7月29日 ―19―
アリアちゃんだ。こちらを見て言葉を止めている。
どうしたんだろうか?
そう思っていると、彩さんが静かに席を立ってアリアちゃんに近づいて行った。
「あ……、あのね、彩ねえ、その――」
「……ごめんね、アリア」
彩さんが屈んでアリアちゃんを抱きしめる。彩さんの表情はアリアちゃんの横顔に隠れて見えないが、アリアちゃんの表情は窺えた。慈しむように、抱いてくれている彩さんに視線を落としている。こんなに小さな子が、こんな顔、出来るんだ……。
「……ううん。あたしが酷いこと言ったから。彩ねえは、あたしのために居てくれたのに……」
それを聞いた彩さんがアリアちゃんから体を離した。アリアちゃんに目を合わせて言う。
「違うわ。そうじゃないのよ……」
二人の空気に少し声がかけ辛い。
「それよりアリアちゃん。体調は良いのかい?」
あっさりと声をかける人が居た……。佐橋さんの言葉にハッとした様子の彩さんが慌てて確認する。
「アリア、起きて大丈夫なの? 辛くない? まだ顔は少し赤いわね」
「ん。大丈夫。でも、彩ねえが心配なら部屋で寝てるよ。治ってないのも確かだし」
小さく頷き、アリアちゃんが答える。
「そうするといいわー。ごめんねー、うるさくしちゃってー。何か軽いもの作って持ってくから――郎ちゃんが」
え? 俺? 病人食とか、作ったことないんだけど……。
我が家では、俺も親父も母さんもいくら体調を崩そうが飯だけは、普段と同じメニューで普段と同じ分だけ、ガッツリと食べる。
「じゃあ待ってる間に少し話そっか。出かける前は時間がなくてちゃんと話も出来なかったから」
彩さんもスルーだ……。もう俺の味方は居ないんだなー。最初から居なかった気がしないでもないが。
「うん。兄ちゃんのご飯楽しみだなー。待ってるよ。兄ちゃんには今日のことも話して欲しいから、お願いね」
そう言い残し、アリアちゃんは彩さんに連れられて出て行ってしまった。
俺が一言も発することなく、俺がアリアちゃんの食事を作ることが決まっていた……。
「そんな不満そうな顔するなよー、太郎君。アリアちゃんが言ってたじゃないか、太郎君の魂の叫びで起きて来たってー」
誰のせいで叫ばずにいられなかったと思ってる!
だが、まあ――。
「俺が起こしてしまいましたし、アリアちゃんが楽しみって言ってくれたので頑張りますよ」
「太郎、別にやらなくてもいいんだぞ。アリアの食事なら俺が――」
佐橋さんに言葉を返すと、譲司さんが俺にその必要は無いと言う。
「譲司さんは駄目よー。アリアちゃんが関わるとー、大したことじゃないものほど、碌なことにならないんだものー」
麗華さんが、右手を頬に当てながら溜息混じりに言う。
「そんな言い方はないんじゃないか、麗華? 可愛いアリアのためにちょっと気持ちが先走ることはあるが……」
「本当に大丈夫なのー? じゃあ、譲司さんに任せてみようかしらー。 いい? 郎ちゃん」
一応俺に頼んだ手前、麗華さんが俺に確認を取ってくる。お粥は食べてたし、何作ればいいのかわからないから任せてしまおう。
「はい。いいです」
「そうか、すまんな。太郎。――アリア、待ってろよ! 俺がお前のお腹を幸せにしてやるからな!」
テンション高いな!
譲司さんは佐橋さん、俺の後ろを周りカウンターに入って行く。現時点で幸せそうな表情を浮かべているのは、あの人の変態性がなせる業なのだろう。
「それで? どうするのかしらー。アリアちゃんが待ってるからー、なるべく時間がかからないようにお願いねー」
そう言いながら麗華さんがお盆を手に取る。出来たものを乗せてすぐ急行といった感じだろう。でも、いくらアリアちゃんが待ってるとはいえ、お盆を持って待ってる必要はないと思いますよ。
「よし! じゃあ、麗華。冷蔵庫の中のものを全部出し――」
病人に出す料理作る気ないだろ!
思うと同時、麗華さんが表情一つ変えずに譲司さんの頭に持っていたお盆を振り下ろした。譲司さんの声が途切れる。
「これ、いつも彩ちゃんの役目なんだけどー。……癖になりそう♪」
麗華さんが少女のように可憐な笑顔で新しい道に目覚めようとしていた……。
「僕、前から思ってたんだけどさー。譲司さんってそろそろ頭部に障害が生まれても不思議じゃないと思うんだ」
佐橋さんが、白目を剥いてカウンター越しに自身を見降ろす譲司さんに目を向けて言う。
「話が通じてる間は大丈夫よー。今までも問題なかったじゃないのー。今もー、注文通りに手短に済ませてくれたしー。そういう訳で郎ちゃん。無駄な時間は最小限で済んだわー。あとお願いねー」
今のを見て断れる訳がなかった。
「はい」
従順な犬の様に答える。
「それと亮ちゃん――」
「はいはい。そこの置物を片せばいいんだよねー」
佐橋さんは麗華さんに言われるより前に動き出していた。既に譲司さんの横に立って、ベルトごとスラックスを掴んで持ち上げる。
おおぃ、食い込んでる、食い込んでる。
そして、あのお盆はどうして麗華さんが手を離しても落ちないのだろう? 深く刺さっているのか? まあ、それはどうでもいい。それより、公演の帰り時に言ったばかりだ。
佐橋さん、音も無く移動しない欲しい。
「場所も空いたしー。郎ちゃんお願いねー」
「でも、何、作れば、いいんですか?」
「そうねー。冷蔵庫の中のものなら何でも使っていいわよー」
麗華さんが冷蔵庫を開けて覗きこむ。俺を手招きで呼ぶので、一緒に覗いてみた。色々揃っている。冷凍庫も見せてもらう。
なるほど――。
「あの、麗華さん」
「何かしらー?」
「アリアちゃんって、何が好きですか?」
病人に出すべき料理になるかわからないけど、さっき見た時に割と元気そうに見えたから、好きなものを食べさせてあげようと思った。
「そうねー、グラタンとか好物よー。でも、ちょっと時間かからないかしらー?」
「少しかかるかも、ですね。でも、彩さんも、少し時間、欲しいでしょうし。いいと、思いますよ」
そう答えると、何か思い出すように難しい顔をしてから麗華さんが言う。
「そういえばー、さっきの彩ちゃんとアリアちゃんのやり取りってー、どういう経緯でああなったのかしらー?」
どうやら先程の二人の様子を思い出していたようだ。
「彩さんが、後で説明、してくれますよ」
答えながら、冷蔵庫から必要な材料を取りだす。
「その言い方、太郎君は知っているっということでいいのかなー?」
譲司さんを客引き人形のように店の入り口付近に立たせた佐橋さんが戻ってきた。あんなのが入口に立ってたら、店に入り辛い。白目剥いた置物とか、しかも人型……。
「知ってますけど。彩さんから言うべきことなので俺が言えることは特にないです」
麗華さんに必要な道具の場所など色々と確認を取りながら、佐橋さんに返す。
「そっかー。じゃあ、本人が話してくれるのを待つ他ないねー」
言って、俺の目の前のカウンター席に腰を下ろす。麗華さんもカウンター内の料理スペースの説明を終えて佐橋さんの横に腰を下ろした。
「ところで太郎君。実は僕もグラタンが好物なんだー」
「ヘー、ソウナンデスカー」
俺は戯言を適当に流して、料理を進めた。




