第一章1 『 焦るな』
佐野円香――スーパーヒーローである彼は、相棒の松本美緒とともに放課後、任務のため本部へと向かっていた。
だが、その道中で起きた不可解な出来事が、円香の運命を大きく変えることになる。
東京には、近頃になってスーパーヒーローたちの本部がそびえ立っていた。
彼らは必要な時、その能力を用いて市民たちが直面する問題を解決している。
その一人が、佐野円香――中学生の少年だった。
スーパーヒーローにも教育を受ける権利はあり、普通の学生と同じように学校へ通っている。
「……疲れた」
放課後、円香は重たい足取りで本部への帰路についていた。
一瞬で空へ飛び上がり、そのまま目的地までひとっ飛びしたい。
そんな欲求に駆られていたが、日常生活で能力を使うことを禁じる規則が、今日に限ってひどく恨めしかった。
「まどかぁぁぁーっ!」
背後から少女の叫び声が響く。
次の瞬間、ヒュッ、と風を切る音がしたかと思えば――
「うわっ!?」
同級生の少女が円香へ勢いよく突っ込み、その衝撃で彼は吹き飛ばされた。
疲労で踏ん張ることもできず、地面を何度か跳ねながら、彼女から十六メートル先まで転がっていく。
気づけば、目の前には民家の塀。
しかもそこには、見事なひびが走っていた。
「くそっ、松本! お前のせいで、どこかの家の塀に突っ込んだじゃないか!」
『頼む……家主、いませんように……』
「別にいいでしょ、それくらい。塀なんてどうでもいいの。問題なのは、あたしを置いて先に帰ったこと!」
びしっ、と彼女の人差し指が円香へ向けられる。
その“照準”の先に立つのは、なかなか危険だった。
「それと、何度も名前で呼んでって言ってるでしょ!!」
少女――松本美緒は、子供のように頬を膨らませた。
円香はひび割れた塀を見ながら、大きくため息をつく。
「わかったよ、美緒。でも、このひびの件で僕ら二人とも氷莉先生に怒られるぞ。能力を使うなって言われてたし」
美緒の桃色の髪が肩にかかり、風に揺れてさらりと流れる。
「心配しすぎよ」
青い瞳がきらりと光った。
「あたしたちは世界最強なんだから。なんで普通の人間の言うことなんて聞かなきゃいけないの?」
「美緒、またそれか……」
円香は塀に手を置き、すぐに離した。
「だって本当でしょ? あたしたち、まるで奴隷みたい。
「美緒、出動しろ」
「美緒、あれをやれ、これをやれ……もううんざり」
ぴくり、と彼女の眉が動く。
疲れていたはずの円香だったが、美緒と顔を合わせた途端、妙に目が冴えてしまっていた。
「……まあいいや。行こう、本部へ。お腹すいたし」
「え?」
「早く」
円香は再び深いため息をつき、変わり者の友人の後を追う。
その前に、壊れた塀へちらりと視線を投げた。
二人は道路沿いの歩道を並んで歩いていた。
すると、不意に美緒が足を止める。
少し遅れて気づいた円香も立ち止まり、肩越しに彼女を振り返った。
「ねえ、円香……」
その声音は、妙に甘い。
「どうしたんだ、美緒?」
「……と、飛んで帰ろ?」
「駄目に決まってるだろ。氷莉先生に見つかったら――」
美緒は指に髪をくるくる巻きつけながら、ほんのり頬を赤く染めた。
「たしか今日は、政府との会議で出かけてるはずだけど?」
そう言うなり、彼女は一歩で距離を詰め、円香の耳元へ顔を寄せる。
『ち、近い――!』
耳にかかる温かな吐息。
円香の顔は一瞬で真っ赤になり、慌てて飛び退いた。
「な、なにしてるんだよ!?」
押さえた耳が、ぴくりと震える。
「おーっほっほっほっほ!」
美緒は高飛車に笑い声を上げた。
「今の顔、最高だったわよ」
円香は何も言い返さず、そのまま歩き出す。
