【第四話】正しさの向こう側
俺は生活を、真っ二つに切り分けた。
夜に目が覚める。窓の外の街灯が部屋を二色に割る中、俺はただ天井を見つめて朝を待った。
眠気が身体を引きずっていくのを待って、落ちる。
落ちた瞬間に――“それ”が起きる。
最初は怖かった。
教師に変だと思われたら終わる。
クラスメイトに露骨に避けられたら終わる。
父親の前で何かを間違えたら――そのツケは全部、俺に返ってくる。
でも、一日目の夜。
メモには短い一文だけが残されていた。
『今日は問題なし。』
二日目。
少し増えた。
『席が窓側の子が消しゴムを貸してくれた。笑い方がうるさいけど、嫌いじゃない。』
三日目には、もう“報告書”みたいになっていた。
『数学の未提出を埋めた。途中式がきれいだって先生が言ってた。』
『昼休みに販売部へ誘われた。君なら断るだろうけど、俺は行った。』
俺はスマホの画面を見つめたまま、胸の奥がちくりとした。
嬉しい? 安心?
違う。
――誰かが俺の人生を磨いて、磨いて、磨き上げて、光らせている感じ。
そして当然みたいに言うんだ。「ほら、こうすればいい」って。
変化は、些細なところから始まった。
引き出しの中に綴じられたノート。
ぐしゃぐしゃじゃないプリント。
鞄の中の匂いが、少しずつタバコから洗剤に変わっていく。
そして成績。
不合格からギリギリへ。
ギリギリから平均へ。
平均から上位へ。
“それ”は正解を出すだけじゃなく、「なぜそうなるか」まで書いた。
先生が授業中に俺の名前を呼ぶようになった。
クラスメイトがプリントを机に置くようになった。
廊下で「最近すごくない?」と言われた。
俺は夜に起きている。
昼の“俺”が笑っている音を、録音で聞いた。
……それは確かに俺の声なのに、俺の声じゃないみたいだった。
“それ”は勉強だけじゃなかった。
体力テスト前に走り出した。
『この身体、弱すぎ。二周で息がうるさい。』
数日後。
『三周。』
一週間後。
『五周。心臓が騒がしいけど、俺は嫌いじゃない。』
体育の時間、笑われなくなった。
背中を叩かれて、「いけるじゃん」と言われた。
昔の俺なら、それを施しみたいに感じていたはずなのに。
『悪意じゃない。君が踏まれることに慣れすぎてただけ。』
夢の中で“それ”と会う回数が増えた。
公園のベンチ。色のある世界。
“それ”は俺の手に、あの温かい色を少しずつ押し込んでくる。
『君はいつも縮こまってる。縮こまるほど、君は幽霊に近づく。』
言い返そうとして、言葉が出ない。
目が覚めると、空洞だけが残った。
一番異様だったのは、両親の変化だ。
成績表が家に届いた日。
俺は覚悟していた。
父親は「今まで何してた」と言って殴るか、「最初からこうしろ」と言って踏み潰すか、どっちかだと思っていた。
でも殴られなかった。
父はただ成績を見つめて、長い沈黙のあと、鼻で笑うみたいな音を鳴らした。
翌日、冷蔵庫にクレープが入っていた。
俺が買ったんじゃない。
母が小さく言った。
「あなたのお父さん……最近、頑張ってるって……」
その目は謝罪みたいで、懇願みたいで、どちらでもない。
「このまま続けて」と言っているようにも見えた。
父は食卓で「学校はどうだ」と聞くようになった。
心配じゃない。
点検。商品の検品。
それでも――聞かれるだけ、マシだった。
酒の回数が少し減った。
喧嘩が少し減った。
家の空気に、短い“偽物の平穏”が生まれた。
その平穏が怖かった。
もしこれが“正しい姿”なら、今までの俺は何だった?
“それ”がメモに書く。
『ほら。できれば、あの人たちは少し静かになる。』
正しい。
あまりにも正しい。
だからこそ、吐き気がした。




