圧が通った場所だ。


 灰灯喰い蟲の分巣は無事。


 核餌も無事。


 だが、戻り水を多めに流したせいで、床下の一部に血と封迷土が戻りすぎていた。


《警告:戻り水床下流に毒戻り反応》


「毒戻り?」


《封迷土の白い圧が戻り水に混ざり、蟲分巣側へ逆流しています》


「黒蜜蟲窟が言っていたな。腹に入れたものが戻るなら、毒も戻る」


《はい》


「すぐ遮断しろ」


《戻り水を遮断すると、分巣湿度が低下します》


「毒で腹が腐るよりはましだ」


《了解》


 戻り水の細流が切られる。


 第二層床下の水が、じわりと止まった。


 灰灯幼蟲たちが、核餌の周囲でざわめく。


 腹を震わせ、小さな殻を擦り合わせる。


 ちり、ちり、ちり。


 白灯器片を削る音とは違う。


 不快な警戒音だ。


「白灰を薄く撒け。骨粉も少し。湿度維持は戻り水に頼りすぎるな」


《了解》


 白灰這いの残骸を使う。


 さっき死んだ二体。


 外縁で潰れ、戻り水に混ざった湿灰。


 それを床下へ戻す。


 死んだものを、腹の湿りに変える。


 以前なら嫌な気分になったかもしれない。


 今は、計算が先に来る。


 白灰這い二体を失った。


 その代わり、封迷箱の線を逸らした。


 死骸は分巣を守る湿りに変わる。


 損耗は損耗。


 だが、無駄死にではない。


「……よくやった」


《白灰這いに対する評価ですか》


「そうだ」


《記録します》


「余が言ったと配下に伝えるな。調子に乗る」


《白灰這いは調子に乗る知性を持ちません》


「気分の問題だ」


 白い部屋の隅で、マネがこそこそと真似をした。


「よくやった」


「お前には言っていない」


「ギィ……」


その時、ダンジョン新聞が落ちた。


 ぽすり、と白い部屋の床に。


 今回は黒蜜文字だけではない。


 通常紙面だ。


 余は、少しだけ嫌な予感を覚えながら紙面を開いた。



【ダンジョン新聞 号外】


特集:外縁封鎖戦、各地で増加


・Bランク《塩棘洞》、冒険者ギルドの封鎖網により攻略され消滅

・Aランク《煙哭炉》、勇者候補隊を内部誘導するも炉心破壊。ロード消滅

・Cランク《黒水鉢》、水脈反転罠で討伐隊を撃退

・Sランク《銀冠樹海宮》、勇者一行による第三核到達を許し、一部階層を喪失

・Bランク《骨鳴墓窟》、封鎖杭十二本を逆利用し、侵入路を墓道化。防衛成功


今月の注目迷宮:

《黒蜜蟲窟》――蟲腹分巣の運用で白光系冒険者を撃退

《黒炉砦》――金属罠と熱壁で重装隊を蒸し焼き

《霧喰い沼宮》――測量士を三日間同じ橋へ戻し続ける



「……他も随分やられているな」


《はい》


 Bランクが消えている。


 Aランクも消えている。


 Sランクですら一部階層を喪失。


 迷宮が強ければ安全というわけではない。


 むしろ、強い迷宮ほど勇者や上位冒険者を呼ぶ。


 封鎖。


 測量。


 白杭。


 聖具。


 勇者。


 人間側も、迷宮を消すために進化している。


「Aランク《煙哭炉》は、内部誘導して負けたのか」


《炉心破壊とあります》


「外で迷わせ、中で喰うだけでは足りぬということだな」


《はい。核へ至る終端防衛の弱さが原因と推測》


「他山の石だ」


《珍しく謙虚ですね》


「余はいつも謙虚だ」


《初期記録では――》


「黙れ」


 余は紙面をさらに読む。



【ロード論壇】


封鎖網を恐れるな。

恐れるべきは、封鎖網の外にいる記録係である。


封鎖は破れる。

記録は残る。

一度読まれた罠は、二度目には罠ではない。


――寄稿:骨鳴墓窟



「骨鳴墓窟、いいことを言うではないか」


《以前から防衛成功例として名が挙がっています》


「封鎖杭十二本を逆利用か。やはり上位はやることが嫌らしい」


《ロードとして褒め言葉です》


「そうだ」


 記録係。


 まさに、あの若い測量士だ。


 殺すべきか。


 殺せば、記録はそこで止まる。


 だが、殺し損ねると迷宮の殺意が読まれる。


 逆に生かせば、偽情報を持ち帰らせられる。


 ただし、こちらの本物を見られる危険もある。


 危険。


 餌。


 記録。


 どれにする。


「管理音声」


《はい》


「若い測量士を、ただの殺害対象から変更する」


《分類をどうしますか》


「危険観測餌」


《……危険観測餌》


「何だその間は」


《分類名として奇妙です》


「だが正しい。危険だが、餌にもなる」


《登録します》



危険観測餌:若い測量士

役割:戻り水を認識し始めた記録係。殺害・誘導・契約候補の三方向で保留。

注意:本物を見せすぎないこと。



『契約候補、消さないんだ』


 フィルエが言った。


「今は保留だ」


『ロードにしては珍しいね』


「余は合理的なのだ」


『殺すってさっき言ってた』


「合理的に感情的になることもある」


《矛盾しています》


「黙れ」


人間側の野営地では、報告書が広げられていた。


 余には直接見えない。


 だがフィルエの森糸が、遠くの声を拾う。


 焚き火。


 濡れた布。


 封迷箱の蓋を開ける音。


 負傷者の呻き。


 そして、若い測量士の声。


『水が、戻っていました』


 封迷技師が低く答える。


『錯覚だ』


『違います。血の流れが、奥へ行かなかった。土の傾斜とも合わない』


『封迷圧で流れが乱れた可能性がある』


『それなら、白灰の濃度が逆に増えた説明がつきません』


 少しの沈黙。


 聖杭技師の声がした。


『続けろ』


 若い測量士は息を呑んだ。


『迷宮は、水で測量をずらしています。ただの湿地ではありません。流れが戻る。匂いも、血も、灰も、元の場所へ返すように動いている』


『対策は』


『水を信用しないこと。濡れた場所を避けるのではなく、濡れていない場所を疑うこと。あと、次は乾いた白砂を持ち込むべきです。水が戻るなら、砂の流れも乱れるはずです』


「乾いた白砂」


《戻り水検知用の可能性》


「厄介なものを考える」


 聖杭技師が言った。


『採用する』


 若い測量士が少し驚いたように黙る。


『ただし、戻る水に気づいたことは報告書に書くな』


『なぜですか』


『迷宮が記録を読んでいる可能性がある』


 余は、ぞくりとした。


「……何?」


『人間側の報告書を、迷宮が直接読むことはできないはずでは?』


『直接はな。だが迷宮は、生還者の行動を読む。次にこちらが水対策を大きく変えれば、迷宮は“水を読まれた”と知る。だから報告書には曖昧に書け』


『では、どう共有を』


『口で伝える。信頼できる者だけに』


「嫌な奴だな、本当に!」


《敵が情報統制を開始しました》


「やめろ! 人間が賢くなるな!」


 白い部屋で叫びそうになった。


 いや、叫んだ。


 グズが門の向こうでびくっとした。


 マネが楽しそうに真似する。


「にんげんが、かしこくなるな!」


「真似するな!」


「ギィ!」


 だが、笑えない。


 新聞が言っていた通りだ。


 記録が残る。


 それだけではない。


 記録を残さない、という判断もある。


 聖杭技師はそれをやる。


 若い測量士は見る。


 封迷技師は道具を持つ。


 次は、乾いた白砂。


 戻り水を暴く砂。


「なら、砂を逆に使う」


《案はありますか》


「今考えている!」


《了解》


 余は監視面を睨む。


 第二層の床。


 戻り水床下流。


 蟲分巣。


 赤錆噛み走路。


 白灰這い仮穴。


 湿骨兵の伏兵穴。


 砂を持ち込む。


 なら、砂は撒かれる。


 水の流れを見るために。


 つまり、人間は自分たちで迷宮内に細かい粒をばら撒く。


 粒。


 足跡。


 滑り。


 目潰し。


 蟲の餌にはならない。


 だが、糸には絡む。


