7月29日 ―20―
俺はアリアちゃんを運んだ部屋の前まで来ていた。手にはグラタンの載ったお盆を持っている。熱いお茶もあるし引っ繰り返したりはしたくない。
どうやってノックしよう……。
しばらく悩んだが、気付いた。一度床に置けばいいんだと。そのためのお盆でもあるだろう。結論が出たところで扉の横にお盆を下ろして立ち上が――ろうとしたら、扉が開いた。眼前に扉の角が迫る。
ゴッ――。
迫り来る扉の角が額に思い切りよくぶつかった。
痛!
思わず、痛む額を両手で押さえて蹲る。
角はやばいって、洒落にならない……。
「ご、ごめんなさい。足音で部屋の前に来ていたのはわかっていたから、どうして入って来ないのかと思ったら。もしかして、扉開けられないんじゃないかって……」
「謝ってるけど、土下座する様にうずくまる兄ちゃんを見降ろしながら言うのはどうかと思うよ、彩ねえ」
わかりやすい現状説明ありがとう、アリアちゃん。知らない方が幸せだったかも。
痛む間はこのままでいたかったが、情けない姿を晒していることを知ってしまったからにはそうもいかない。我慢してヨロヨロと立ちあがる。
「あー、綺麗に痕が付いてる。ごめんね、本当に大丈夫?」
立ち上がる俺に目線を合わせて、額に付いた傷をなぞる。恥ずかしいので止めて欲しい。
彩さんの後ろでニヤニヤしながらこっちを見てるアリアちゃんの視線とか――佐橋さんみたいだな!
「大丈夫、だから。それより、グラタン、持って来たよ」
「え! ほんと? グラタンなの? やったー、兄ちゃん、わかってるなー」
さっきまでと打って変わって、顔を嬉しそうに輝かせる。待たせる理由もないので、お盆を拾い上げ、早く食べたそうにしているアリアちゃんのもとへ運ぶ。
「どこで食べるの?」
机かと思ったがアリアちゃんはベットから身を起こして、そこに腰掛けたまま動かない。
「ここだよ? お盆ちょーだい。兄ちゃんが食べさせてくれてもいいよ? ちなみに、あたしのお勧めは兄ちゃんが食べさせてくれる方」
「あら、じゃあ私はその光景を写真に収めればいいのね?」
「良くないよ! さっきまで、何の話してたか、忘れたの?」
「大丈夫よ。今回のは父さん用だから。太郎さんがアリアにご飯を食べさせている姿を見て悔しがるに違いないわ」
恥ずかしいって言ってたのに、譲司さんが嫌いなのは変わらないんですか……。
「それ、俺が、きっと無事じゃ、済まない」
アリアちゃんが関わると命の心配までしないといけないかも。
「写真はいいじゃん。それより兄ちゃん。お腹空いた。早く食べさせて」
さっき待たせる理由もないと言ったばかりだ。ただ、さっきはあった選択肢が無くなっている気がするんだけど――まあ、いいか。嫌な訳でもないし。彩さんが写真を取らないなら。
だから、俺はアリアちゃんの右横に腰を下ろす。膝の上にお盆を乗せて、持って来たスプーンでグラタンを掬う。冷ましてからアリアちゃんの口元へ。
「口に、合うと、いいけど」
アリアちゃんがグラタンを口にする。もふもふと味わってから答えてくれた。
「これは――麗華のよりおいしいかも?」
「アリア、それ、母さんの前で言わないでね?」
彩さんの言葉に思わず苦笑してしまった。麗華さん、取り扱い注意。
アリアちゃんの食事が終わるまでに、彩さんとアリアちゃんがどんなことを話したのかを教えてもらった。彩さんは俺にしてくれたのと同じ話、それと今日の様子を話したみたいだ。
「太郎さんの言う通りだったわ」
話の中で彩さんが言う。
「何のこと?」
「アリアにどうやって今までのこと、返していこうかって話」
「そうそう。そのことについては兄ちゃんが正しいよ。もう、大丈夫って。それだけでいいんだよ。そもそもが、あたしだって彩ねえに助けられてたんだから。それ以上に重く考えられたら、あたしが困っちゃうよ」
ちゃんと、互いにどうしていくのが良いのかはわかってるみたいだ。何よりだと思う。
「彩ねえには、これからは色んなことを我慢しないでやって欲しい。もし彩ねえがやりたいことが、今まで通りにあたしの傍に居ることだって言うなら、今度は重度のシスコンだと思ってそれ相応の対応をしていくことに決めたからね」
