第一章2 『とても奇妙な出来事』
円香はその存在のほぼ半分ほどの身長しかなかった。何しろ、まだ中学生なのだから。
「グルルル……」
「てめぇを粉々にしてやる……壊す……蹴る……ハハ……殺す……」
『どうする……? 追ってくる……!』
怪物の連れの女は、時折そいつに同調しながら、円香の身長をからかうように嘲笑を投げていた。
円香はすぐに、彼女が酔っていることに気づいた。無視することに決め、目の前で重々しく呼吸する巨大な存在に意識を集中させる。
その怪物からは、酒と、嗅いだことのない不快な悪臭が漂っていた。
二人はいつの間にか人混みから離れていた。
『終わりだ……終わりだ……終わりだ……俺じゃ……殴ることすら……できないのか?』
『……いや、待て』
『ここは異世界だ』
『ルールなんてない』
『……氷莉先生もいない』
円香の口元が、自然と歪んだ。
「なんだその顔は……ふざけやがって!!」
「グルル……グルァ……!」
円香が動かないのを見て、怪物は豚のような咆哮を上げた。
「てめぇは……死ねぇぇぇ!!!」
肥えた腕が背中へと伸び、棘のついた巨大な棍棒を引き抜く。
「やっちゃって、あなた!」
「ああ、すぐ終わる!」
振り下ろされた棍棒が、円香へと迫る。
『――今だ!』
次の瞬間、怪物の胴体に大きな風穴が開いた。
円香はそのまま、怪物の体を貫いていた。
巨体がぐらりと揺れ、やがて地面へと崩れ落ちる。
「いやあああああああああ!! 助けて!! 嫌ぁ!! ブラン!! 目を覚ましてよ!!」
女は倒れた体に駆け寄り、必死に揺さぶる。
円香は振り返り、胸に穴の空いた怪物を見つめた。
「……え……? なんで……死んで……」
「ねえ……ブラン……ブラン……」
『俺が……殺した……』
『俺が……殺した……』
『俺が……殺した!!!』
なぜ自分がそんなことをしたのか、円香には理解できなかった。
体が勝手に動き、すべては一瞬で終わっていた。
ふと視線を落とす。
手に、何かがある。
血に濡れた手が震えていた。
右手に握られていたのは、赤黒い肉の塊。
「……こ、これ……心臓……?」
「うわああああああああ!!」
足から力が抜けた。
それを反射的に放り投げる。
数歩後ずさり、壁に背中を打ちつけた。
『なんで……こうなった……? ルールがないってだけで……俺は……』
思考は、すぐに現実へと引き戻される。
周囲には人が集まり始めていた。
『やばい……逃げないと!』
最後に、泣き崩れる女へと視線を向ける。
『……ごめん』
次の瞬間、円香は空へと飛び上がった。
地面には、小さなクレーターが残る。
上空へ出た円香は、街を見下ろした。
「おぇ……」
「ゲホッ……ゲホッ……」
吐き気が込み上げる。
そのまま空中で嘔吐した。
口元を袖で拭い、下を見る。
すでに人だかりができていた。
人々は、先ほどの惨劇の現場を見つめている。
『俺は……何をやってしまったんだ……』
路地裏に降り立ち、力なくその場に座り込む。
全身が血にまみれていた。
このままでは人前に出られない。
「異世界だ……異世界だ……異世界だ……」
「俺は悪くない……あいつが悪い……止めようとしただけだ……」
歯を食いしばる。
「落ち着け……落ち着け……」
自分の頬を叩き、無理やり思考を整理する。
「そもそも……なんで俺はここにいる……? 異世界転移って、普通は能力とかもらえるんじゃ……」
言葉が止まる。
「……いや、違う。俺は漫画の中じゃない」
「それに……力なら、もうある」
拳を握る。
「あれだけの相手を貫けたんだ……なんとかなるはずだ……」
円香はその場で固まった。
「……くそ、ここは漫画の中じゃないんだ」
「……でも、力はある」
拳を強く握りしめる。
「あれだけの奴を貫けたんだ……問題ないはずだ……」
自分の手を見下ろす。
「……この血も、もう乾き始めてる……どこかで洗わないと……」
その時――
路地の奥から鋭い風切り音が響いた。
紫色の小さな球体が、一直線に円香へ飛んでくる。
『速い――!』
とっさに体を起こし、バランスを崩しながらも地面に倒れ込む。
かろうじて直撃を避けた。
「動くな。動けば殺す」
闇の中から、威圧的な女の声が響く。
「誰だお前!? ほっとけよ!!」
再び風を裂く音。
だが、今度は何も来ない。
――次の瞬間。
地面から無数の手が突き出し、円香の足を掴んだ。
「なっ……!?」
一気に引きずり込まれる。
気づけば、肩まで地面に埋められていた。
外に出ているのは、頭と肩の一部だけ。
「ぐっ……!」
必死に抜け出そうとするが、びくともしない。
暗闇の奥から足音が近づいてくる。
やがて現れたのは、黄金の装飾が施された鎧を身にまとった女だった。
長い金髪が、膝のあたりまで流れている。
「……お前か」
冷たい視線が突き刺さる。
「白昼堂々、人の命を奪うとは――恥を知らないのか」
彼女は剣を抜き、円香の顔へと突きつけた。
その背後には、全身を鎧で覆った兵士たち。
抜き身の剣が、一斉に円香へ向けられている。
『くそ……なんでこうなるんだよ……!』
円香はなおも抵抗するが、無駄だった。
「こんなことしてただで済むと思ってるのか!?」
怒りに歪んだ声が漏れる。
「俺はヒーローだぞ! 本気で俺を止められると思ってんのか!?」
「何を戯言を……下民が」
次の瞬間。
剣の平で顔を打たれた。
頭が横へ弾かれる。
ゆっくりと顔を戻し、女を睨み返す。
鼓動が耳の奥で鳴り響く。
「もうお前は終わりだ」
冷酷な声だった。
「抵抗は無意味だ。大人しく運命を受け入れろ」
――円香は、完全に追い詰められていた。




