7月27日 ―16―
「もー、何で帰ってきたのに上がってこないのー?」
突然、カウンター脇の扉が開いた。
そこには、彩さんに良く似た美人の女性が、……その、……下着姿で立っていた。えっ、何これ、……何これ。
「今ちょっとお客さんが来て――って、なんて格好してるの! 太郎さん見ちゃダメ! ちょっと、立ってないで戻って! 何してるの、早く!」
「えー、もう、何、彩ちゃん、騒々しいよー」
「ボケてんの? 見せつけてんの? いいから早く、言うこと聞け!」
彩さんが、彩さん似の下着姿の女性を扉の奥に押し込んだ。
「兄ちゃん、彩ねえに見ちゃダメって言われたのに、ガン見だったね……」
「そんな、はずは、……、ごめんなさい」
くそう、テンパってて良く見えなかったのに。謝る羽目になるんなら、もっと頑張っておけよ、俺。
「兄ちゃん、以外とえっちぃんだなー」
しまった、考えがほぼ顔に出ているんだった。ええい、開き直ってしまえ。
「いや、……綺麗、だった、から。逆に、見ない、と、し、失礼、かと……」
「そんな訳ないでしょう! そういう台詞はスラスラ言えないと、変態っぽく聞こえるわよ、太郎さん。スラスラ言えてもドン引きだけど」
いつの間にか戻ってきていた彩さんの手厳しい一言だった。
「ごめん」
「まったく。太郎さんも太郎さんだけど。何で、あんな格好で出てくるのよ!」
さっきの女性もあっという間に、服を来て戻ってきていた。
「えー、だってー、今日、暑いじゃない?」
「暑いと人前に、下着姿で出るのか! 恥女か、あんたは!」
「お客さん、来てるなんて思わなかったんだものー」
「あそこ、外から覗ける位置よ。お客さんが居るかどうかじゃないわ!」
彩さんは大変ご立腹のようで、彩さん似の女性を烈火の如く叱っている。放っておくと口から火でも吐きそうな勢いだった。
まあ、そりゃそうもなるか。身内が人前にあんな格好で出てくるんだものな。
それにしても、彩さんに似ているな。彩さん、お姉さんいたんだな。お姉さんは彩さんより身長が若干低く、彩さんと同じ綺麗な黒髪はショートではなくセミロングになっている。特徴的なのは、左目の下にある泣き黒子だろうか。あと、二人の違いは――プロポーションかな。彩さんは控え目だけど、お姉さんの方は出るとこ出て……。
とにかく、俺は醸し出す雰囲気からお姉さんだと思った訳だが、見る人によっては妹だと思う人もいるかもしれない。というか、言動自体は彩さんの方がお姉さんっぽい。あくまで雰囲気の話だ。
「ほらー、彩ちゃんが怖いから、この子も怯えてるわよー」
「そんな、こと、ないで、す」
余計なことは、言わないで欲しい。彩さんの矛先が帰ってきてしまう。
「そんなことないって言ってるじゃない」
「あらそー。まあ、いいわー。さっきは見苦しいもの見せちゃってごめんなさいねー」
「いえ。えっと、……ごちそう、さま、でした?」
「太郎さん!」
「あらあらー、おそまつさまでしたー。この子面白いわねー。おばさん気に入っちゃったー」
「麗華ー、兄ちゃんは面白いけど。とりあえず、彩ねえが落ち着かないから止めてあげなよ。そして相変わらず、ナイスバデーだなー」
アリアちゃんが、親指を立てて手をグッと突きだした。親父臭い……。誰の影響だ……?
「ありがとー、アリアちゃん。アリアちゃんが言うんだから、まだまだ、おばさんもイケるわねー。さてー、そうね。彩ちゃんがホントに怖い顔してるからこの辺でやめておこーかなー」
「もう。一人で居る時にやってないでしょうね、さっきの」
「やってないわよー。休日は、お店は私の活動エリアじゃないものー」
「家でも何か着ててよ」
「考えておくわー。それより、お客さんに自己紹介しておこうかしら。アリアちゃんのお友達でしょー?」
そこで、彩さんの名前出てこないんですね……。歳は彩さんの方がどう見ても近いのに。
「そうだよ。今日ね、カラオケで知り合ったの」
「あらあら。知り合ったばかりの人、家にあげちゃ危ないわよー」
確かに。俺もそう思う。
「恥女が家の中を徘徊していることがあるからね」
「そうじゃないわよー。ごめんねー、彩ちゃん。もうしないから許してー」
「はぁー、わかったわよ。全然話が進まないわ。したい話があるのに。それと、太郎さんは大丈夫よ。亮さんの紹介みたいなものだし、えと、その、……私の友人でもあるし」
「あら、あらあら、あらあらあら。そうねー、じゃあやっぱり二人のお友達に自己紹介しないといけないわねー」
そこで言葉を切ると、お姉さんは居住まいを正して、こちらを向いて自己紹介を始めた。
「初めましてー。彩ちゃんの母の橋本麗華です。二人と仲良くしてあげてねー。ついでにおばさんとも仲良くしてくれると、うれしいなー。麗華って呼んでねー」
え? お母さん、ですか? 彩さんの? 彩さんって確か二十歳だから、えっと、あれ? いつ彩さんを生んだんだろ?
