希望と絶望
「なんだか気持ちの悪い所ね」
ハルヲ達は無事底にたどり着き、空を見上げた。靄がかかる空は、どんよりと重く気分も重くする。
「マイキー」
通常の犬より嗅覚が発達している犬豚のマイキーが、ハッハッツハッと尻尾を振りながらハルヲに駆け寄った。
ずんぐりとした短い胴に短い手足、名前の由来通り豚のような鼻をフガフガ動かしている。
ハルヲは、マイキーにキルロの家から持ってきた、服の匂いを嗅がせた。マイキーは豚のような鼻をひくひくさせて、前方を見つめる。
背負子を背負う大型兎のアントンは、鼻をヒクヒクとひっきりなしに動かし、辺りの様子を窺っている。
体長は1Mi以上あり、見た目の愛嬌ある姿に騙される者が多いのだが、パワーと気性の荒さを合わせ持っていた。
そのパワーのおかげで重いバックパック背負っていても、軽々軽快な動きを見せ、荷物持ちとして冒険者達に大変重宝されている。常にキョロキョロと首を動かし、落ち着きない姿も、いつもの姿だった。
マイキーが匂いの痕跡を求めて動き始めると、動物だらけのパーティーはそれに続く。
良し!
「行くよ!」
動いた痕跡があるという事は、底についた時点では生きていた。きっとまだ生きている。
希望の灯がハルヲの心に灯った。
全く、面倒臭いわね。
歩みのスピードを上げたいのだが、次から次へと現れるモンスターとのエンカウントに、パーティーのスピードは、一向に上がらない。
エンカウントが多すぎるのよ。
ハルヲは、溜め息まじりにモンスターを屠りながら、苛立ちを募らせる。厄介な怪物とのエンカウントがないののは、せめてもの救いなのだが、歩みがいちいち滞り焦燥感が積み重なる。
エンカウントの度に、キノやクエイサー達が飛び出し、ハルヲの弓がそれを援護する。永遠とも思えるほど、それを繰り返していた。
進まない足の苛立ちを、ひたすらモンスターにぶつける。
『クァッー! クァッー!』
頭上からの醜い鳴き声に、ハルヲは視線を上げた。
1Miを優に超えるカラスの化け物が一羽、パーティーの頭上を付いて回っている。ゆっくりと羽ばたく姿が、忌々しく感じ、ハルヲの警戒心を煽った。
真っ赤なくちばし?
カラスじゃない?
『『クアァァァッーー!』』
頭上を悠々と羽ばたきながら、気持ちの悪い音色を響かした。
チッ。
その忌々しさに、ハルヲは舌打ちをする。何をされた訳でもないのに、ジトっと手に汗が滲む。
視界が暗くなるように感じ、羽ばたく音がやけに大きい。
なにげなく見上げた空が暗くなっていた。
霞が濃くなった?
いや、違う!
気が付けば、黒い怪鳥が頭上を覆いつくしていた。怪鳥の群れが、空を黒く染めていた。頭上を覆いつくす怪鳥の群れを、ハルヲは睨んだ。
あの気持ち悪い凸凹なくちばしって、苺口鳥?
黒い群れが同方向へはばたき、大きな渦を描きながら、頭上をついてくる。
感情の見えない怪鳥の目。まるでパーティーを値踏みするかのように見下ろしている。無数の羽ばたきがまるで、一匹の大きな怪物のように黒い大きな渦を作り蠢いている。
ハルヲの心臓が静かに高鳴っていく、黒い渦が頭上で闇を作り出し不安を煽った。
「ゴー!」
空を覆う闇から逃げようとパーティーは駆け出した。岩壁に沿って、必死に足を動かしていく。
だが、逃げられない。
視界が暗い、頭上は闇で覆われたまま。空に渦巻く黒い渦がパラパラと解けていく。
ハルヲの青い瞳が覚悟を決め、腰の鞭を手にした。ほどけた鞭は、地面に渦を描く。
闇から羽ばたきを止めた鳥が、パーティーへと一斉に降り注ぐ。
ハルヲの瞳が、降り注ぐ怪鳥を睨む。狙いすました鞭の一閃。
ビシっと唸りをあげながらハルヲの鞭は、苺口鳥の首を刎ねる。首を失った苺口鳥が、地面で体をひきつかせた。
ハルヲの鞭が、降り注ぐ怪鳥の雨を振り払っていく。白い虎と白い蛇が、地面でのた打ちまわる怪鳥を潰して回る。
地面が赤く染まっていく。
いくつもの赤い点が転がっていく。
だが、頭上は黒く覆われたまま⋯⋯。
どれだけいるのよ⋯⋯。
兎の背負子をおろそう。
あなたのやる気を見せてちょうだい。
「クエイサー! バック」
大きな虎が、小さな犬豚を守るようにハルヲの後ろで待機する。
闇が、空が、蠢く。手の届かないそれがもどかしい。
闇から赤いくちばしが降り注ぐ。それはまるで極大な雹のように、乱暴に降り注いだ。
直撃は死を意味し、そしてヤツらの餌となる。
そんなものはお断り。
パーティーは降り注ぐそれを振り払い、なぎ払い、叩き、潰し、噛みつき、降り注ぐ苺口鳥に抗い続ける。
突っ込む、突き刺す、降り注ぐ、単純ながら効果的なくちばしを降り注ぐ。目の前に転がる餌に、群れは狂喜する。
ハルヲの頬から、服は引き裂かれ、ミスリル製の胸当ては凹み、剥き出しの肌から血が滲む。降り注ぐ、くちばしが掠め始め、傷が増えるのを止められない。
地面に無数の赤い点が点在する。動けなくなった苺口鳥が地面を覆う。
「ハァ、ハァ、ハァ⋯⋯あれ? みんな!?」
突然、降り注いでいたくちばしが止んだ。急な静けさに、自分の激しい息遣いしか聞こえていなかった。
ハルヲは頬の血を拭い、冷静に状況を見渡していく。
蛇と虎に、いくつもの醜く赤いくちばしが、容赦なく強襲し続けている。
後ろで待機していたはずの、虎と犬に群がる黒い塊が蠢いているのが、冷静になったハルヲの視界に飛び込んで来た。
クソッ!