「影縫い大蜘蛛」


 天井の奥で、大蜘蛛が脚を鳴らした。


「次に白砂が撒かれたら、糸で拾え。全部ではない。ところどころ残して、ところどころ消せ」


《砂跡の改竄ですね》


「そうだ。水が戻った跡ではなく、砂が消えた跡を見せる」


《人間は砂を信用できなくなります》


「それでも測るだろう。だから、カゲヌイ」


 影縫い罠師カゲヌイが、白縫い針を持ち上げる。


「砂の線に、影を縫え」


《砂上の影縫い罠ですか》


「足跡を見るために下を向いた奴の影を止める」


《有効です》


「マネ」


「ギ」


「砂の擦れる音を覚えろ。乾いた音だ。戻り水とは違う」


「ギィ」


「あと、余の声で“そこは濡れていない”と言うな。絶対に言うな」


「ギ?」


「言うなよ?」


「ギィ……」


《言う可能性があります》


「見張っておけ」


 第二層の再調整が始まった。


 戻り水は流しすぎない。


 床下分巣には細く、短く。


 毒戻りを避けるため、封迷土を含んだ水は一度、骨粉層を通す。


 湿骨兵の横穴に、吸い取り用の骨砂を敷く。


 灰灯幼蟲には、白灯器片の粉を直接与えず、核餌越しに食わせる。


 焦って育てれば、腹が腐る。


 黒蜜蟲窟の言う通りだ。


 腹立たしいが正しい。


 赤錆噛みは、壁裏から外縁へ戻した。


 損耗した一体の代わりに数を増やしたいが、無理に増やすと灰噛みネズミの群れが痩せる。


 赤錆噛みは進化個体だ。


 別に湧いてくるわけではない。


 灰噛みネズミの群れがあってこそ、金属食に偏った個体が使える。


「灰噛みネズミには通常餌を回せ。全部を赤錆に寄せるな」


《了解》


「金属食に偏りすぎると、今度は灰の処理が遅れる」


《灰処理低下は白灰床の維持に影響します》


「つまり、全部つながっている」


《はい》


「面倒だな、迷宮運営」


《今さらです》


 グズは門の補修。


 マネは音の訓練。


 影縫い大蜘蛛は砂取り糸の準備。


 カゲヌイは砂上影縫いの試し縫い。


 白灰這いは損耗したため、数が減った。


 湿骨兵は横穴で骨砂を踏み固める。


 灰刃追跡者は、奥で静かに刃を研いでいる。


 出番を待っている。


「追跡者は、次だ」


《次回投入ですか》


「相手が第二層に踏み込んだらな」


《了解》


 その時、灰刃追跡者がわずかに顔を上げた。


 落武者のような面。


 割れた兜。


 灰色の刃。


 人間の隊長の剣片を取り込んだ太刀。


 その刃に、かすかな白い線が走った。


《灰刃追跡者に変化反応》


「何だ」


《封迷箱の白い圧を受けた戦場記録に反応しています》


「進化か?」


《進化未満。適応兆候です》


 灰刃追跡者は、刃をゆっくり床へ当てた。


 ぎり、と石を削る。


 その削れ跡が、白く濡れたように光った。


《追跡経路記憶に、封鎖線の歪みを取り込み始めています》


「つまり?」


《封迷箱で道を固定されても、歪んだ線を追跡路として読む可能性》


「よし」


 余は笑った。


「封じた道を、追跡者の道にできるかもしれぬ」


《確定には実戦記録が必要です》


「では、次の実戦で試す」


 灰刃追跡者が、低く刃を鳴らした。


 その音は、笑いに似ていた。


夜の終わり。


 フィルエの契約糸が、静かに震えた。


『ロード』


「何だ」


『次、来るよ』


「早いな」


『うん。たぶん小隊じゃない。調査侵入班。人数は少ない』


「白砂を持ってくるか」


『持ってくる。あと、細い鎖。水を測るための小さな鐘みたいなものもある』


《水流音測定具の可能性》


「音か」


 余はマネを見た。


 マネは、にやりとした。


「ギ」


「出番だな」


「ギィ」


「ただし、余の声で勝手に命令するな」


「ギ……」


「目を逸らすな」


 次の敵は、戻り水を疑って来る。


 乾いた白砂。


 細い鎖。


 水音を測る小さな鐘。


 そして、若い測量士。


 聖杭技師は来るか分からない。


 だが、指示は残しているはずだ。


 人間は水を読む。


 なら、余は音を濁す。


 砂を拾う。


 影を縫う。


 封じた道に、追跡者を走らせる。


「管理音声」


《はい》


「第二層《偽封餌場》、調査侵入班迎撃準備」


《準備を開始します》


「目標は?」


《侵入者の殺害、白砂対策の実験、戻り水秘匿、危険観測餌の誘導》


「違う」


《違いますか》


「殺害は一人以上。可能なら二人。若い測量士は、まだ殺すな」


《了解》


『本当に生かすんだ』


「今はな」


『理由は?』


「戻り水に気づいた奴には、もっと深い嘘を見せる価値がある」


 余は監視面に映る第二層を見た。


 床下で蟲の腹が蠢く。


 壁裏で赤錆噛みが歯を鳴らす。


 天井で影縫い大蜘蛛が糸を広げる。


 カゲヌイが、砂の上に落ちる影を待つ。


 灰刃追跡者が、封鎖線の歪みを刃に覚えさせている。


 戻り水が、ほんの少しだけ逆流した。


「来い、人間」


 余は呟いた。


「水を読め。砂を撒け。音を測れ」


 白い部屋の床に、第二層の迎撃図が浮かび上がる。


 その中心に、新しい罠名が刻まれた。



新規罠案

《砂戻しの影縫い》



「読んだつもりの足元から、縫ってやる」

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