第一章4『ヒーローか、それともヴィランか?』
「夕食の時間だ。囚人たちに配れ」
看守たちは正体不明のスープが入った皿を盆に並べ、それを牢へと運んでいった。
巨大な城の廊下を進み、やがて牢へと続く通路へと曲がる。
看守は鍵を回して扉を開け、中に入ると囚人たちへ食事を配り始めた。
「夕食だ、家畜ども。格子の前に来い」
牢にいた囚人たちは従順に鉄格子の前へと歩み寄り、手を差し出して配給を受け取る。
やがて円香の番になった。
彼の牢へ近づいたとき、看守は格子の隙間から差し込む陽の光に気づく。
異変を感じた彼は駆け寄り、そして――円香の消失を目の当たりにした。
看守はその場で固まった。
一瞬、何が起きているのか理解できず、ただ空の牢を見つめる。
「……何だ?」
思ったよりも小さな声が漏れる。
彼は一歩、中へと足を踏み入れた。
――空だ。
開いたままの格子と、壁に残る破壊の痕だけがあった
看守は勢いよく振り返る。
「おい! 逃げたぞ!!」
その叫びは石の壁に反響しながら廊下へと響き渡った。
直後、上階から騒音が広がる。鉄の扉が次々と開かれていく音だった。
「囚人が逃げた!」
「警報を鳴らせ!!」
その頃――
ニヴァは自室で温かい茶を飲んでいた。
扉を叩く音が彼女の静寂を破る。
「トントントン」
不意を突かれ、彼女は茶を吹きかける。
「ごほっ、ごほっ」
口元を布で拭いながら、苛立った声を上げた。
「誰だ!?」
「ニヴァ様、最後の囚人が脱走しました!」
「何だと!? どうやって逃げた!?」
「壁に穴を開けて、そこから脱出したとのことです」
ニヴァは重く息を吐く。
「まったく……あの小僧、問題ばかり起こす」
報告した看守は一瞬言葉に詰まった。
「今後の指示を……」
「そうだな……首都の周囲に結界を張れ。地上は白翼騎士団を動かせ。それと――ペガサス騎兵も投入しろ。あいつは空を飛ぶ。上から追わせろ」
「ペガサス騎兵ですか? ですが、我々だけでも――」
「やれ」
短く、冷たい命令だった。
「は、はい!」
家々が次々と後ろへ流れていく。円香は並行するように飛びながら、周囲を見渡していた。
背後から大きな鐘の音が鳴り響く。
『もう気づいたか……なら、速度を上げるか』
少年はさらに加速し、高い鐘楼や重厚な建物の間を縫うように飛び抜ける。
下ではすでに騒ぎが広がっていた。衛兵たちが街を埋め尽くしている。
『クソ……結界はあそこにあるはずだ……どうやって突破する……? どうする……どうする……どうする……どうする……』
『……そうだ。ぶち破るしかない。だが……あそこに張られていなければいいが……』
その目標地点へと近づいたとき、円香はペガサスの鋭い鳴き声を聞いた。
音のした方へ振り返る。
「またあいつらか……?」
ペガサス騎兵たちが、八人の隊列を組んで展開していた。
「いい? 散開しなさい! 目標は正面! 今度こそ捕らえるわよ! 手柄は全部こっちで持っていく! あの忌々しい衛兵どもに思い知らせてやりなさい!」
「はい、隊長!」
声が空に響き渡る
隊長はブリアンナを呼び止めた。
「ブリアンナ、待ちなさい。あなたをこの任務に連れてくるつもりはなかった。でも、あなたの力が必要なの」
「は、はい……」
「相手の能力は未知数よ。だからこそ、油断は禁物。いいわね?」
「わ、わかりました……」
「それと――無茶はしないこと。今回は衛兵との競争でもあるの。どちらが先にあの少年を捕らえるか、ね」
「……」
隊長は小さく息を吐いた。
「理解してくれて助かるわ」
円香はその場で動きを止め、ペガサス騎兵たちの方へと向き直った。
状況は再び繰り返される。前方にはペガサス騎兵の女たち、下には衛兵と騎士たち。あとは魔法攻撃さえあれば、完全に包囲されている形だった。
円香は危険から目を逸らさないまま後方へと下がり、やがて見えない壁にぶつかった。
『また……追い詰められたのか……俺はそんなに愚かなのか? 弱い?……弱いのか……?』
そのとき、下から爆発音が響いた。
魔法攻撃か?
円香の方へ、何か危険なものが高速で迫ってくる。
本能が叫ぶ。
――避けろ!!