「どうかしたのかしら? 難しい顔してるわよー?」
「あ、いえ、その、……お姉さんだと、えと、彩さんの……」
「彩ちゃん! やっぱりこの子いい子だわー」
「私は憎い!」
「いいじゃない、お姉さんだったんだからー」
「そうだよ、彩ねえ。この間なんか、初めて来たお客さんが彩ねえに麗華のこと、妹さんですか? って聞いてたじゃん!」
「余計なこと思い出させるな! 別にいいわよ。母さんが化け物じみているの。私は、悪くないもの!」
彩さんが、年齢に敏感になるのもわかる気がした。
「いーじゃん、麗華が若く見られてるんだから喜ぶべきだよ」
「そうよねー」
それにしても、この人が加わって彩さんの心労が二倍になっている気がする。
「太郎さん。私のことはいいから、この人の相手をしてあげて」
「もう、冷たい物言いはお姉さん傷つくわー」
「誰がお姉さんよ!」
「わーたーしー♪」
本当に止め処なく続きそうな予感がしたので、俺は急いで声をあげた。
「あ、あの、こ、こちら、こそ、はじめ、まして。山田、太郎、です。よろしく、お願い、します」
「……あら、どうしましょう、彩ちゃん」
「何が?」
「初対面の挨拶で偽名を使われてしまったわー。しかも、書類の見本で名前欄に書いてありそうなありきたりな奴よー。今までに無い経験でお姉さん困っちゃうわねー。ここはー、なんて切り返したらいいのかしらー?」
「そこは、あれだよ、麗華。現世の名前ではなく、魂の名を教えてって言うんだよ!」
そんなもん、持ってない。そして、さっきから気になっていたのだけれど、一人称がおばさんからお姉さんに変わっている!
「なるほど。ありがとー、アリアちゃん。ではー、私が知りたいのは現世の名前じゃないの、あなたのー、魂の名前は何かしらー?」
本当に聞いてきた! どうしよう。
「太郎さん、普通に答えてあげて」
「えー。それじゃつまんないよ、兄ちゃん」
……普通が一番。
「えっと、山、田太郎、です」
「あら、ヤマ・ダタロウさんが魂の名なのねー。すごいわねー、さっきの偽名と響きがそっくりだわー。それなら、そんなありきたりな名前を現世で使っているのも頷けるわねー」
普通じゃなくなった! もういいです、俺の魂の名は、ヤマ・ダタロウです。
「兄ちゃん、今度からヤマさんって呼ぼうか?」
「もう、馬鹿なことやってないで」
「あら、本当にそうなの? 有りそうで無い、珍しい名前ねー。なんて呼ぼうかしら? タロちゃん? ロウちゃん? どっちがいいかしらー」
どちらもご遠慮させて頂きたいのですが。二文字で取らなきゃいけないんですか? タロとか犬の名前じゃないんだから。
「あの、どち、らも――」
「いいよ。でも、個人的にはロウちゃんの方がいいな!」
「あらー、急にフランクにお返事してもらえて、お姉さんビックリだわー。そう、ロウちゃんがいいのねー。じゃあ、二人をよろしくねー、郎ちゃん」
待って下さい。今のはアリアちゃんです。普通気付くでしょう? どうして、何事も無かった様に呼び方を決めてるんですか?
とはいえ、麗華さんの中で、俺は郎ちゃんで決まってしまったようだ。彼女に呼び方を撤回させるのは、俺には難しい気がする。ここは、泣き寝入りするしかないみたいだ……。
それにしても、さっきもやったよね、アリアちゃん。恨みがましい目で見ると、嬉しそうにニコニコ笑っていた。そんな風に笑われると怒り辛い。ちくしょう、卑怯だ。
「まったく、引っかき回して。お茶、入れ終わってないじゃない」
「じゃあ、私が後はやってあげるわー。彩ちゃん達は、お話してていーわよー」
そう言って、麗華さんはカウンターへ向かった。彩さんがしていた準備を引き継ぐのだろう。
「はいはい、そうさせてもらいます。それじゃ、太郎さん。次の公演のことを話そっか?」
「あら、郎ちゃんは『彩』に関係がある人なのかしらー?」
カウンター越しにいる麗華さんが話に割り込む。
「そうよ。後で話してあげるからちょっと黙ってて」
「はいはーい。じゃあ、お姉さんは黙ってお茶くみしますねー」
彩さんに一蹴されて、作業に戻る麗華さんだった。