第9話 潜伏先の亀裂
東十条の古びたアパートの一室。遮光カーテンの隙間から差し込む朝の光が、埃の舞う室内にうっすらと白濁した筋を作っていた。
折りたたみテーブルの上に置かれたポータブルドライブから、微かな電子音が響く。結城は手元のノートPCを叩きながら、回収されたばかりのコアデータを解析していた。
「先輩、すごい量のデータです……。これ、東洋都市総合研究所のメインサーバーから抜いたものですよね?」
「あぁ。神谷が管理していた裏の台帳だ。休眠戸籍の売買ルートだけでなく、特定政策調整室が過去に『除籍』処理した人間たちのリストも含まれている」
相馬はコーヒーの入った紙コップを手に持ちながら、モニタの数値に目を細めた。
リストの総数は、想像を絶する規模だった。日本全国で年間数百人規模の人間が、行政の手続きや事故、失踪という名目を偽装されて「存在しない人間」として処理され、その戸籍が別のデータに書き換えられている。
「そんな……じゃあ、私たちが消されたのも、最初からこのリストの枠を埋めるためだったってことかよ……!」
部屋の隅のパイプベッドに座っていた佐藤が、頭を抱えながら声を荒らげた。彼は昨夜からの緊迫感と恐怖で睡眠も取れておらず、目の下には濃いクマが浮かんでいる。
「落ち着け、佐藤。お前がここにいるのは、そのシステムに偶然気づいたからだ」
「落ち着けるかよ! 俺の会社も、家も、全部奪われて、いつまたあいつらに消されるか分からないんだぞ! いつまでこんな薄汚い部屋に隠れてればいいんだよ!」
佐藤の苛立ちは限界に達していた。普通の民間人である彼にとって、国家を相手にした逃亡生活は精神をすり潰すのに十分すぎるプレッシャーだった。
結城が申し訳なさそうに視線を落とす。
「ごめんなさい、佐藤さん……私の技術がもっと高ければ、すぐにでも元の戸籍を復旧できたかもしれないのに……」
「いや、結城のせいじゃない」
相馬は静かに遮り、佐藤の前に歩み寄った。
「お前の不安はもっともだ。だが、ずっとここに隠れているつもりはない。このデータの中には、特定政策調整室のトップに直結する『決済権限のログ』がある。それを外部のメディアや、政府内の別派閥へ流せば、あいつらの足元を確実に揺るがすことができる」
「外部に流すって……どうやって? 僕たちのスマホも連絡手段も全部捨てただろ!」
「方法はいくらでもある。だが、そのためにはまず、このアパートを出る必要がある」
相馬がそう言った瞬間だった。
ピピッ、と結城のノートPCから警告音が発せられた。
「……先輩!」
結城の顔色が一気に青ざめる。モニタには、ローカル監視システムが捉えた周辺のネットワーク異常が表示されていた。
「どうした」
「このアパートの周囲一キロ圏内で、通信キャリアの基地局データを強制接続する『IMSIキャッチャー』の電波が検知されました! 私たちの使い捨て端末のシグナルを探知するために、向こうがエリアを絞ってスキャンを始めています!」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「見つかったのか……?」佐藤が震える声で呟く。
相馬は即座にジャケットのジッパーを上げ、テーブルの上のポータブルドライブを回収した。
「いや、まだピンポイントで特定はされていない。奴らはしらみ潰しにエリア内の不審な電波を炙り出している段階だ」
相馬は佐藤と結城を見据え、冷徹に言い放った。
「一歩遅かったな。――荷物をまとめるぞ。ここを捨てる」




