第3話 逃亡の設計図
新宿の路地裏に、赤色灯の光と遠いサイレンの音がじわじわと迫っていた。
膝をついたまま立ち上がれない佐藤の襟首を、相馬は容赦なく掴み上げて強引に立たせた。
「立ち止まるな。この街の防犯カメラは、いまや俺たちの顔を認識した瞬間に警視庁の通信指令本部へ自動でアラートを飛ばす仕組みになっている」
「で、でも……どこへ逃げるんだよ! 警察も、銀行も、カードも使えないんだぞ!?」
「だからこそ、制度の死角を突く」
相馬は佐藤の背中を押し、歌舞伎町の喧騒から離れた古い雑居ビル街へと足を進めた。
普通の人間が追われる身となった場合、頼るのは友人や親族、あるいはホテルやレンタカーだ。しかし、現代日本においてそれらの行為はすべてデジタルフットプリントとして記録される。防犯カメラ、交通系ICカードの履歴、通信キャリアの基地局データ。それらすべてが警察と国家の監視網に直結している。
だが、相馬は『除籍係』として、その監視システムの設計思想と裏側の構造を知り尽くしていた。
相馬が向かったのは、雑居ビルの地下にある古びたコインロッカーだった。街頭の防犯カメラの画角から完全に外れた、建物の死角にひっそりと置かれている。
彼はスーツの内ポケットから一本の鍵を取り出し、ロッカーを開けた。中にはボストンバッグが一つ入っている。
「それは……?」
「緊急用のデッド・ドロップだ。業務上、自分の身元が不測の事態で途絶したときのために、数年前から個人的に用意しておいた」
バッグの中身はシンプルだった。
足のつかない現金三十万円。追跡機能のない使い捨てのフィーチャーフォン。そして、数枚の無記名交通系ICカード。
相馬は即座にスマートなビジネススーツを脱ぎ捨て、バッグの中にあった地味な作業着に着替えた。メガネをかけ、深めのキャップをかぶる。それだけで、監視カメラの顔認証精度は劇的に低下する。
「お前も着替えろ。佐藤、お前の持ち物はすべてそこに捨てていけ」
「えっ、スマホも!? 家族の写真が入ってるんだ……!」
「そのスマホの電源が入っているだけで、基地局から数メートルの誤差で位置が特定される。命と写真、どちらが大事だ」
冷徹な相馬の眼光に押され、佐藤は泣く泣くスマートフォンと財布をロッカーの中へ放り込んだ。相馬はロッカーの鍵をコインシリンダーごと破壊し、二度と開かないように処理を施す。
「これからどうする……? どこか地方へ逃げるのか?」
「いや。東京を離れるのは一番の愚策だ」
相馬は短く答えた。
「地方へ逃げれば、よそ者として目立つ。最も安全な隠れ場所は、一日に数百万人もの人間が行き交い、情報が過密すぎて処理が追いつかない巨大なターミナル駅周辺だ」
相馬は使い捨て端末を起動し、記憶している暗号化されたIPアドレスへ短文のテキストを送信した。
『システムにエラー発生。クリーンアップを実行する』
送信ボタンを押すと同時に、端末のメモリを消去するプログラムが自動実行され、画面が白く発光して停止した。
相馬の頭の中では、すでに反撃のための設計図が組み立てられつつあった。
彼を消したのは、国家の深部に潜む何者かだ。だが、相手が「システム」を利用して自分たちを消したのなら、そのシステム自身が抱える矛盾とバグを利用して、逆照射することは十分に可能だった。
「行くぞ、佐藤。まずは俺たちを『存在しない人間』にした奴らに、最初の挨拶と行こう」
深夜の街へと消えていく二人の背後で、パトカーが虚しく赤色灯を回転させながら通り過ぎていった。