白く輝いていた虎の毛が、赤く汚れている。抗った形跡がしっかりと、クエイサーに残されていた。
苺口鳥は、自らの食欲の為だけに、虎と犬にくちばしを向けていた。
「アントン!」
ハルヲは、蛇と虎を指さすと、兎はまさしく脱兎のごとく跳ねて行った。兎高く跳ね上がり、襲い続ける赤いくちばしに、その強靭な足を振り下ろす。
何かが潰れる音がする。鳥の醜い断末魔が響き渡る。頭の潰れた赤いしみが地面についていく。
続け。
ハルヲは、兎の動きを確認すると、虎と犬の元へと疾走する。鞭を剣に持ち替え、振る、ひたすらに振る。虎と犬に群がる黒い塊の中に飛び込み振り続けた。
首を跳ね、羽を刻み、胴へ突き刺す。
頬がこすれ、腕は噛まれ、胴に爪が食い込む。
黒い塊を振り解け。
目の前に赤いしぶきが上がり続ける。呼吸が乱れていく、自分の荒い呼吸が耳障りだ。
犬を背にする虎の低い唸りが、ハルヲに聞こえてくる。クエイサーとマイキーに群がっていた黒い塊は、地面を赤く染め上げた。
羽ばたきが聞こえない。
ハルヲが空を見上げると霞んだ空が現れており、視線を戻せば地面は赤一色だった。
1、2、3、4⋯⋯残り5羽か。
残りはわずか。苺口鳥の黒い影が、旋回を始める。
ハルヲは、目の前の地面に剣を突き立て、鞭を握り直す。そして、頭上で輪を描く黒い影を睨んだ。
汗か、血か、何か分からぬものが、ハルヲの首筋から垂れる。
バラバラと降り注ぐ黒い影に兎が跳ねる。その横をすり抜けるハルヲの鞭が、黒い影を襲う。
兎と鞭が横一線になり、黒い影へと向かう。
鞭は首を跳ね、兎は頭へ足を振り下ろす。
兎の背から蛇が飛び出す。蛇は白光となった。
空中に放たれた白光が、降り注ぐ黒い影に絡みつき、羽ばたけない、飛べない。そして地上に落ち、地面をバタバタと這いつくばった。蛇は、地面を這いつくばる苺口鳥の喉元に牙を向き、またひとつ赤いしみを増やした。
1、2、3? あれ?
ハルヲは地面に出来たばかりの赤いしみを数え、首を傾げた。空に影はひとつしかない。もうひとつが見当たらない。
ハルヲは、首を動かし、視線を激しく動かす。もう一羽が見当たらない。
痛っ!
ハルヲの腿の裏から鈍い衝撃と、激しい痛みが襲った。視線をその痛みの方へ向ける。腿の裏に深々と突き刺さった赤いくちばし。そこからハルヲの赤い血が滴り落ちていた。
衝撃と痛みにハルヲの体は硬直していると、蛇がそこへ跳ねる。ハルヲは、グリュっとイヤな感触を腿裏から感じると、赤いくちばしは腿から抜け落ち、絡み付いた蛇が、苺口鳥を締め上げていた。
ハルヲの腿裏から、赤いしぶきが吹き出す。
かはっ!
痛みと衝撃が体中を襲う。穴の空いた腿裏から血が止めどなく流れ落ちていく。
グシャっという粉砕音が聞こえると、兎が血まみれのくちばしごと頭を潰していた。血塗られたくちばしは横たわり動かない。
その様子に、最後の苺口鳥は、点高く舞い上がって行ってしまった。
逃げた? ⋯⋯終わった。
ハルヲの心は、落ち着きを取り戻す。だが、蛇と虎達が上を睨んだまま動かない。
なに?
