第4話 逆流する情報
深夜三時、山手線のガード下に広がる暗がり。相馬と佐藤は、終電の去った線路沿いの細い道を足早に進んでいた。
佐藤は荒い息を吐きながら、隣を歩く相馬の横顔を恐る恐る盗み見る。スーツを脱ぎ捨て、作業着に身を包んだ相馬の佇まいは、先ほどまでの「冷徹な官僚」から「街の景色に溶け込む作業員」へと完全に変化していた。
「なあ……挨拶って、一体なにする気なんだ? 俺たちには警察を呼ぶ権利も、弁護士を雇う金もないんだぞ」
「警察や弁護士は『法』というルールの中で機能する仕組みだ。だが、俺たちを消した側はそのルールの外側にいる。なら、こちらも同じ土俵に立つまでだ」
相馬は足を止め、古びたコインコインランドリーの脇にある公衆電話ボックスに視線を向けた。
現代において絶滅しつつある公衆電話。しかし、行政の監視システムにおいては、これが最大の「盲点」になり得る。IPアドレスもGPSログも残らず、通話履歴は電信柱の交換機に物理的な記録としてしか残らない。
相馬はポケットから10円玉を取り出し、電話口に投入した。
「どこにかけるんだ……?」
「警視庁のサイバー犯罪対策課だ」
相馬は迷いのない手つきで番号をプッシュした。受話器から呼び出し音が三回鳴り、夜間当直の無機質な声が繋がる。
『はい、警視庁サイバー犯罪対策課です』
「通報だ。たった今、内閣府の特定情報サーバーに対し、外部からの不正アクセスおよび公文書偽造が行われた」
『な……なに? どちら様ですか、お名前を――』
「名前はない。存在しない人間の声だと思って聞け」
相馬は静かで平坦な声を保ったまま、言葉を続けた。
「アクセス元IPアドレスは192.168.X.X、ログの消去に使用されたプロトコルは国家公安委員会管理下のセキュアポートだ。さらに、歌舞伎町の監視カメラネットワークに仕込まれたリアルタイム画像補正プログラムのバックドアのハッシュ値を告げる。メモの用意はいいか」
受話器の向こうで、キーボードを叩く激しい音が聞こえ始めた。相手の警官が、ただの悪戯電話ではないと察知した証拠だ。
「な、おい! そんな情報を警察に教えたら、ますます俺たちの居場所が探られるんじゃないのか!?」
焦った佐藤が声を潜めて詰め寄るが、相馬は手でそれを制した。
「これでいい。警察内部には、今回の『除籍』を知らされていない真面目な捜査官が必ずいる。国家の中枢が勝手にシステムを私物化してデータを書き換えたという異常事態を、現場の警察に『事件』として認識させる」
相馬はあえてハッシュ値とIPアドレスの一部だけを告げると、警察官が制止する声を無視して、受話器をフックに戻した。
「相手は俺たちを『静かに消した』つもりでいる。だからこそ、システムに小さなノイズを混ぜてやるんだ。現場の警察が不審に思って捜査を始めれば、データを書き換えた暗躍者どもはログの二次消去に追われることになる」
「あいつらの足を引っ張るってことか……?」
「それだけじゃない。動きが生じれば、必ず『綻び』が出る」
相馬は電話ボックスを出ると、暗がりの中へ再び歩き出した。
彼らを追う巨大なシステム。だが、システムが大きければ大きいほど、想定外の通信エラーや内部の連携ミスという「バグ」は生じやすくなる。相馬はそのバグを誘発させ、敵の姿を炙り出そうとしていた。
その時、相馬の作業着のポケットの中で、あらかじめ用意しておいた使い捨ての暗号化端末が、短く一回だけ振動した。
画面を開くと、送信元不明の差出人から一通のメッセージが届いていた。
『相馬先輩。追跡を振り切りました。指定のセーフハウスへ向かいます』
相馬の唇が、わずかに吊り上がった。
「結城か。無事だったか」
孤立無援と思われた「消された男たち」の反撃のギアが、静かに噛み合い始めていた。




