十話(2)
夜、もう少しでレニーだが登りなのもあり、馬の体力を考慮して一泊することになった。だが現在、とても困っている。
というのも泉から戻ってきてから、ノア様の様子がおかしい。戻った直後は声もなく涙をながしていて、今はもう泣き止んでいるが座り込んで一言も喋らない。しかしこちらの袖を掴んで離さないのだ。ルイスさんに尋ねても『本人から聞いて下さい』の一点張りで、昼にこうなってから一向に進まない。
(ルイスさんが一枚噛んでいそうだけど‥‥‥どうしたものか)
つい溜め息が出そうになるが、誰も幸せにならないので胸に留めておく。
『そろそろ夜食の時間ですぞ』
重苦しい沈黙を押し出すように、荷車の外からルイスさんの呼び声が聞こえた。
「はい、今行きます」
「ま、待って‥‥‥」
応じて外に出ようと立ち上がると、袖を掴む力が強まり、消え入りそうな声で必死な目をしたノア様に止められた。
「どうかしましたか?」
「あ‥‥‥えっと‥‥‥い、一緒に行きます‥‥‥」
「そうですか」
何か言おうとしていたのは分かるが、心まで読める訳ではない。所作の一つ一つが弱々しく顔色も心配だが、一緒に来ると言っているので先導して連れて行くことにした。
「来ましたな。それでは私は少しここを離れますので、先に食べてくださいませ。リグ殿と、ノア様も」
「?‥‥‥分かりました」
念押しするように名前を並べるルイスさんに違和感を覚えた。危害を加えてくるとは考えられないが、一応気を張りつつ言われた通りにする。
ルイスさんはこちらが二人して丸太に座ったのを確認すると、普段の調子を崩すことなく森の中へ消えていった。
「それじゃあ、食べましょうか」
「‥‥‥はい」
返ってくる声は変わらず弱ったままである。最低限の気遣いとして、作られたスープを彼女の分までよそって渡す。
「あ、ありがとうございます。あと、その‥‥‥ごめんなさい。感じ悪かったですよね、私‥‥‥」
「別に気にしてないですよ。人と話したくない時だってあります」
状況が変わって気が紛れたのか、先程までのことを謝罪された。気持ちは理解できるので咎めたりはせず、逆に緩い肯定の意を見せる。
そもそも、落ち込んでいる人を悪印象だとは思わない。つらいことがあったんだなと同情することはあっても、相手も同じ人間なんだと分かっているから嫌悪感は抱けない。
「私は‥‥‥お荷物、でしょうか?」
「‥‥‥ルイスさんに何か言われましたか?」
突然の質問には、確信が込められていた。お荷物なんて言葉、離れる前のノア様の様子からは考えられず、他者の介入があった可能性が高い。そしてその他者に当たる人はルイスさん以外いない。
問い返しを受けたノア様は顔を隠すように俯き、静かに体を震わせている。答え合わせには十分だった。
「もし良かったら、聞かせてくれませんか?」
「‥‥‥えっと‥‥‥」
「無理に聞くつもりはありませんよ。言いたくなければ、言わなくていいんです」
何か助けになればと尋ねてみるが、ノア様の返答は曖昧で、話すことに躊躇いがあるように見えた。
きっとまだ気持ちの整理がついていないのだろう。ならば続けるのは酷だと判断して、終わらせる方向に誘導する。
「‥‥‥リグ様のお役に立てるのなら、話します」
「そんな些細なことで決めるのは‥‥‥」
「些細なことなんかじゃありません!」
話さない選択も出来たが、ノア様は話すことを受け入れようとする。しかし判断基準がこちらに依存する形で、そこに彼女の自由は無いに等しい。こういった考え方は良い結果を生まないので止めようとしたが、初めて強い感情の籠った言葉で返されて面食らってしまった。
「あ‥‥‥えっと‥‥‥」
すぐに冷静さを取り戻したノア様は弁明しようとするが、何も言えなくてそのまま気まずそうに顔を伏せた。
不安定な情緒から無理しているのが見て取れる。慰めてあげるべきだとも分かっている。だが掛ける言葉が思いつかない。
(‥‥‥せめて、行動だけでも優しくしよう)
気の利いた台詞は出なくても、庇ってあげることくらいは出来る。人によっては嫌がるかもしれないが、ここまでの言動から、ノア様なら拒まないと判断した。火傷しないよう手元のスープカップが空なのを確認してから、やや強引に彼女を懐に引き込む。
「ふぇっ!?んむ‥‥‥」
突然の出来事に困惑するノア様だったが、抵抗する様子はなく、されるがまま顔をこちらの胸に埋めた。
「リ、リグ様‥‥‥?」
「無理する必要はありませんからね」
多くは語れないが一言だけ添え、あとは髪を優しく撫でて慰める。自分に出来ることなんてこれくらいだろう。
