第五話 気配
コツ、とまた鳴った。
戸板の向こう。すぐそこに何かがいる。
囲炉裏の火が、ぱち、と弾ける。音がやけに大きく響いた。
ケイは起き上がりかけて、止まった。
さっきソウジに言われた言葉が頭に残っている。
『音のする方には、すぐには行くな』
しかし...
「誰か、いるのか...」思わず口を開いた。
しまった!と思った。
囲炉裏の明かりに浮かぶソウジの顔。そして、ゆっくりと首を振る。
黙れ、という合図だ。
外は静かだ。
風も無い。枝葉の擦れる音も無い。
コツ。
また聞こえた。
今度は、戸の真ん中あたり。
喉が乾く、ケイは焦りを感じた。
いや...声を出さなければいい。それだけだ。
そう思うのに、何か言いたくなる。
「開けるか?」
ソウジが小さく息を吐いた。
「待て」
その一言はとても重かった。
いつもの調子ではない。
ケイは戸を見つめた。
板の隙間は黒く、向こうは見えない。昼間は光が差していた隙間は、今は何もわからない。
コツ。
三度目は、はっきりした。
誰かが、指で叩いているような音だ。
ケイの背中に、じわりと汗がにじんできた。
「人かもしれん」
「人なら声を出す」ソウジがすぐに返す
「でも......」
言いかけて、止まる。
言葉を続けると、何かがそこに入り込んで来るような気がした。
外に人の声は無い。
ただ、戸を叩く。
コツ。
ケイは、息を吸った。
苦しい。何か言ってしまえば楽になる気がする。
「誰だ」声に出してしまった......
その瞬間、囲炉裏の火が一度、ふうっと弱くなった。
ソウジの手が、ケイの腕を強くつかんだ。
「馬鹿」しわがれた厳しい声
外の音が止まる。
しん、と静まった。
ケイは戸を見たまま動けない。
今、何かが変わったような気がする。
しばらく経ったが、何も起きない。
風が無い。虫の音も無い。
ただ、火の音だけが小さく続く。
「今のは忘れろ」ソウジが手を離した
「でも、誰かいたかもしれない」ケイは、訳のわからない畏れにとらわれていた
「いない」ソウジが言い切った
ケイは口を閉じた。
ソウジの顔は、怒っているというより、覚悟を決めた顔だ。
「こういう時はな」ソウジがゆっくりと言う
「相手にするほど寄って来る」
ケイは囲炉裏の火を見た。
薪が崩れて、赤い芯が見える。
「ケイよ、お前はさっき何か言いかけただろ。人かもしれないって。それが一番だめだ」
ソウジは起き出して火をつついた。
「人かもしれん、と思った時点で、もう相手の土俵に入っとる」
ケイはその言葉を飲み込めなかった。
でも、反論は出て来ない。
戸の外に、誰もいないと、そう言い切れるのか?......
夜は深くなった。
火がさらに小さくなる。
起き出して薪を足す。煙が少し上がった。
ケイはまた横になったが、目が冴えていた。
さっきの音が、耳に残っている。
コツ。
あれは、何だったのか。
人なら声を出す。
ソウジはそう言った。
じゃあ、あれは人じゃない。
そう考えた途端、胸の奥が締めつけられるように苦しくなった。
どれくらい時間が過ぎたかわからない。
ふと、目が覚めた。
小屋の中は暗い。火はほとんど消えている。
外の気配も無い。
だが、何かがおかしい。
音が無い。
完全に、何も聞こえない。
ケイは起き上がった。
床が冷たい。
「ソウジ!爺さま!」
呼ぶが返事が無い。
隣を見ると、さっきまで寝ていた場所にソウジがいない。
「どこ行った」
立ち上がって戸を見と、閉まっている。
中を見回す。
道具はそのまま。荷もある。
外に出た気配がない。
「爺さま」
もう一度呼ぶ。
返事は無い。
その時、背後で音がした。
コツ。
ケイは振り向いた。
戸ではない。壁の方だ。
壁板の節目。
そこを、何かが叩いている。
コツ。
ケイは動けなかった。
呼吸が速くなる。
壁の節が、黒く見える。
昼間はただの木目だったのに、今は穴のように見える。
コツ。
その位置が、少しずつ上に移る。
叩いているものが、動いている。
ケイの背中に、冷たい汗が流れた。
声を出すな。
頭の中で、ソウジの声がする。
でも、誰もいない。
今は、自分ひとりだ。
「やめろ!...」
言ってしまった。
その瞬間、音が止まった。
しん、と時が止まった。
ケイは息を殺して壁を見る。
何も起きない。
やがて、外で鳥の声がした。
高い声、長い鳴き声、短いさえずり...
一つ、また一つ。
朝だ。
戸板や板壁の隙間から光が入る。
小屋の中が、まばらに明るくなる。
ケイはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
戸が開く音がした。
「起きとるか」
ソウジだった。
普通の声。
ケイは振り向いた。
「どこ行ってた」
「小便じゃ」何でもないように言う
「外、何もなかったか?」
「何もないぞ」
ケイは言葉を選んだ。
「夜な...また音がした」
「したな」
「戸だけじゃなかった」
ソウジは戸を閉めながら、少しだけこちらを見た。
「何も見てないな」
「見てない」
「ならそれでいい」
それだけ言って、荷をまとめ始める。
ケイは納得できなかった。
「爺さまは、さっきまで外にいたんだろ」
「ああ、そのにおった」
「何もいなかったのか?」
ソウジは答えず斧を手に取った。
「今日は上へ行く」
「行くのか」
「行く」
ケイは黙った。
行くと言われたら、行くしかない。
小屋を出る。朝の空気が冷たい。
土の匂いが戻っている。鳥の声も賑やかだ。
昨夜の静けさが嘘のような空気。
ケイは一度、小屋を振り返った。
板壁の節。
あそこに、何かが触れていた。
「行くぞ」
ソウジが先に歩き出す。
ケイはその背中を追った。
足元の土は、昨日と同じ柔らかさだ。
踏むたびに沈む。
だが、今日は少し違って感じた。
何かが、この山の中で、待っている気がした。