「それ、初耳よ。アリア」
「だって言ってなかったもん。言う程のことじゃないでしょ? 彩ねえはもう大丈夫なんだから」
……心配、いらないよな? 親父に家を出ることを約束したようなものだと思う。
「今までみたいにべったりって訳じゃないけど、時間があれば居るわよ。心配だもの」
「彩ねえ、ジョージみたいだなー。でも彩ねえがまったくかまってくれなくなっちゃうのは嫌だから、それくらいがいーな」
「なら問題ないわね」
話が切れたところで、食事も終わったので緑茶を渡す。少し冷めてしまっていた。持って来た時程の熱さはない。アリアちゃんは受け取ると、渡したお茶を一気に飲み干してしまった。
「彩ねえ――」
「はいはい。おかわりね」
アリアちゃんが何を言いたいのか悟って湯呑を受け取る。
「太郎さん、お盆も」
「あ、うん」
言われて、空になった皿とスプーンの載ったお盆を渡すと、彩さんはすぐにお茶を入れに部屋を出て行った。彩さんを見送ると、アリアちゃんが口を開く。
「そういえば、まだ兄ちゃんから今日のこと聞いてないよ。彩ねえから何があったのかと兄ちゃんが凄かったことは聞いたから、兄ちゃんの感想を聞きたいな」
感想か。自分でも上手くまとまっていないのだけど、喋ればまとまっていくだろうか?
「えと――ありがたいなって」
「ん?」
アリアちゃんがこちらを見て首を傾げる。どういうこと? と問いかけている風だ。
「いや、今日、たぶん、あの時間を俺が一番、楽しんだよ。それを――」
「聞いてくれた人達が楽しんでくれたのがありがたいってことかな、兄ちゃん?」
アリアちゃんが俺の言葉を引き継ぐ。
「そうだね。でも、それだけじゃ、ない。俺をあそこに、立たせてくれた、譲司さん。好きなように、やっていいって、言ってくれた、佐橋さん。頑張ってって、送り出してくれた、麗華さんも。それに、駆けつけて、支えてくれた、彩さん。俺に任せてくれた、手紙で、発破を掛けてくれた、アリアちゃん。みんなが居たから、俺は今日、楽しめたから」
「そっか。でもね、ありがたいのはあたしの方だよ。急に全部任せちゃって、でもちゃんと成功させてくれて。だから――ありがとう、兄ちゃん」
改めてアリアちゃんにお礼を言われる。とても面映ゆい。だから適当に言葉を告げてこの感覚を誤魔化してしまおう。
「いや、彩さんが、来てくれなかったら、アリアちゃんの手紙が、なかったら、平静でいられなかった、から。俺が、お礼を言うべき、かな。ありがとう」
「兄ちゃん、自分でやれたことはちゃんと誇るべきだよ。喜んでもらえたのは、間違いなく兄ちゃんが頑張ったからなんだよ?」
アリアちゃんが俺の言葉に少し機嫌を損ねたように答える。そんなことを言われても、一人ではどうにかなってしまいそうだったのも事実だ。どうして、アリアちゃんに窘められているのだろうと考えて、先程の言葉を反芻してみる。一つ、思い至った。ありがたいって、本心だけど、回りくどいというか、素直な感じがしないかな。
「そうだね。ちょっと、訂正していいかな?」
「ん? いいけど」
何を? と今度は目で問いかけてくる。
「俺は、今日、嬉しかったんだよ。楽しかったし、嬉しかった。子供っぽい、感想だけど、それが一番、簡潔な答え、だと思う。自分が上手く、やれたことも、皆が楽しんで、くれたことも、会って三日しか、経ってない俺に、アリアちゃんが任せる、って言ってくれたことも、彩さんが、駆けつけて、声をかけて、くれたことも。全部が、嬉しかったんだ」
俺が言い切ると、アリアちゃんが笑って答えてくれる。
「兄ちゃんが嬉しいと思ってくれたのならあたしも嬉しい。そうだね。そういう答えをあたしは欲しかったよ。兄ちゃんは子供っぽいって言うけど、それは素直な言葉なんじゃないかな? 一番相手に伝わる言葉じゃないかな? 子供のあたしが言うのもあれだけど、飾らないから子供なんだよ? そういうのは子供っぽくても、大人もできた方がいいよ」
「……難しいね。でも、今度の答えは、満足してもらえたみたいで、良かったよ」
そう返すと、アリアちゃんが何か言うよりも先に彩さんが戻ってきた。