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第9話 賢明なる撤退

最初の一歩からして、前回とは違った。


 ハルドが先頭。


 槍は低く、穂先はぶれない。


 その半歩後ろにレネ。視線が忙しい。床、壁、天井、通路幅、暗がり。全部を見る。さらに後ろにミーシャとフィナ。後衛二人の距離も近すぎず遠すぎず、崩れにくい並びだ。


「入ってすぐは飛び出してくるかも」

 ミーシャが小声で言う。

「来るなら来い」

 ハルドは短く返す。

「前で受ける。レネ、横を見ろ」

「見てる」

「フィナ、印はまだ早いからね」

「は、はい」


 前回のような雑さはない。


 足も、言葉も、息も揃っている。


 余は白い部屋で、低く呟いた。


「……面倒極まりない」


《高脅威編成です》


「分かっておる」


 入口近くに置いたゴブリン二体が、ぎゃっぎゃっと鳴きながら前へ出る。


 見せ駒。


 最初から勝つつもりのない駒だ。


 ハルドは踏み込みすらしなかった。


 ただ槍をすっと出す。


 短い突き。


 一体の喉へ、ほとんど無駄のない直線が吸い込まれる。


「ぎっ……」


 崩れる。


 軽い。


 あっけないほど軽い。


 前へ出ようとしたもう一体へ、レネが横から石を投げた。顔面に当たる。ひるんだ隙に、ハルドの二撃目。胸を貫かれ、倒れる。


 終わり。


 二手で終わった。


「真正面から行くな、か」


 余は細く息を吐く。


 これだ。


 これが槍。


 狭所で、前へ出てきた低級魔物を、順番に処理する武器だ。正面から数を出せば串刺しにされる。井守の言葉が、骨身に染みる。


 レネが床にしゃがみ込む。


「……滑る」

「前回より?」

「一部だけ強い。たぶん意図的」

「ほう」

 ハルドがわずかに眉を上げた。

「湿りを罠にしてるのか」

「低級だけど、考え方はそう」


 余は口元を歪めた。


 見抜くか。


 やはりこやつは嫌だ。


 だが見抜かれたところで終わりではない。滑ると知っても、人は通らねばならぬ。重要なのは、知った上でどう踏ませるかだ。


「鼠、右足を狙え」


 細穴の中を、灰色の影が走る。


 ハルドの横壁、その内側。


 まだ出るな。


 まだ。


 レネが壁の穴へ目を向けた。


「……前にあった?」

「鼠穴っぽいな」

「増えてる」

「なるほど」


 ハルドは頷くだけだった。動揺しない。よい前衛だ。敵としては最悪だが。


「前はこれで仲間が押し込まれた」

 レネが低く言う。

「なら、開けた位置まで出ない」

「うん」

「ミーシャ、火は絞れ」

「分かってる」

「フィナ、視界と呼吸に注意」

「はい……っ」


 聖職者まで冷静か。


 前回より格段に硬い。


「……よし。見せるだけでは足りぬな」

 余は方針を切り替える。

「新小部屋手前で一度、崩しに行く」


 グズへ意識を飛ばす。


「合図まで出るな。先頭が段差に乗った瞬間、右から押せ。正面からは行くな。左右だ」

「ぎっ!」


 果たして、通じるか。


 前回よりは分かる顔をしている。だが相手も前回より強い。訓練はした。だが本番は別だ。


 レネたちはゆっくり進む。


 入口から曲がり角へ。


 曲がる前に、ミーシャが小さな火球を一つだけ飛ばした。通路の先を照らし、暗がりを焼くための、ごく控えめな火。


 前回のような面制圧ではない。


 索敵用。


「嫌らしいな、本当に」


 余は毒づくが、それは半ば感心でもあった。


 曲がり角を越えた。


 絞った通路へ入る。


 滑る床の位置を、レネは見ている。ハルドも警戒している。足は慎重だ。重心も低い。


 だが、慎重に歩くということは、逆に、重心を細かく調整しているということでもある。


 そこをずらせば、崩れる。


「今だ。鼠、一斉に」


 細穴の出口が、左右でわずかに動いた。


 ちゅっ!


