第23話(最終話) 沈黙と決断
『日本国・特別住民除籍係の記録』
第二十三話:沈黙と決断
無数の冷却ファンが回転を止め、静寂が訪れた地下データルーム。スプリンクラーから降り注ぐ水滴が、暗闇の中で天井の非常灯の赤い光を反射している。
「ハァ……ハァ……止まった……のか?」
濡れたキーボードの前で、佐藤が呆然と自分の手を見つめていた。画面に表示されていた『プロジェクション・ゼロ』のデータ抹消シーケンスは98%で凍結し、完全なバックアップログが保護されたことを示すプロンプトが点滅している。
「よくやった、佐藤」
相馬は濡れた髪を拭いもせず、無力化した執行班の男たちから回収したアクセスキーを拾い上げた。
その時、サーバー室の最奥にある重厚な自動ドアが、静かに横へと滑った。
現れたのは、仕立ての良いスーツを着た小柄な老紳士――内閣官房参事官、御厨源一郎だった。手には拳銃も無骨な兵器もなく、ただ一枚のICカードと、嗜むような笑みを浮かべた表情だけを携えている。
「見事な手際だ、相馬くん。神谷のような凡造では、君たちのこの執念を予測することはできなかったろう」
御厨は足元の水溜まりを気にも留めず、静かな歩調で二人に近づいてきた。
「御厨参事官」
相馬は静かに立ちふさがり、相手の僅かな動作も見逃さない姿勢をとった。
「往悪もここまでだ。メインサーバーは停止し、最高検特捜部と監察官室へすべてのログが送信された。あと十分もすれば、地上から捜査員がこの部屋へ踏み込んでくる」
御厨は小さく首を振ると、嘲るような吐息を漏らした。
「検察が踏み込む? それが君たちの考える『勝利』かね?」
御厨は胸ポケットから静かにスマートフォンを取り出し、その画面を二人に見せた。そこには、地上で待機しているはずの特捜部の突入車列が、霞が関の交差点で「緊急通行止め」により完全に立ち往生しているリアルタイムの監視映像が映し出されていた。
「国家のシステムとは、君たちが思うほど単純ではないのだよ。私はただの『参事官』に過ぎない。この『プロジェクション・ゼロ』を求めているのは、政権のトップであり、官僚機構の全体なのだ」
「何……!?」
佐藤が戦慄した声を上げる。
「私一人を捕らえたところで、明日には別の人間がこの椅子に座り、止まったサーバーのスイッチを入れるだけだ。君たちが送ったデータも、法務省と内閣情報調査室の協議によって『テロ組織による捏造文書』として処理されることがすでに決まっている」
御厨の瞳には、一切の揺らぎがなかった。彼自身もまた、国家という巨大な怪物の一部に過ぎないのだという絶対的な確信。
「君たちは『存在しない人間』だ。ここで死ねば事故死、生き延びても一生追われる逃亡者。……だが、相馬くん。君には選択肢をあげよう」
御厨はICカードを相馬へ向けて差し出した。
「そのカードを使えば、君たち三人の戸籍データは正常な状態へと復元される。過去の記録もすべて消去し、元の生活と相応の地位を約束しよう。条件は一つ……そのバックアップドングルを私に渡し、この件から永遠に手を引くことだ」
静まり返る地下空間に、冷たい水滴の音だけがポツリ、ポツリと響く。
佐藤が息を呑み、相馬の背中を見つめた。「除籍」され、社会から存在を消された自分たちにとって、それは喉から手が出るほど欲しい「日常」への帰還チケットだった。
相馬は差し出されたICカードを見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
――そして、そのカードを掴むと同時に、手の中で木っ端微塵に折り折った。
「な……!?」
初めて御厨の表情に動揺が走る。
「俺たちが追っていたのは、自分の戸籍じゃない」
相馬は砕けたカードの破片を床へ捨て捨てると、冷徹な目で御厨を見据えた。
「お前たちが作り上げたこの歪んだシステムそのものを、破壊することだ」
「愚かな……! それで君たちは一生、闇の中を這い回ることになるのだぞ! 名も、顔も、生きる権理すら奪われたままで!」
「名も顔もなくとも」
相馬はポケットから、結城と連絡を取るための古い無線端末を取り出し、スイッチを入れた。
「『バグ』として、お前たちの足元に存在し続ける」
『――こちら結城。相馬先輩、地上経由の全報道機関および海外メディアへの一斉データパブリッシュ、完了しました!』
端末から結城のハッキリとした声が響き渡った。
「……何だと!?」
御厨の顔から血の気が引いていく。検察や警察などの「行政組織」を迂回し、全世界の報道機関へと直接、国家の陰謀データが解き放たれたのだ。
直後、遠くの天井から重い爆音と、無数の靴音が近づいてくるのが聞こえた。今度こそ、ごまかしの効かなくなった表の捜査員たちが、地下へと雪崩れ込んでくる音だった。
「行こう、佐藤」
相馬は振り返り、呆然とする佐藤の肩を叩いた。
「ああ……!」
二人は激昂する御厨と倒れ伏す執行班を置き去りにし、闇の奥へと続く未記載の避難坑道へと駆け出した。




