7月29日 ―18―
「あらー、おかえりー」
車を置いて喫茶店、もとい橋本さん宅に入ると麗華さんに出迎えられた。お客さんは、今は居ないようだ。
「皆、カウンターでお願いねー。今はお客さん居ないけどー、テーブルは空けておきたいからー」
「わかった。アリアはどうしてる?」
譲司さんがカウンターに着きながら尋ねる。それに倣って、佐橋さん、俺と座る。彩さんは、麗華さんを手伝うためだろう、カウンターに入って行った。
「あらあら、心配しなくても大丈夫よー。彩ちゃんを見送ってからはずっと寝てるわー。まだ寝てから三時間くらいだからー、起きるまではもう少しかかるかしらねー」
「そうなの? じゃあ、アリアが起きるまで待った方がいいわね」
彩さんが呟く。アリアちゃんとの話は、時間が無くて中途半端なままだから、帰ってからすると言っていたな。でも寝てるのなら、そのまま寝させてあげた方がいい。
「そうだねー。寝てるのなら、アリアちゃんへの報告は起きてからにしようか」
彩さんの呟きを拾った佐橋さんが言う。そうか、今日の報告もしてあげるべきだった。でも彩さんが呟いたのは、やっぱり彩さん個人の話があるからだと思う。
「じゃあ、アリアちゃんが起きるまではー。今日の出来を私に報告してもらおうかしらー。彩ちゃんから、郎ちゃんがかっ――」
「母さん!」
彩さんが麗華さんに被せて怒鳴った。
何だ? かっかあさん? 俺がかっかあさん……?
「あら、そう言えば、約束だったわねー」
「もう、頼むわよ……」
「わかってるわよー」
わかってもなさそうな返事をしながら麗華さんが譲司さんと佐橋さんにコーヒーを、彩さんが俺に紅茶を出してくれる。
一昨日の紅茶とはまた違うものなのだろう、たぶん。見た目じゃわからないが。譲司さん達に説明を任せて、俺は出された紅茶を一口飲む。
……やはり、一昨日のものとは違う。味の違いなんてわかるのかと思われるかもしれないが、わかるのだから不思議だ。
麗華さんはカウンターに入ったままだが、彩さんは自分の分の紅茶を持って俺の隣に座る。今日のことを話す譲司さんの邪魔にならないようするためか、小声で彩さんが話しかけてきた。
「太郎さん、それで母さんに提示する最低ラインは考えたの?」
「最低ライン? えっと、何だっけ?」
俺も小声で返す。聞き返したら彩さんが少し眉根を寄せた。
「私が悪いから、出来るだけ頑張ろうと思っていたのに……。写真、消させるんでしょ?」
ああ! そう言えば。思い出したくもないことだったから忘れていた。当然、最低ラインって奴も考えてない。
「ごめん、考えてない。すぐ、考えるから、待って。見捨てないで」
「見捨てはしないけど。ねえ、太郎さんって、スーパーでのバイトってどんなことしてたの?」
「え? えっと、品出し、とか、掃除、とか。レジもたまに」
「湊さんみたいに売り子さんとかやらなかったの?」
「出来る訳、ないよ。それに、あれ、女性がやってるのしか、見たことないんだけど……」
何となく、彩さんが何を言おうとしているのかわかってきたけど、それは無理だと思う。
「やったことないのに出来るかどうかを先に決め付けるのはおかしいわ。と言う訳で、条件はウチで働くということでどうかしら? さて、湊さんなら何て言うかしら?」
母さん自身なら、絶対やるって言うだろうな。喫茶店とか、面白そうだって目をキラキラさせて言うに決まってる。でも、俺にだったら、たぶん――。
「やれ。向いてないと思うなら、尚の事。意外に、そういうことの方が、やっていると楽しくなってくるもんだ。私にとっての、家事や庭弄りがそうだったようにな。って言うと、思う。ちなみに、この時の答えで、ノーと言うと、片手で頭を、掴まれる。あれは、本当に、痛い」
母さんの言いそうなことは何気にスラスラ出てきた。しかし、正直に母さんなら何て言うか考えて口にしたから、その内容的に断りにくくなってしまった。
「なら、湊さんが目標のあなたがどうするのかは、決まってるわね」
「その言い方は、ずるいよ、彩さん」
「でも一番簡単かなって思うのだけど。じゃあ、他の案を下さいな。今、亮さんと母さんが写真の話をしてるから時間が無いわよ?」
え?