 灰色の影が二つ、三つ、四つ。


 ハルドの足首と靴紐、ミーシャのローブの裾、フィナの足元、レネの荷袋へ、鼠が一斉に噛みつく。


「っ、来た!」

 レネが鋭く叫ぶ。

「鼠!」

「散らせ!」

 ハルドの槍が下へ走る。一本の鼠が弾かれ、壁へ叩きつけられる。

「きゃっ」

 フィナが短く悲鳴を上げる。裾に一体しがみついたのだろう。

「火、使う!」

「使うな、足元が見えなくなる!」

 ミーシャを、レネが止める。


 その一瞬。


 槍の穂先が下を向き、後衛の視線が足元へ落ちた。


 ハルドの前進がほんの半歩、鈍る。


「グズ!」


 新小部屋の陰から、グズが飛び出した。


「ぎゃっ!」


 正面ではない。


 右斜めから。


 訓練通り――とまでは言わぬ。だが、前よりずっとましだ。棍棒を振るのではなく、肩からぶつかるように、ハルドの槍腕へ体を押し付ける。


「ちっ!」


 ハルドの体勢が、わずかにぶれた。


 ほんのわずか。


 だが、その“ほんのわずか”のために、段差がある。


 滑る床を警戒していた足が、次の一歩でわずかに深く出る。


 ぐ、と底がずれ、段差に引っかかった。


「っ!?」


 崩れはしない。


 さすがに転ばぬ。


 だが、踏み込みは止まる。槍の直線が死ぬ。


「左右から!」


 新小部屋に伏せていたゴブリン三体が飛び出す。


 雑だ。


 相変わらず雑だ。


 だが今回は、ちゃんと左右からだ。前に出たハルドの脇へまとわりつくように群がる。


「離れろ!」


 槍を横へ払う。


 一体が吹き飛ぶ。


 だが、正面へ最適化された武器を、狭い通路で左右へ使えば、威力も姿勢も少し落ちる。


 そこへ、細穴からさらに鼠二体。


 今度は槍の革帯と足元の巻布へ噛みつく。


「面倒だな!」

 ハルドが吐き捨てた。


 よし。


 面倒と思わせた時点で、こちらの勝ち筋は生きている。


 レネが前へ出ようとした。


「新しい部屋! 左右にいる!」

「分かってる!」

「ハルド、一回引いて!」

「まだ引ける!」


 引かぬか。


 いや、引きづらいのだ。


 狭い通路で前衛が一度止まると、後ろは詰まる。しかも今は鼠が足元にいる。下手に下がれば、ミーシャやフィナとぶつかる。


 その一瞬の“引きたくても引きづらい”を、余は待っていた。


「ポフキノコ、起動」


 新小部屋の奥、壁際に生えていた白い茸の一つへ、意識を向ける。


 グズとゴブリンたちが揉み合うすぐ後ろ、視線の切れた位置。


 ぽふっ、と鈍い音がした。


 白い粉が、狭い通路へふわりと漂う。


「……何」

 ミーシャが目を細める。

「胞子!」

 レネが叫ぶ。

「息止めて!」


 だが遅い。


 狭い。


 湿っている。


 視線が切れている。


 新小部屋の位置が絶妙だった。


 胞子は一気に満ちるほどではない。低級だ。だが、それで十分だ。咳き込み、目が染み、判断がほんの一拍遅れるだけでよい。


「げほっ」

 フィナが先に咳き込んだ。

「……っ、やだ、目が……」

「フィナ、下がって!」

 ミーシャが腕を引く。

 その動きで、後衛二人の並びがわずかに崩れた。


 レネが舌打ちする。


「嫌な組み方してる……!」


 そうだとも。


 嫌でなければ困る。


 余は白い部屋で、自然と口元を吊り上げていた。


「押しきれぬなら、削れ。削れぬなら、乱せ」

《合理的です》

「分かっておる」


 ハルドは前でまだ持ち堪えていた。強い。グズの体当たりを肘で払い、左右から噛みつくゴブリンを穂先と柄でいなし、足元の鼠を蹴り飛ばす。


 だが、やはり槍の“最も強い距離”を取れていない。


 そこへ、余はさらにもう一手を打つ。


「旧小部屋の個体、一歩前へ出せ」