その直感に従い、円香は瞬時に横へ飛び退いた。
閃く細身のレイピアが、少年の頭部をかすめる。
「へえ……今のを避けるんだ? 褒めてあげる」
円香はさらに距離を取る。
「ねえ、私ちょっと急いでるの。だから大人しく降参してくれない? 最悪、殺すことになるけど」
体にぴったりと張り付く緑の装束をまとった少女。
円香は本能的に、彼女が危険だと感じていた。
右へ視線を向ける。
ペガサス騎兵たちはすでに目前まで迫っている。
『まずはあの女を……それから騎兵隊だ……』
少女はあくびをしながら、レイピアの先端を軽く拭う。
「で? どうするの、坊や。降参する?」
円香は何も答えなかった。
少女は小さく息を吐く。
「……残念」
緑の髪がわずかに揺れた――その瞬間、彼女はすでに円香の目前にいた。
『速い――!』
レイピアが陽光を反射して閃く。
一撃が胸に叩き込まれた。
「ぐあっ!」
衝撃で円香の体は後方へ吹き飛ばされる。
スーツは無傷だったが、その衝撃は確かに体へと伝わっていた。
「え? まだ生きてるの? さっさと死んでくれない? 言ったでしょ、私急いでるの」
円香は見えない障壁を蹴り、全力でペガサス騎兵の方へと飛び出した。
「来るぞ! 構えろ!」
「隊長、速すぎます! 迎撃が間に合いません!」
指揮官が手を上げる。
「散開しなさい。迎撃はするな」
レイピアの少女――レンナはすぐに追撃へ移る。
「ちっ……逃げる気?」
円香はそのまま一直線にブリアンナのペガサスへと突っ込む。
「ブリアンナ、避けて!!」
一瞬、彼女の動きが止まる。
「え……?」
『……死ぬ?』
その思考が頭をよぎった。
だが次の瞬間、円香は彼女をかすめるように回避した。
その影響で速度がわずかに落ちる。
続けて他の騎兵たちもすれ違うように避けていく。
その際に発生した衝撃波が彼女たちを弾き飛ばした。
「ああっ!」
「隊長、今の見ました!? 全部避けました! 殺す気がありません!!」
指揮官――レンマは即座に命令を下す。
「減速している! 追撃!」
「ですが、隊長――」
「ブリアンナ、下がりなさい。高度を落とす許可を出す」
「……はい」
ペガサス騎兵たちは再び円香の後を追う。
レンナも遅れずに追撃を続けた。
彼女はレンマの横へと並ぶ。
「無事ですか、レンマ?」
「問題ない。そっちは?」
「ええ。大した相手じゃなさそうね。先に行って押さえるわ」
「任せる」
レンナはさらに速度を上げた。
だが思うように加速できない。
胸の奥にざわつく感覚――焦りが動きを鈍らせていた。
「捕まえた!」
背後から迫ったレンナが突きを放つ。
レイピアが円香の体を貫くように突き出される。
その一撃でバランスを崩し、円香の体は地面へと弾き飛ばされた。
「止まれ!!」
「あああああっ!!」
円香の叫びが空に響く。
レンナはとっさに手を伸ばした。
だが――間に合わない。
円香はそのまま、地上にいた人々の集団へと落下した。
激突の衝撃は凄まじかった。
体は何度も地面を跳ねる。
やがて馬車道のような場所に転がった。
意識が揺れる中、ゆっくりと目を開ける。
耳に届くのは、水滴のような音。
周囲の悲鳴が、無理やり体を動かさせる。
視界はぼやけていた。
やがて焦点が合う。
――そこにあったのは。
持ち主を失った人の腕だった。
「ああああああああ!!」
後ずさる。
そして、ようやく全体が見えた。
地面には血の海が広がっている。
円香はそこへ落ちたのだ。
その衝突こそが――彼らにとって最後の瞬間だった。
耳鳴りが止まらない。
周囲の悲鳴は一つの雑音となって混ざり合っていた。
円香は地面を見つめたまま、動けずにいた。
『……なんだ、これ……?』
手が震える。
一歩後ずさる――そのとき、足元で何か温かいものを踏みつけた感触があった。
「あ……」
息が詰まる。
『これ……俺が……やったのか……?』
そのとき、上空から怒号が響く。
「クソガキィィィ!! 殺してやるうううう!!!」
レンナはその光景を見て、怒りを抑えきれなかった。
「ま、待て……! お、俺は……わざとじゃ……!」
彼女は視線を落とし――そして見た。
地面に転がる、小さな少年の身体の一部を。
「アアアアアアアアアアアッ!!」
レンナの絶叫が、円香の鼓膜を打ち抜く。
円香は涙をこらえきれず、その場から逃げ出した。
ヒーロースーツは血に染まり、髪も赤く染まっていた。
「待てえええええええ!! ああああああ!!」
レンナはすぐさま追撃に移る。
振り返った瞬間――
円香は石造りの建物に激突した。
衝撃に耐えきれず、建物の上部――鐘楼が崩れ始める。
巨大な影が、下の群衆へと落ちていく。
円香は即座に体勢を立て直し、落下する鐘楼へと飛び込んだ。
そして――それを受け止める。
落下を止めた。
人々を守るために。
周囲の人間たちは思わず足を止め、その光景を見上げる。
中には、彼を見て息を呑む者もいた。
「止まるな! 逃げろ!!」
円香の叫びが響く。
だが――
次の瞬間。
レンナが追いつく。
「どけぇぇぇ!!」
放たれた一撃が円香を弾き飛ばした。
「がはっ!」
バランスを崩し、支えを失った鐘楼は再び落下を始める。
「レンナ様だ!」
「助かった!!」
誰かがそう叫んだ。
だが、レンナの視線はすでに円香へ向いていた。
彼女は止まらない。
そのまま追撃へと移る。
そして――
逃げ遅れた者たちは、落下する鐘楼の下敷きとなった。
円香は隣の建物へと叩きつけられる。
口の中に広がる鉄の味。
次の瞬間、口から血が溢れ出した。




