第七話 借りる
戸の隙間から差し込まれた斧は、音もなく土間に落ちた。
黒い刃。広くて、光を吸うようなヌルリとした色をしている。
ケイは視線を外せな口なった。
囲炉裏の火がぱちと弾け、灰が少し崩れた。
ソウジが無言でケイの肩をつかんでとどめた。
それでもケイの足が半歩出る。
昨日の硬い木、弾かれる刃、痺れる腕が頭に残る。
サトの家の戸、隙間から入る風、冷えた土間。
手が勝手に伸びる。
ソウジが更に強く肩をつかみ、引き戻そうとする。
それでもケイの指先は柄に触れた。
冷たい。
鉄とも木とも違う、ぬるい冷たさが指にまとわりつく。
急に周りの音が戻った。外で鳥が鳴き、火が小さくはぜる。
ケイは柄を握る。軽い。
手に吸い付く。重さを感じないほどの軽さ。
ソウジがケイの手首をつかみ、首をゆっくり左右に振る。
ケイは「斧だ。木を切るだけだ」
そう言いながら、自分の物のように握る。
ケイは外に出た。湿った土の匂い、葉の擦れる音。体が妙に軽い。
ソウジが追ってきて、前をふさぎ顔を左右に振った。
しかし、ケイはソウジをよけて進み、さっきの木の前に立ち、斧を構えた。
一打目からすっと入る。
手応えが軽い。打ち込んだ気がしない。
まるで木の幹を溶かすように斧が入った。
「すげぇ」
二打、三打。苦もなく斧が木の太い幹に吸い込まれる。
腕に負担が来ない。息も乱れない。
ソウジが恐ろしい形相で首を振る。
ケイは止まらない。振るたびに切り込みが進む。
グギギギギと木がきしむ。枝葉がわっさわっさと揺れる。
「下がれ」
ケイは慣れた動きで退く。
木が倒れ、地面が震え、静かになる。
ケイが息を吐く。腕が軽い。
「こんなに早く」
ソウジは切り口を覗く。磨いたような滑らかさだ。
これは切れ過ぎだと思った。
「いいだろぉ」ケイが得意げに笑る
枝を落とす。触れただけでサカサカと落ちる。
そして次の木へ手が伸びる。ケイが止まらない。
ソウジがうなだれて首を振った。
ケイが斧を振るう。二本目が倒れる。息はまだ少しも乱れない。
昼過ぎ、小屋に戻る。切りたての木の青い匂いが二人に漂う。
ケイは斧を壁に立てかけた。
手を離した瞬間、腕が重くなる。さっきまでの軽さが消えてしまった。
「飯にする」ようやくソウジが口を開いた
ケイはうなずき、竹筒の水を飲む。ガブガブ飲む。
握り飯を頬張ったが、味がぼんやりする。
斧を見る。黒い刃は静かだ。
しかし、手の中には、あの感触が残っている。
これがあれば、もっと切れる。もっと稼げる。
サトの家の戸が浮かぶ。もっとしっかりした家屋に建て直せるだろう。
「慣れてるもん」というサトの言い方が、ケイの心に引っかかっていた。
「なあ」ケイが言う。
ソウジは顔を上げない。
「これ、しばらく借りて使う」ケイが、壁煮立てかけた斧を顎で示した
ソウジが食べるのを止めた。
「借りる、か」言葉をなぞる。
「返す気はあるのか?」
ケイは斧を見る。手にした時のあの感触を思い出す。
「返す...」
自分でも曖昧だと思う。ソウジは何も言わず、また食べ始めた。
村へ戻る。
煙の匂い、味噌の匂い、干した大根の匂いが混じる。
サトは裏で薪を細く割っていた。髪が頬に張りついている。
たすきをかけた背中が健気だ。
山から戻って来たケイを見て、
「もう戻ったの」と、微笑んだ
「ああ、早かっただろ」ケイが答えた
サトはうなずくが、視線がケイの持つ黒く光る斧に落ちる。
「その斧、どうしたの?」
「借りた」
「誰に?」
ケイは一瞬黙る。
「古い物だ」
サトはそれ以上聞かなかった。聞くといけない気がしたからだ。
「良く切れるんだ」ケイの方がまた言いだした
「そうなんだ」サトはそっと言葉を返した
ケイが一歩近づく。
サトの足が半歩下がる。顔が熱くなる...自分で気づいた。
ケイの動きが止まる。
「邪魔か」表情が曇った
「違うよ」声が上ずる
サトは首を振った。違うのに、うまく言えない。
ケイは軽く笑う。「ならいい」
薪をひと束持ち上げる。「これ、片づける」
「いいってば」サトが両手を前に上げて首を振る
眉尻を下げ、困った笑顔になる。
「私、できるから」
ケイに頼ってばかりではいけない。迷惑になる...
ケイの手が止まる。
少し間が空く。
「そうか...」薪を置いた。空気が冷える。
サトは目をそらして俯いた。
言いすぎたと思う。でも、頼ったらだめだ。
ケイが背を向けた。
「また明日」
サトは何も言えずにうなずいた、ケイに見てもらえるわけでもなく。
背中が遠ざかる。呼び止めたいが、口が開きかけたが声にならない。
夜。戸の隙間から風が入る。
サトは木の棒を当てる。この秋は夜風が冷たい。
「平気...」声に出す
誰も聞いていない。それでも言う。
外で木を打つ音がする。一定の間隔で止まらない。
サトは耳を澄ました。心がザワザワする。
棒が風でずれて、風がまた入る。サトは直して、床に就く。
木を打つ音がやまない。
村の夜に、遠くから風に乗って聞こえてきた。