 まだ見せていなかったゴブリン二体が、新小部屋の奥の暗がりへわずかに影を落とす。


 全部は出さぬ。


 ただ、“まだ奥にもいる”と見せるだけ。


 レネの目がそれを捉えた。


「……まだ奥ある!」

「どれくらいだ!」

「分からない、でもいる!」


 ハルドの判断が、そこで初めて鈍った。


 前を抜けても、まだ奥に戦力がある。しかも後衛は胞子で乱れかけている。このまま押し切るのは危険だ。だが、ここで退くにも前が邪魔だ。


 その逡巡。


 余は、待っていた。


「グズ、引け」


「ぎっ!?」


 驚いたような声を上げつつ、グズが一歩退く。周囲のゴブリンも、完全ではないが後ろへ流れる。


 前が空いた。


 ハルドは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、前へ出るか後ろへ引くかで迷った。


 そして選んだのは――


「下がる!」

 だった。


 良い判断だ。


 悔しいが、良い判断だ。


 レネが即座に合わせる。

「ミーシャ、火で通路切って! フィナ、息止めて後ろ!」

「了解!」

 ミーシャの火球が、新小部屋の手前へ弾ける。大きくはないが、進路を一瞬だけ火で塞ぐには十分だ。

「グズ、止まれ! 前へ出るな!」

「ぎぃぃ!」


 危なかった。


 グズは追おうとしていた。訓練したばかりのくせに、勝てそうになるとすぐ前へ出たがる。こやつ、まだまだ馬鹿である。


 火を挟み、四人は整然と後退する。


 レネが最後尾になり、振り返りながら細かく通路を見る。


 胞子の位置。


 鼠穴の出口。


 新小部屋の角度。


 滑る床。


 段差。


 全部、見ようとしている。


「……本当に嫌な女だ」


 余の呟きは、もはや悪口というより感心に近かった。


 だが、今は追わぬ。


 追っても仕留めきれぬ。むしろ深追いすれば火で焼かれる。ここで大事なのは、“二度目は前回のように通らなかった”と教えることだ。


 四人が入口近くまで退き、やがて裂け目の外へ抜ける。


 そこでようやく、フィナが大きく咳き込んだ。


「げほっ、げほっ……なんですかあれ……」

「茸」

 ミーシャが目をこすりながら言う。

「最悪」

「鼠も増えてた」

 レネが短く付け足す。

「部屋も増えてる。床も仕込んでる。前よりちゃんと“組んでる”」

「深追いしなくて正解だな」

 ハルドは槍先についた血と汚れを振り払いながら、洞窟の闇を睨む。

「今ので押しきれないなら、今日はここまでだ」

「……うん」

 レネも異論はなかった。


 四人は裂け目の前でしばらく低く話し合い、それから完全に離れていった。


 余は、その気配が薄れていくのを確認してから、ようやく長く息を吐いた。



「……生きた」


《二度目の侵入を退けました》

「退けた、であって殺してはおらぬ」

《事実です》

「分かっておる」


 悔しい。


 正直、悔しい。


 あそこまで崩したのだ。あと一手、何か決定打があれば、誰か一人くらいは落とせたかもしれぬ。


 だが、仕留めきれなかった。


 相手が正しく退いたからだ。


 それはそれで、価値がある。


「……前回とは違うな」


 初回は、勝った、という感覚が強かった。


 今回は違う。


 勝ち負けというより、“通じた”“変化が機能した”という手応えが大きい。


 細穴。


 鼠。


 新小部屋。


 滑る床と段差。


 ポフキノコ。


 グズの横押し。


 どれも完全ではない。だが、それぞれが確かに盤面に作用していた。


「運だけではない」

《はい》

「構造で止めた」

《はい》

「……悪くない」


 白い部屋で、余は少しだけ胸を張る。


 まだ王ではない。