「‥‥‥少し、このまま居させて下さい」
「お安い御用です」
許可が下りると、安心したようにその軽い体重を預けてきた。表情は見えないが、多少なりとも慰めになったのなら嬉しい限りだ。
(‥‥‥ずっと、この時間が続けば、何も考えなくて済むのにな)
ノア様のためを思った行動だったが、自分にも影響があった。心苦しい過去のこと、不明瞭な未来のこと、理不尽な世界のこと。向き合わなければいけない問題も、どういう訳か今だけは考えないでいられた。
だが、一生このままなんてのは無理な話で、それはよく分かっている。しばらくしたら、軽くても確かに感じていた重さが離れ、先程より良い顔色のノア様と目が合った。
「‥‥‥私、やっぱりリグ様だけには、話そうと思います」
「本当にそれで良いのですか?」
「はい。リグ様なら、打ち明けてもいいと思えましたから」
ノア様は今の時間で話す決意を固めたらしい。ならばこちらも、真剣に話を聞く責任があるだろう。
「‥‥‥教えて下さい」
「喜んで。でもその前に‥‥‥」
そう呟くとノア様はもう一度身を寄せて、軽く抱き付いてくる。返答として優しく背中をさすると満足したのか、すぐに離れて照れくさそうな笑顔を見せた。
「これでちゃんと話せます。大丈夫でしょうか?」
「ええ、いつでも」
「‥‥‥あの方には、強さを求めなければお荷物だ‥‥‥と、そう言われました。後、私はリグ様の優しさに甘えているだけだとも」
紡がれた内容は攻撃的で、自分と接する時のルイスさんからは想像出来ない厳しさに驚いた。
(生きていくためにも、強くしたいのは分かる。でもそこまで強く当たらなくてもな)
アラクシスまで連れて行ってもらった恩もあって、ルイスさんには敬意を払っている。しかし、親を失って精神的に不安定なノア様に追い打ちをかけるような言葉は、正直ひどいと感じた。
「分かってはいるんです。自分が弱いことも、このままじゃいけないことも。でも‥‥‥その‥‥‥」
嫌がっている理由を話そうとしたのだろうが、言葉は続かない。代わりに彼女は苦々しい表情で俯いて、膝の上に置いた小さな拳を震わせていた。
恐らく、人を攻撃したり傷付けることが怖いのだろう。それは誰もが通る道で、彼女も分かっているからこのままではいけないと理解しているのだろう。
(優しいんだな。それ故に向いていないんだ)
人を傷つけたくないと思う心は素晴らしく、しかしそんな素晴らしい人格であればある程この世界では弱い。その優しさを持っている時点で、彼女が戦う側の人間でないと分かる。
「‥‥‥別に、弱くてもいいですよ。お荷物だなんて思いませんし、そもそもノア様は守られる側ですから」
「で、でも、負担なことには変わりないのでは‥‥‥」
「そんなこと気にせず守られておいてください。ノア様に剣は似合いません」
優しさが弱さでそれがノア様を作っているのなら、弱いままでもいい。むしろそうあるべきだと思って、現状を肯定する。
それに自分が知る限りの世の中では、男性が女性を守るなんてことは当たり前の美学だ。外れ者だからといって例外にはならない。だから彼女にも、本人が嫌なら尚更、守られる側でいてほしい。
「それとも、俺では頼りないですか?」
「いっ、いえ!そんなことありません!リグ様は優しいですし、魔法もお上手でしたし、温かくて頼りになります!」
反応が鈍かったので困ったように尋ねると、ノア様は勘違いされたと思ったのか慌てて否定して、逆に照れくさくなる程に褒めてきた。まあ嬉しくはある。
「ならば守らせてください。大した負担でもありませんから」
「う‥‥‥分かりました」
逃げ道を塞いでの一押しに、ノア様は申し訳なさそうにしながらも頷いた。正しいかどうかは置いといて、これで彼女の気分が少しでも晴れたなら喜ばしい。
「‥‥‥リグ様はやっぱりお優しいですね」
「そんなことないですよ」
「どこまでも慰めてくださるのに?」
「俺も最初は沢山助けてもらっていたので」
謙遜混じりに話していて思い浮かんだのは、両親のことだ。六年前は自分も色々な苦悩や劣等感に苛まれていたが、親の助けがあって乗り越えられた。その経験があるからこそ、今苦しんでいる彼女に優しく出来るのだろう。
「良い人に恵まれたのですね。ちょっと羨ましいです」
そう言うノア様は微笑みの中に、僅かな悲哀の表情を覗かせた。
「嫌なことを思い出させてしまいましたか?」
「いえ、親しかった者のことを思い出しただけですから‥‥‥気にしないで下さい」
