第6話 バグの始動
薄暗い部屋の中に、ノートPCの液晶画面が発する青白い光だけが浮かび上がっていた。
結城が持ち出した現場用端末は、本庁のネットワークからは切断されているものの、ローカルに蓄積された過去の業務ログやシステム構造のバックアップデータが保存されている。
「相馬先輩……データ・ソリューションズ社の資金流出ルート、一つだけ不自然なノードが見つかりました」
結城が画面を指差す。そこには、数層に及ぶダミー企業の暗号化された送金履歴が表示されていた。
「これです。『港区麻布・東洋都市総合研究所』。表向きは都市開発やインフラ政策の民間シンクタンクですが、資本金の8割が特定政策調整室の関連団体から流れ込んでいます」
「シンクタンクか」
相馬は画面を覗き込み、流れるデータを冷徹な目で見つめた。
「休眠戸籍の売買、そしてデータの抹消。それを行うには、単なるPC上の操作だけでは足りない。物理的なサーバーの管理施設と、抹消された人間の身の振りを割り振る『受け皿』が必要だ」
「じゃあ、そのシンクタンクが……俺たちの戸籍を消した実行部隊の拠点ってことか!?」
佐藤が身を乗り出す。その顔には、先ほどまでの怯えと同時に、わずかな憤怒の色が混じり始めていた。
「焦るな、佐藤。相手のホームグラウンドに無策で乗り込めば、警備会社や警察を呼ばれて即座に身柄を拘束される。今の俺たちには『相馬蒼』や『佐藤学』という身分証明がない。不法侵入で逮捕されれば、名前も明かされないまま精神病院か秘密施設へ送られて終わりだ」
「じゃ、じゃあどうすれば……」
「システムをハックするんじゃない。人間の心理と、行政の手続きをハックする」
相馬は使い捨て端末を操作し、記憶しているある電話番号を入力した。
「誰にかけるんですか?」
結城の問いに、相馬は短く答えた。
「国税局の査察部だ」
結城と佐藤が目を見開く。
「国税……!? 先輩、さっき警視庁に通報したばかりじゃ……」
「警視庁と国税庁、そして内閣府。これらは同じ政府組織だが、縦割り行政の弊害で互いの情報を共有していない。特に国税局の査察部――通称『マルサ』は、脱税や不審な資金流入に対して独自の強大な権限を持つ」
相馬は受話器を耳にあて、呼び出し音を鳴らした。
「特定政策調整室のような特権組織であっても、国税の踏み込みまでは容易に止められない。なぜなら、止めようと介入した瞬間に『政治的な圧力があった』という証拠が国税内部のログに残るからだ」
電話が繋がり、相馬は無感情な声で切り出した。
「東洋都市総合研究所の使途不明金、および海外ペーパーカンパニーを経由した数十億円規模の脱税スキームについて情報提供だ。今すぐ該当口座の緊急保全手続きに入れ」
相馬は結城が弾き出した正確な口座番号と、資金移動のタイムスタンプを淡々と読み上げていく。
受話器の向こうで、相手の担当者が息を呑む気配が伝わってきた。
「……情報提供者のお名前は」
「名乗る必要はない。ただ、一時間後にそのシンクタンクのメインサーバーからデータが一斉に物理消去される予定だ。押収するなら今しかない」
相馬は一方的に通話を切ると、バッテリーを外してテーブルに置いた。
「先輩……これで、どうなるんですか?」
「国税が動けば、東洋都市総合研究所はパニックに陥る。捜査が入る前に不都合な証拠や『消した人間のリスト』を移動させようとするはずだ」
相馬は作業着のファスナーを上まで引き上げた。
「敵が焦って荷物を持ち出そうとする瞬間こそ、最大の隙ができる。俺たちはその混乱に乗じて、奴らの懐に潜り込む」




