バグベアー
キルロは人ひとりがやっとという幅しかない狭い小川の中、木の葉のように、水面を漂っていた。意識のない状態で、ゆったりと流されていたが、瞼がピクピクと緩い反応を見せる。
冷たい⋯⋯。
水? 川?
キルロは途切れそうな意識をなんとか繋ごうと、ゆっくり瞼を開いていく。
流されているのか?
キルロは岸に向けて手を伸ばすと、小さい突起に手がかかった。最後の力を振り絞り岸へ体を投げだすと、見えない天を仰いだ。
洞窟? 坑道?
岩壁にキラキラとたくさんの光りの粒が、弱い光を放っている。見た事のない光の粒に手を伸ばした。
随分と狭いな。
自分の吐く息と小川のせせらぎだけが響く。この空間は、先ほどまでいた所とは違い、いたく平和に感じてしまう。
岩壁の光る粒を指で擦ると、ポロッと簡単に取れた。キルロはそれを指でつまみ、マジマジと眺めていく。
爪ほどの純白の鉱石。
その鉱石自体は光を放ってはいない。どこからか届いている弱い光を受け輝いていたのだろうか。キルロは、それをポケットにねじ込み、また天を仰いだ。
随分と狭い洞窟だな。
キルロは視線だけで、辺りを見回す。
そういえば、まとわりつく不快感が消えたな。ありゃ、なんだったんだ?
なんとも不思議な所だ。
この鉱石もなんで光っているんだ?
あぁ、そういやぁマッシュが光るやつ持っていたな⋯⋯いやあれは液体か、まぁいい⋯⋯。
落ち着くと体中が痛みに包まれ、熱さを感じる。だがそれと同時に、冷えた体に悪寒が走り身震いも止まらない。体を動かす気力は消え、ただただ意識だけが、フワフワと漂っていた。
思考がまとまらない。
モンスターの気配も感じない⋯⋯。
キルロの緊張は解け、目を閉じると意識はそのまま深淵へと落ちて行った。
■□■□
ハルヲの放った矢は、バグベアーを大きく逸れ、彼方へと消えた。
この二人はまだ諦めていない。
キノとクエイサーの背を見つめ、凛と佇む二人の背中に、ハルヲは鼓舞された。目を閉じ逡巡する思考を止める。
シンプルに行こう。
ハルヲは青い瞳を見開き、向かってくる異形のモンスターを睨む。
まずアイツを仕留める。
「クエイサー」
「グラバー」
小声で声を掛けると、ハルヲはハンドサインを送る。
(キノ、右側からわかる?)
と、右方を指差しながら囁いた。
背を向けていたキノが振り返り、ハルヲの瞳を見つめ返す。その姿にハルヲは大きく頷き返し、迫りくる異形のモンスターと対峙する。
「行くよ」
ハルヲは弓を引き、痛む足でしっかりと地面を踏み狙い定める。
まだ⋯⋯まだよ。落ち着いて。もっと引き付けろ⋯⋯もっと⋯⋯今!
「ゴー!」
ハルヲは、掛け声と共に懇親の一矢を放つ。不安も一緒に放てと、その一矢にすべてを乗せた。
キノは目が潰され死角になっている右側から。経験値の高いクエイサーは左側へと展開させていく。
ゆっくりと近づくバグベアーに、白蛇と白虎が疾走する。キノは音も無く鋭い速さを見せ、クエイサーは大きなストライドで飛び込んで行った。
バグベアーとの距離が一気に縮まっていく。
ハルヲの矢が頬へと深々と突き刺さった。
『ガアァアアアアアアッ!』
バグベアーが吼えた。目を血走らせ、よだれを垂らし、思うようにならない苛立ちを咆哮へ乗せる。
醜悪をばら撒き、怒りの本能のままこちらへと疾走する。千切れた左手の付け根からは血が滴り落ち毛に貼りついた血が乾き赤黒く左半身を染めていた。
耳をつんざく咆哮に、体中の肌が振動する。
気圧されるな、自らを保て。
バグベアーがハルヲを捉えた。左腕の血が吹き出ようが、お構いなしに一直線に迫る。
動かない左足で立ち回りは無駄だと、ハルヲは両足に力を込め、矢を放ち続けた。
いくつもの矢がバグベアーを捉える。嫌がるバグベアーは飛んでくる矢を必死に払い続け、いくつもの矢が腕に刺さっていく。だが、そんなものは致命的なダメージにはならない。
突進の勢いは止まらず咆哮を上げ続け、血を滴らせながら本能の任せ突っ込んでくる。
体中を突き抜ける咆哮が大きくなっていく。ハルヲは、大きくなっていくその異形のモンスターから決して目を外さない。
眼前へと迫る。
ハルヲは弓を捨て、剣に持ち替えた。
「こっちだ! まっすぐ来い!」
迫る巨躯にハルヲのアドレナリンは、痛みを消し去る。挑発を続けながら、両手で剣を構え、その時を今かと今かと待ち構える。
バグベアーの大きな影が、ハルヲに掛かる。バグベアーの圧がハルヲに襲いかかる。
それでもハルヲは、一歩も引かず、剣を握る手に力を込めた。
心音の高鳴りがピークを迎えた。
今!