あくまで嫌な記憶ではないようだが、やはり懐かしむのとは少し違う、悲しげな雰囲気を醸している。とはいえそれを言及するのは野暮ったく、彼女の意に背くので口を噤む。
「姉のように慕っていたんです。辞める前にもう一度だけ話したかった。彼女はもう忘れてしまっているでしょうね」
自虐的な語りに憎悪の感情は無く、本気で慕って、本気で悲しんでいるのがよく分かる。諦めたような最後の一言には、諦めきれない本音が隠れているように感じた。
「‥‥‥忘れてないですよ。きっと今も、帰りを待っています」
ノア様の予想と反していることは知っていたが、残念ながらそれを証明する方法を持ち合わせていない。それでも彼女の気分を少しでも晴らしてあげたくて、一見すると根拠もない言葉を並べた。
「ふふ、嬉しいです。でももう忘れることにしました。今はリグ様がいますから」
浮かべた笑みは強がりだが、言葉は本音だろう。その表情からは過去の希望に対する別れと、今ある希望へ縋り付く想いを感じた。
「リグ様は‥‥‥居なくならないでくださいね?」
「‥‥‥居なくなりませんよ。ノア様が願うのならいつまでも」
無責任な言葉である。だがそう言わないと何かを失ってしまいそうな程、彼女の想いからは切実なものを感じた。
「嬉しいです。それならいつまでも、リグ様にお供させていただきます」
その発言になんの躊躇いもないノア様を前にして、もう離れられないと悟った。それこそ心変わりでもしないと、彼女の前から居なくなることは出来ない。
(‥‥‥まあこんな関係も、良いのかもしれないな)
離れられないというのは、裏を返せばいつでも手が届くということ。これから先不安定な身分立場と不安定な旅路で、ノア様が唯一の安定した存在となるのなら、それは良いことだ。例え今は危なっかしい依存だと感じていても、いずれ心の鎮静剤になってくれる。
そんなことを考えながら何気なくノア様の頭を撫でていると、突如として魔力が周囲を駆け巡り、消えた。何事かと静かに気を張っていると、一つの足音が近付いてきたので、そっと手を離して適切な距離を取る。
「あっ」
「人前で頭を撫でられたくはないでしょう?」
「え、あ‥‥‥は、はい」
前触れもなく離れた手を名残惜しそうに目で追うノア様だったが、理由を知ると頬を赤くして同意する。
「お待たせしました。夜食は済みましたかな?」
「はい、ご馳走様でした」
「では、片付けて先を急ぎましょう」
程なくして足音の方向からルイスさんが現れた。一応怪しいところがないか様子を探るが、特に変わったところも無く平然と受け答えをしている。
(‥‥‥考え過ぎか)
ルイスさんは危害を加えられない。きっと今の魔力は彼のものではなく、何かしらの自然現象だろう。そう考えることにした。
「片付けは俺がやります。ノア様は休んでいて下さい」
「い、いえ、私も手伝います」
「危ないので、駄目です」
火の始末や椅子にしていた丸太を退かすので、見た目から非力な彼女には向かない作業だ。気持ちは嬉しいが適材適所ということで断る。
「むぅ‥‥‥分かりました。お先に失礼します」
ノア様は不満気な顔を見せるが、聞き分け良く荷車に戻ってくれた。
「‥‥‥甘いですな、リグ殿も。それとも死ぬまで守るつもりで?」
「聞いていたんですね」
彼女の姿が見えなくなったあたりで、隣から呆れたような声で問われる。やはりと言うべきか、盗み聞きしてたらしい。それを指摘すると、ルイスさんは誤魔化す様子もなく首を縦に振った。
戻ってくるタイミングが丁度良過ぎたので、なんとなく察してはいた。こちら側からそれを指摘しなかったのは、険悪な雰囲気を避けるためだった。
「不服ですか?」
「リグ殿がそう決めたのなら反対しません。お互いに心酔しているようですしな」
意外にもルイスさんは不満の一つも言わず、あっさりと身を引いた。
「‥‥‥何か企んでいますか?」
「さあ?どうでしょう?」
失礼ながら雰囲気が怪しかったので探りを入れてみると、はぐらかして逃げた。はいそうですと言っているようなものである。
「探るのは結構ですが、今は早くこの場を離れましょう。野生の餌にはなりたくないでしょう?」
「‥‥‥あまり強引な手段は取らないで下さい」
口を割らない様子からこれ以上何か言っても無駄だと察し、この場での言及は諦める。代わりに警告という予防策を打って、撤収作業に取り掛かり始めた。
「覚えておきましょう」
呟かれたその言葉には聞こえないフリをする。反応して隙を見せれば不利になるから。
その後、片付けを終えて再び帰路に着いたが、ルイスさんとは最低限しか言葉を交わさずにその日は眠りについた。