「ちょっと、待って! あたしを待ってよーっ!!」
頼みは無視されたままだった。
「――円香、待って、俺はまだ……」
「ぐっ――」
突如として激しい地震が彼女の言葉を遮った。
道路には巨大な亀裂が走り、人ひとりが入り込めるほどの大きさだった。
足が震える。通行人たちは激しい揺れに耐えきれず、次々と倒れていく。
犬が吠え、街灯が大きく傾き始めた。
「何だこれは?!」
美緒は反射的に円香の手を掴み、二人は路地裏へと身を隠した。
円香は角から顔を出し、周囲の様子を探る。
「美緒、“九番”に連絡しろ」
「了解!」
円香は再び角から外を覗き、横断歩道の上で倒れている老女の姿に気づいた――彼女は起き上がれずにいる。
そのとき、角の向こうから一台の車が飛び出してきた。減速する様子はまるでない。地面は揺れ続け、運転手はいつ制御を失ってもおかしくない状況だった。
車は一直線に老女へ向かっている。
「九番はもうすぐ来る。どうする?」
相棒の返事を待たず、円香は駆け出した。
老女は必死に立ち上がろうとするが、そのたびに揺れで地面へ叩きつけられる。
車が目前に迫った瞬間――彼女の体は横へと弾き飛ばされた。
『間に合え。間に合え。間に合え――』
円香は運転席へ視線を向けた。
――だが、そこには誰もいなかった。
車は無人で動いていたのだ。
円香はそのまま車体の側面へ体当たりし、進路を逸らす。
「よし、間に合っ――」
「円香!!」
「なっ――」
振り向いた瞬間、視界が暗転した。
パチン、と――指を鳴らしたような音が響く。
やけに大きく、不自然なその音が、一瞬彼の意識を奪った。
やがて視界が戻る。
そこにはもう、美緒も、老女も、東京も、日本もなかった。
円香はゆっくりと周囲を見渡す。
目の前に広がっていたのは、石と木で造られた中世風の家々だった。
「……何だ?」
「……何だ?」
『何だここは……どこなんだ……?』
心臓が早鐘のように打ち始める。無意識に胸を掴む手に力が入った。
土と木の匂いが鼻をつく。
改めて見渡すと、人間だけでなく、獣の特徴を持つ者たちの姿もある。
『信じられない……』
『どうして……?』
ふと、視界の端に看板のようなものが映る。だが、そこに書かれている文字は、円香には理解できない言語だった。
見たこともない巨大な生き物に引かれた荷車が通り過ぎていく。
「どうやら俺は、異世界転移に巻き込まれたらしい。」
そうとしか説明のしようがなかった。
鋭い衝撃が、彼の思考を遮る。
「気をつけろよ、クソが!」
横から荒い声が飛んできた。
円香はほとんど動じなかった。その態度に、相手の男はかえって戸惑ったようだった。
円香はゆっくりとそちらへ顔を向ける。
そこにいたのは、二足歩行の巨大な豚のような獣人だった。肥えた体には所々金属を取り付けた鎧を身につけている。その隣には、明らかにもっと良い扱いを受けるべき少女が立っていた。
「てめぇ、場所がねぇのかよ、ガキ!」
円香は一歩下がる。
「ぶつかってきたのはそっちだ」
「……俺に口答えする気か、このクズが?」
その豚の腕に抱かれるようにしていた少女が、横から同意するように口を開いた。
「その子、嘘ついてるわ。私、ちゃんと見てたもの。わざと押したわよ」
無駄だと悟り、円香は抵抗をやめた。
「……すみませんでした」
「謝れば済むと思ってんのか、このクズが?」
円香は拳を握る。
『ここで手を出せば面倒になる。そもそも、この世界の法律も分からない』
周囲の空気が重くのしかかる。
中世風の建物、獣人たち、見慣れない生物たち――すべてが異質で、彼の神経を圧迫していた。