「いやー。麗華さん。お願いだから消してくれないかなー?」
「嫌よー。だって郎ちゃんもそうだけど、亮ちゃんのこういう写真は持ってないものー。それに、彩ちゃんの報告の中にあった通り、恥ずかしそうにしてる郎ちゃんは可愛いしー」
「母さん!」
「あら?」
彩さんの声に麗華さんが首を傾げた。
佐橋さん達の話に耳を傾けると、確かに彩さんの言う通りだった。全然気付かなかった。すぐに視野狭窄になるのも何とかしないといけないな。それより彩さん、可愛いは彩さんが報告したと思っていたけど、じゃあさっきの“かっ”は……。
「べ、別に。それだけ。それだけよ、報告したことなんて……」
麗華さんの言葉に反応して彩さんが、他にも色々報告したことを教えてくれる。結局、具体的な内容はわからなかったが。
だが、今はそれどころじゃない。もう佐橋さんが写真の話をしているということは、本当に時間が無いということだ。
「じゃあ、取引をしよう。写真を消してくれたら、女装してお店に出てあげるよ――太郎君が」
最後にボソッと付けたしたのが聞き捨てならないよ、佐橋さん! なぜ自分でやらないか!
彩さんが、全く同じことを言っていた。しかも、後は任せたみたいな感じでこっちを見てくる。
任せるなよ! そっちで何とかしろよ! というか、このタイミングは絶対、こっちの話聞いてましたよね?
佐橋さんが粘ればいくらでも時間は捻出できただろうに……。
「あらー、それは中々面白そうねー。それなら消してあげてもいいかしらー」
交渉が成立しようとしている。このままじゃ不味い。
「待って、母さん。亮さんならまだしも、太郎さんの女装なんて気持ち悪くてお客さんが寄り付かなくなっちゃうから駄目よ」
ナイスフォローです、彩さん。心が痛い。
「いいんじゃないか? 気持ち悪いから、毎日居たら客も離れちまうだろうが、たまになら話題にはなるだろ? 常連の客には冗談とかで通じると思うし、新規の客なら面白がって大学生とかが来るんじゃないか?」
彩さんの意見に返す形で譲司さんが言う。
佐橋さんの提案のフォローなんていらないんですよ、譲司さん。しかも、俺の心はフォローされてない上に、たまにって一回ですらないのかよ!
「確かに。集客率上がったりしないかしら?」
彩さん、何をあっさり揺らいでるの! 俺の力になってくれるって話はどこに?
「いいじゃない、気持ち悪くても。きっと楽しいわよー。ねー、郎ちゃん」
そう言って、麗華さんが俺に笑みを向ける。
「俺が同意すると、思ってるん、ですか?」
「えー、やってくれないのかしらー?」
「いや、太郎君はやってくれるよー。彼は焦らすのが趣味なんだよー」
佐橋さんが無責任なことを言う。
しかも、ねちっこい趣味を持ってることにされた!
「駄目よ、亮さん。太郎さん、嫌がってるじゃない。やってくれないと、太郎さんが本当は気持ち悪くないことが証明出来ないのだけど、気持ち悪くていいって言っているんだから」
「言ってないよ! その言い方じゃ、俺は普段から気持ち悪くて、しかもそれを受け入れちゃってるでしょ!」
「確かに太郎君が女装してくれないと、太郎君が気持ち悪くないことは証明出来ないよねー」
「そうだな。残念だが、俺も今のままでは太郎が気持ち悪くないことを証明してやることが出来ない」
「そうねー。でも私ー、郎ちゃんは女装すればそこまで気持ち悪くないと思うのー」
「あー、もう! 泣くぞ、ちくしょう! やればいいんでしょ! やれば! 絶対、後悔させてやる!」
叫んで、荒い呼吸を繰り返す。彩さんはああ言うことを普通に言う人だから、仕方ないかもしれない。会った時からそうだったし。でも、後続は絶対にわざとだ。
止めて! もう、俺のライフは……。
「うわー、太郎君がキレた……」
「みんな酷いわよ。寄って集って、太郎さんのこと気持ち悪いって。今日の功労者なのに……」
「彩、何言ってるんだ? 最初に言い出したのも、最後の流れを作ったのもお前だろう?」
「え? そうだった、かしら……?」
「何でもいいわよー。やるって言ってくれたのは確かに聞いたからー。じゃあ、写真は消すから、郎ちゃんお願いねー」
麗華さんが満足気に笑う。そんな笑顔見せられても少しも嬉しくない。
「ごめんなさい、太郎さん。私、力になれなくて。また、何も出来なかったわ……」
その言葉は重いので止めて欲しい……。
「いや、頑張ってくれた、から――たぶん」
それ以上に何も言えなかった。他に言葉があるかを考えているとカウンター横の扉が開いた。
「麗華、お腹空いたー。あと、さっき兄ちゃんの魂の叫びが聞こえた気がして起きたんだけど――」