 だが、最弱のままでもない。


 確かに一歩、進んだ。


 そこで、洞窟の奥から情けない声が聞こえた。


「ぎぃぃ……」


 グズである。


 右腕を押さえ、しょんぼりしている。たぶんハルドに払いのけられた時の打撲だろう。致命傷ではないが、痛そうではある。


「おい、無事か」

「ぎぃ」

「……よくやった」


 その一言に、グズはぽかんとした顔をした。


 やがて、ものすごく分かりやすく胸を張る。


「ぎぃ!」

「調子に乗るな。追いすぎようとしたのは減点だ」

「ぎぃ……」

《統率候補としての成長が確認されます》


 余は少し考え、そして決めた。


「管理音声。グズの進化条件を再確認」

《条件充足。統率経験、複数戦闘生存、ソウル30》

「……やる」


《ゴブリンリーダーへ進化させますか》


 余は新小部屋の惨状を見た。


 倒れたゴブリン。


 潰れた鼠。


 胞子の白い粉。


 まだ浅い迷宮。


 そして、その中で一応、役目を果たしたグズ。


「うむ。やる」

《承認。消費ソウル:30》


 グズの足元に、淡い光の輪が広がった。


「ぎっ!?」


 ゴブリンどもがざわつく。


 グズの体が、小さく震える。筋肉がきしみ、骨が鳴り、背がわずかに伸びる。耳が少し尖り、目の焦点が前よりも強くなった。粗末な体つきも、ほんの少しだけ締まる。


 劇的ではない。


 だが確かに、“ただのゴブリン”ではなくなった。


《進化完了。個体名:グズ

種族:ゴブリンリーダー》


「おお……」


 グズは自分の手を見た。棍棒を握る。周囲を見回す。


 それから、他のゴブリンへ向けて一声吠えた。


「ギィッ!」


 おお、何だか締まった。


 ほかのゴブリンどもが、びくっとして姿勢を正す。今までのような雑な群れ反応ではない。明らかに“上”を認識した反応だった。


「……良いではないか」


《群れ統率性能が上昇しました》

「見れば分かる。素晴らしいな」


 グズ――いや、グズ殿とでも呼ぶべきか。いや、それはまだ早い。


 ともあれ、これで迷宮の中に初めて、余以外の“指揮の核”が生まれた。


 意味は大きい。


 余が全てを逐一怒鳴らずとも、一部は現場で回るようになるかもしれぬ。


「グズ」

「ギィ!」

「今日から貴様は、こやつらのまとめ役だ。勝手に死ぬな。勝手に突っ込むな。止めて、詰まらせて、削れ」

「ギィ、ギィッ!」


 今度の返事は、前よりずっと芯があった。


 余は満足げに頷く。


 その時、白い部屋の端で新聞がぴこんと光った。


《迷宮評価に変動が発生しました》


「何だと」


 新聞を開く。


 速報欄の片隅、小さな更新が載っていた。



【辺境湿臭洞窟・更新】

・連続迎撃記録を確認

・構造変化および配下運用の改善傾向あり

・暫定評価:E上位相当



「E上位」


 余は、その文字をじっと見つめた。


 まだDではない。


 まだ全然足りぬ。


 だが、上がった。


 確かに、少しだけ。


 最弱の底辺ではなくなった。


「……ふふ」


 笑いが漏れた。


 小さな、小さな笑いだった。


 大きな勝利ではない。敵は逃がした。危険はまだ去っていない。むしろ、これからさらに厄介になるだろう。


 それでも。


 余の迷宮は、今日確かに少しだけ上へ行ったのだ。


「よい」


 白い部屋で、余は静かに宣言した。


「次は、Dを目指す」


 それはまだ野心と呼ぶには小さいかもしれぬ。


 だが、たとえ小さくとも、迷宮の王たるもの、目指す先は口に出してよい。


 怖くても。


 未熟でも。


 湿臭くても。


 余は、上へ行く。

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