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第六話 刃の誘惑

朝の山をソウジとケイは行く。

昨日よりも急な斜面を登る。湿った土に足を取らる。木の根に手をかけて体を引き上げる。

掌に冷たい泥がつく。


少し開けた場所に出た。

ソウジが一本の木を指した。

「これだ」


幹がまっすぐで、根元が太く枝は少ない。

ケイは斧を構えた。


一打目。

ガツッ、と鈍い音。刃が弾かれる。手元に嫌な振動が返る。

二打、三打。

腕が重い。刃はほとんど入らない。


「硬いな」ケイはどっと息を吐いた

「裏山はこういうのが多い」ソウジは淡々としている


ケイが斧を引き抜いて見ると、刃先が欠けている。

「これじゃだめだ」


ソウジが横目で見る。

「やめとくか?今日は山を降りるか」


ケイは答えず斧を握り直す。柄が手の中で滑る。汗で湿っている。もう一度振る。

同じ音。浅くしか打ち込めない。


歯を食いしばる。

このままでは何もできない。


サトの家の戸が頭に浮かぶ。

隙間から入る風。冷えた土間。寂しい献立...


「もう少し切れればな」

口の中でつぶやいた。


『貸そうか』後ろから声がした


ケイは振り返った。誰もいない。

ソウジは少し離れた場所で木を見ている。


「今、何か言ったか」

「何も言っとらん」ソウジは振り返らない

ケイは周りを見回した。木と土と影だけだ。


『貸そうか』


今度ははっきり聞こえた。背中のすぐ後ろから。


ケイが唾をゴクリと呑んだ。


「誰だ」


言ってしまった。


ソウジが一歩で間を詰める。

「口を開くな」厳しい声。


ケイは黙る。だが...


『よく切れるぞ』


ささやくような声が耳元に届く。

手の中の斧を握る力が強くなる。心臓が早い。


「どこにいる」


『ここだ』


ケイは恐る恐る視線を流した。足元、下生え、木の根元、背後の木立、何かの影...

そこに、何かがある。


黒い塊のようにも、人の形にも見える。

ケイは一歩踏み出した。


「行くな」ソウジの声


だがケイの足は止まらない。


『これだ』


影の中に、刃が見えた。

使い込まれた斧の柄、広い刃。光を吸うような色。


手を伸ばしかける。


「触るな!」ソウジの鋭い声


斧の柄をつかんだと思った瞬間、影が揺れて斧が消えた。

何も無い。ただの木立に戻る。


「今、見ただろ」ケイが荒い息でソウジに問うた

「見ていない。お前も見ていない」ソウジが即座に応じた。

「何も見てない?」

ケイは愕然とした。俺は見た。確かに見た。

だがソウジの言い方は違う。まるで、見なかったことにしろと言っているみたいだ。


風が抜ける。葉が揺れる。普通の山の音が戻る。


「今日はやめる。山を降りるぞ」

「でも」

「やめる」


ケイは自分の斧を見た。欠けた刃。

そして、さっきの刃。広い刃。光を吸うような色...

胸の奥がざわざわする。


小屋に戻る道、二人は口をきかなかった。

足音と枝を踏む音だけが続く。


振り返りそうになるが、振り返らない。

振り返れば、また見える気がした。


小屋に入る。昼の光が板の隙間から入る。中は明るい。

昨夜の気配は無い。


ソウジが斧を置き、砥石に水をかける。

慣れた手つきで斧を研ぐ。

シャッ、シャッ、と音が続く。


ケイも座る。

「爺さま」

「何だ」

「さっきの、あれ」

「無かった」


「でも俺は」ケイはソウジを見やる。

「無かった」硬いソウジの言葉


ケイは口を閉じる。


「見たと思ったら、そこで終わりだ」ソウジは手を止めずにつぶやいた


意味はわからない。だが昨夜と同じだ。薄っすらと感じた。

言葉にすると、近づく。


砥石の音が止まる。

「まだだな」ソウジが刃の角度を定め、さらに研ぎ続ける


ケイは自分の斧を見る。欠けた刃。

この斧では駄目だ。どうしても切れ味が足りない。


『貸そうか』

また聞こえた。


今度は小屋の中で。


ケイは顔を上げる。ソウジも動きを止める。

二人とも戸を見る。


閉まっている。しかし......


『よく切れるぞ』


低い声が小屋の中の空気を震わす。


ケイの喉がゴクリと動いた。

言うな、と、わかっている。それでも口が開きそうになる。


ソウジの手がガッシリと肩をつかむ。

答えるなと、ソウジの手がものを言わずに語る。

ケイは目を閉じる。呼吸を整える。


だが、頭の中では別の声が続く。

あれがあれば。もっと切れる。きっと稼げる。

サトを楽にしてやれる。


ケイは目を開けた。戸を見る。

何も見えない。だが、そこにある気がする。


手を伸ばせば届く距離。


「どれくらい切れる」


言ってしまった。


その瞬間に小屋の中の空気が変わった。

囲炉裏の灰がわずかに舞う。


戸の向こうで、何かが笑ったような気配がした。


ソウジの手が肩を強く押さえる。

だが視線は離れない。


「見せろ」


言葉を出してしまった。


戸の隙間が、わずかに開く。

光が差し込む。


その隙間から、あの斧が差し込まれた。

黒い刃が、ヌルリと光った。

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