剣から手を放し二本指でバグベアーを指す。
「ゴー!」
キノがバグベアーの死角から頭へ素早くよじ登ると突き刺さっている左目の投げナイフを咥えると、そのまま口元まで一気に引き裂いた。
『ブオォォォォ⋯⋯』
バグベアーの顔は引き裂かれ、悲鳴のような咆哮を上げると、右からクエイサーが牙を剥きながら飛びついた。その大きな牙が、バグベアーの喉元を食い破る。
バグベアーの足は止まり、喉元に開いた穴から血がブシュブシュと吹き出す。
グラバーが、バグベアーの背中に猛然と突進する。バグベアーの背中へ全体重を叩きつけると、その衝撃に耐えられず激しい土埃を上げ、うつ伏せに倒れこんだ。
立ち込める土煙の中、ハルヲの足元に倒れ込んだバグベアーの頭があった。
その頭へ。
絶望の象徴へ。
ハルヲは、剣を突き立て自らを奮い立たせた。
突き刺した剣をさらに押し込む。脳の中心まで間違いなく捉えたその切っ先に、バグベアーは目を白く濁らせ、口元からだらしなく舌を出したまま動かなくなった。
骸と化したバグベアー。それを見つめ、ハルヲは安堵と疲労を吐き出すように溜め息をついた。
終わった。
ここまで連戦し過ぎている。とりあえずここで補給と休息を取ろう。キノがソワソワしている? でも今は、休息が必要だ。
このまま進んでもスピードと集中力の低下は間違いない。
共倒れしない為にも、ここで人心地つけよう。
陽光が弱く時間の感覚が分からない。痛む足を投げ出し、強引に休息を取っていく。
ハルヲは自分の補給が終わると、皆の様子を窺いながら、必要な補給を素早く与えていった。
まだ大丈夫。
皆にも自分にも言い聞かせる。
「行くよ!」
鼓舞する。パーティーを。自分自身を。
痛みも疲労も関係ない。
瞳に力を宿せ。
痛む足を引きずろうが、地を踏みしめて進もう。
皆を鼓舞し、自分を鼓舞し前へ前へと。
匂いを追うマイキーを先頭に岩壁に沿って進んでいく。
匂いの跡は続いている。きっと、やつはいる⋯⋯。
この先に、もう少し進めばと、折れそうな自身に言い聞かせながら、思い通りに動かぬ足を動かしていった。
ゴールの見えない行軍が続く。
どこからか、水音が聞こえて来ると、マイキーは真っ直ぐに音の出所へと向かった。
【吹き溜まり】に小川?
こんな所に? 川幅も深さもそれほどでは無い、【吹き溜まり】の中心部から、外へ向かって緩やかに流れていた。不快な空気が覆う地でありながら、川の水は恐ろしいほど澄んでいる。
マイキーの動きが止まった。
フゴフゴとせわしなく周辺を嗅ぎ回るが、パーティーの足は止まってしまう。
どうやらここで途切れたらしい。
ハルヲは苦い顔をする。
姿がないって事は動いていた? まだ動いている?
生きている可能性も示唆するが、キルロの痕跡は途絶えてしまった。
川に落ちたとか?
ハルヲは、キルロの姿を求め思案を重ねる。
もう少し流れが強ければ、流されたと考えられりけど、この流れで流される?
向こう岸に渡る事に寄ってバグベアーを振り切った? イヤ、人が渡れるくらいなのだからバグベアーが渡れないって事はないだろう⋯⋯。
逡巡しているハルヲの横を、キノがふらふらと岩壁の方へ向かった。水流が岩壁の中へと吸い込まれている。
ハルヲは、水流の吸い込まれている先を覗きこみ、岩壁の中を覗きこんだ。大人二人くらいなら歩けそうな、広くない坑道が外へ向かって続いている。
ハルヲの後ろでチャポンという音が聞こえると、水中を進むキノの姿が岩壁の奥へ吸い込まれてしまう。
キノは、岩壁の中まで進むと岸に上がり、覗き込んでいるハルヲに振り向いた。まるで、ハルヲを呼んでいるようにも見えてしまう。
「来いって事?」
ハルヲは、グラバーの背中にアントンを乗せると、岩壁の奥を目指し小川へ飛び込むと、みんなハルヲの後を追い小川へと飛び込む。
岸を上がったクエイサー達がブルブルと震わせ水を弾いていると、キノはシュルシュルと奥へ進んで行く。ハルヲは、素直にキノの後に続いた。
奥に進むと暗くなるはずなのに、キラキラと何かが微かに光り、この空間をぼんやりと照らし出している。
空気の重い感じがない? 薄れている?
この雰囲気、あそこに似ている⋯⋯。
!!
ハルヲの瞳に岸に転がっている人の姿がぼんやりと映る。
倒れているヤツがいる!
痛む足を必死に動かす。ハルヲの瞳にその姿がくっきりと浮かび上がる。
あのゴーグルは間違いない。
「あのバカっ!」
言葉と笑みが、ハルヲの口元からこぼれる。
でも、動いてない? まさか?!
ハルヲは急いで駆け寄り、キルロの呼吸を確認した。上下する胸の動きに安堵の波が押し寄せる。
「良かった、良かった⋯⋯このバカ」
と、何度もハルヲは口元からこぼし、倒れているキルロの頭を抱えこんだ。
「⋯⋯動くな」
静かに少しくぐもった女の声が、へたり込んでいるハルヲの背後から届いた。その瞬間首元に冷たい金属の感触。
どういう事??
クエスト受注者?
でもなんで脅す?
「あなたクエスト受注者?」
「はぁ?! 半端者、何言っている」
『半端者』とハーフの蔑称をダルそうに答えた。
状況が飲み込めない。刃を添えられた首は動かせず、横目で見上げるがフードを被り、鼻先までマスクで覆われて目元しか見えない。
獣人?
「⋯⋯白蛇? チッ!」
女はパーティーを一瞥すると、小さく舌打ちをした。