【第六話】優しさの向こう側
こいつは幽霊なんかじゃない。
「お前は……俺の“理想”だ。理想の俺」
『……うん』
「お前は幽霊じゃない」
『……うん』
「……目的は?」
『そこまで言うなら、答えはもう分かってるだろ』
否定できない。
ずっとずっと、俺が俺に対して夢想してきたこと。
最も渇望していた妄想。
「……俺を殺すのが、お前の目的なんだな」
『そうだよ』
答えは短くて、優しかった。
優しいはずなのに――その優しさが、俺の奥に刺さって抜けない。
次の瞬間、彼は俺に口づけた。
逃げ道を塞ぐみたいに、
迷いの余地を奪うみたいに。
唇が触れて、熱が移って、
俺は息の仕方を忘れる。
舌が、静かに入り込んでくる。
乱暴じゃない。むしろ丁寧で、慈しむようで――それがいちばん怖かった。
まるで「全部わかってる」って言われてるみたいで。
俺は抵抗できなかった。
いや、抵抗しなかった。
この温度に溺れて、引き返す理由を探すのをやめてしまった。
「……俺、頼んでない……」
声は掠れて、自分のものじゃないみたいだった。
『知ってる。でも、君は欲しがってる』
彼の手が、そっと――俺の首に触れた。
指先が皮膚を撫でるだけで、心臓が跳ねる。
優しい触れ方なのに、そこが“出口”だと分かってしまう。
『ねえ。君は、何が欲しい?』
……わからない。
わからないふりをしたい。
見たくない。聞きたくない。
だって、誰も見てくれないし、誰も聞いてくれない。
俺の渇きなんて、価値がないって、ずっと思ってきた。
彼は俺の耳元に唇を寄せた。
囁きは、祈りみたいに静かで、呪いみたいに確かだった。
『教えてあげる』
吐息が、耳の奥を震わせる。
『……愛だよ』
――愛。
そんなものが、この世界にあるなんて。
十六年、俺が欲しかったのは、こんな陳腐な一文字だったのか。
煙草で烙かれた痕も、
殴られた痛みも、閉じ込められた夜も。
全部、全部、俺は生き残ってきたのに。
生きていた理由が「愛」だなんて、笑えるほど皮肉だ。
『だから、僕は君を殺す。君のために生きる。君の代わりに生きる。――だから、死んで』
言葉は冷たいのに、眼差しはあまりにも優しかった。
憎しみじゃない。怒りでもない。
泣き叫ぶ痛みでもない。
そこにあったのは、重すぎるほどの「肯定」――
誰よりも深い、“俺だけを見ている”という感覚だった。
俺の喉が鳴る。
怖い。
でも、それ以上に――甘い。
俺は、震える息のまま、自分にキスを返した。
逃げるためじゃなくて、沈むために。
「……お願いだ。殺して」
声が、勝手に続く。止められない。
「俺には存在する意味がない。誰も必要としてない。誰も愛してない。
……もし最後に、俺が“俺の愛”で殺されるなら……それでいい。満足だ」
『……わかった』
彼の指が、少しだけ強くなる。
首が締まって、空気が細くなる。
呼吸が、薄い糸みたいに頼りなくなる。
恐怖が背中から這い上がってきて、視界の端が滲む。
でも同時に、妙な安堵が胸を満たしていく。
――これは「愛の死」だ。
俺は愛されている。
俺は、俺に愛されている。
生まれて初めて、胸の真ん中が埋まっていく感じがした。
酸素より先に、愛が入ってくる。
苦しいのに、あたたかい。
『君は、ずっと欲しかったんだろ。……こういうのを』
指が、確かに締め上げる。
唇がまた触れて、俺の意識の輪郭が溶けていく。
俺と彼の境目が、音もなく崩れる。
「……っ……」
声にならない音が漏れた。
頭の中で、ノイズが弾ける。
(パチ、パチ)
――俺は誰だ?
――彼は誰だ?
――どっちが“本物”だ?
『大丈夫。もう、君は頑張らなくていい』
その一言が、優しすぎて。
優しすぎて、俺は泣きそうになった。
最後に見えたのは、彼の目だった。
そこには俺がいて、俺の奥が映っていて、
そして、俺がずっと見たかった「色」が揺れていた。
息が――止まる。
愛が――満ちる。
…… …… ……。