雹、いやそれはもう鋭い一本の槍となっていた。羽ばたきもせず真っ赤なくちばしを下に向け落下している。
突き刺す、突き立てると、その苺口鳥の意志だけが伝わる。
その槍は犬を背にする虎に狙いを定めた。
ハルヲは動かせぬ足に顔をしかめながら、鞭を振るい、足掻く。伸びる鞭は、落下する槍の脇をすり抜けて宙を叩くだけだった。
しまった⋯⋯。
ハルヲの背筋が粟立つ、落下槍の風切り音がその勢いを伝え、血塗れのクエイサーが頭を過り、絶望を呼び起こす。
くっ!?
ハルヲは反射的に目を閉じてしまった。
見たくない光景、無残な光景を想像し、現実から目を閉じてしまう。だが、目を閉じるその一瞬、大きな白い影が飛び込んだように感じた。
風切り音が止み、肉の潰れる音と骨の砕け散る音が聞こえた。
「グラバー!」
ハルヲは、飛び込んだ白い影の名を叫んでいた。
首から先が粉々に砕け散った苺口鳥が地面に転がっていた。
終わった⋯⋯。
今度こそホントの安堵に包まれる。
ハルヲは、血の混じった汗を拭い、袖口を赤く染めた。
名を呼ばれた白い虎がそばに寄って来ると、ハルヲは慈しみをもってその頭を撫でる。
「ありがとう。頑張ったね」
グラバーは嬉しそうにハルヲにすり寄って、頭を預けた。
「クエイサー見せてごらん」
マイキーを守るため孤軍奮闘を見せていたクエイサーの傷を、ハルヲが確かめていく。
右前足の傷が深いわね。
応急処置だけでもしておかないと。
「良く守ってくれたね。助かったわ」
ハルヲは、クエイサーの頭を抱え自分の額をクエイサーの額にそっと重ねる。他の仔達も擦り傷や、切り傷などの裂傷を抱え、所々赤く染まっていた。
みんなありがとう。
深い傷をおっていないのは幸いだが、楽観出来る状態でもない。
一番の問題は自分の左足だった。腿の裏側は抉られた傷からジワジワと出血が止まらない。
歩みを止めれば止血は出来る。ただ、今歩み止めるという選択肢はない。歩くだけで痛みが襲ってくる。だが、止まるという選択肢は、ハルヲの中になかった。
自身の腿を包帯できつく縛り上げ、剣を杖替わりにして歩き始めると、キノが心配そうに見上げてきた。
「これくらい、大丈夫よ」
そう言って、強がるハルヲは、キノの頭を撫でる。
大丈夫このくらいじゃ止まらないから心配しないで。
歩みは遅くなるがまたゆっくりでいい、ヤツの跡をたどろう。
光の届かない底。そこで微かな光に望みを託す。岩壁に沿って、歩くというより、もはや足を引きずっている。
遅々として進まぬ歩みと比例して、パーティーの疲労は加速度的に増えていた。痛みと疲労で体中が重く感じ、足取りを鈍くさせる。
キノが歩みを止め、首をもたげた。前方を気にする仕草を仕切りにしている。
ここでエンカウントは避けたい。
ハルヲは、行軍を止め草葉に隠れ息を潜めた。
前方から得体の知れない気配を感じ、ハルヲは生唾を飲み込んだ。
その気配の主はゆっくりと現れる。
ゆっくりと歩く異形のモンスターの姿。
左目にナイフが刺さり、左腕を斬り落とされていた。
ハルヲは視界に捉えているモノに愕然とする。
あの腕とナイフ⋯⋯対峙したのはアイツって事?
あの化け物とひとりで? あの姿が物語るのはなに?
どういうこと?
あんなの助かる訳ないじゃない⋯⋯傷を与えた者はどこいったの?
霧散させたはずの絶望が、一気に体の中心へ収束する。
両手を口に当て叫びたい衝動を抑える。涙が溢れ、震えが止まらない。
そもそもなぜその姿で、動けている。
ネガティブな思考が、ハルヲの頭の中で撹拌され、答えを見い出す事が出来ない。身動き取れないハルヲの前に、キノと傷だらけのクエイサーが立ち上がった。
凛とした背を見せ、まるでハルヲを鼓舞するかのごとく目の前の現れた異形のモンスターに立ちはだかった。
その背中は、絶望の淵に捕らわれていたハルヲに語る。
前を向けと。
その姿に絶望を振り払い、青い瞳に力を取り戻し自分を鼓舞していった。
しっかりしろ! 私!
今一度絶望を霧散させる。
絶望するにはまだ早い。
絶望と勝手に判断するな。
ハルヲは弓を手に取り、懇親の一矢を異形のモンスターに放った。
その一矢は、手負いのバグベアーに宣戦布告となる。




