57 胸が痛むのはだれのせい
「してその娘さん微動だにしないが大丈夫か?」
バートを見続けるフルールの姿勢は崩れない。無表情だがなぜか鼻歌でも歌いそうな雰囲気の中、目だけが体の輪郭を追うように、舐めまわすように、体中をまさぐっている。
そのバートはと見れば、その視線にやられまいとするように踏ん張り、フルールの圧倒的な、気を抉る視線に抗っているように見える。体を支配されてなるものかと。
一方ひとり別次元のリリックは、二人の間に割り込みたい衝動をグッと堪えている。
少し前の自分なら、仕事の一環だと割り切れたはずだ。
それがどうしたということだ。まるで勝手が違う
いつまで続くんだと拳を握りしめ、時が過ぎるのをただ待つ。
どのくらいの時間が過ぎただろう。
フルールの口から、長い息が漏れる。それに合わせたかのように周りの者も息を吐く。
フルールはそのまま誰とも視線を合わせずに、膝に乗せていたスケッチブックただ一点に集中しだした。紙の上をすべる鉛筆の音だけが響く。フルールの腕が大胆に動いたと思ったら、今度は指先だけで細部を描き込む。大胆に、しなやかに、その細い腕を指先を、意のままに操り、みるみると人の姿を浮かび上がらせる。まるで魔法のようだ。そこに浮かんだのは、紛れもないバートの体だった。
気が付けば、部屋の中にいた全員がフルールの後ろへと回り込んでいた。
あまりの速さ、圧倒的な画力、そしてその集中力。
それを目の当たりにして誰も声が出せなかった。
「できました!」
打って変わっての弾んだ声。それが、この場の止まっていた空気を動かした。
ギリアンがフルールの差し出されたスケッチブックを受け取る。
「なんというか。早すぎて理解が追い付かない、というのが正直な感想だ。まるで奇術を見ているかのようだった。お前の言っていた意味がわかった。天恵、か……確かにそう見えるな」
しかし、と口を開きかけ腕を組むとギリアンは思案顔になった。
「見ればみるほどそのままにしておいていいものかどうか……。フルール嬢もう一度聞くが、絵の横に添えてある特徴は、本当に外部に示すものではなく、自分のためのものなのだな?」
「はい。誓って。自分の為だけに書いたものです」
フルールはキッパリと言い切った。
「ん? なにか不都合なものが書かれていたのか?」
見てみろと、ギリアンは開かれたスケッチブックのある個所を示した。
「ああ、なんだ、この個人の特徴か。これは名前がわからない時につけるフルールの癖だ。領地にある絵にも、知らない者の頁には同じようなことが書いてあった。『黒い犬が昼寝する大きな木の近くに住む』とか『パン屋の遠縁』とか。とりあえず個別の認識をするための、まあ、言ってしまえば名前の代りだ」
何でもないことのように言い切る伯爵に、リリックは手で顔を覆い、ギリアンは目をつぶってゆっくりと首を振った。
なんと言うことだ。
二人もなんとなくそうではないかと思ってはいたが、口に出すのは憚られた。本当に情報が外に漏れていないかと確認にとどめるだけで、その真意は流そうと思っていたのだ。
この添え書きの秀逸さが際立ったがために、有事を敷くことの決定打となったというのに、それがまさかの名前代わりだと認めたくはなかった。
他国の諜報員に、個別能力を点数化するためのものだと言われた方がまだ胸が痛まない。
「……りりっくさま、わたくしはまた何かしてしまったのでしょうか?」
この空気にフルールが自分のせいだと思ったのか、しょぼんとしてしまった。
「いや、これはフルールが何かしたわけではないよ」
そう、ただ騎士として胸が痛んだだけ。
己の誇りの問題だ。
まるでわかっていないこの親子に説いたところで、余計心が削られるだけだろう。
フルールの考えがわからないように、こちらの気持ちもまたわからなくて然るべき。
立派な家が建ったから、当然立派な人が住むのかと思いきや、まさかの馬小屋として使われるとは思わなかっただけで、それに腹を立てる者はいない。ただ残念に思うだけ。
せめて、使用人用だといわれれば、羨ましく思うことができたというだけだ。
リリックは落ち込むフルールの頭を優しく撫でた。
「フルールはなにもしていないからそう落ち込むな」
途端にリリックの雰囲気が変わる。誰も見た事のないとろけるような笑みを浮かべて、フルールの頭を抱え込むように撫でている。何に警戒しているのか、外敵から守るようにも見える。
おいこんな男だったか?
ギリアンがマシルに目で訴える。
こんな男も何も、いままでその要素を持ち合わせてなかったのですから、昔培った何かが代用されているのではないでしょうか? 例えば家族愛とか。司令官、もう、退出てもよろしいでしょうか。空気が徐々に甘ったるくなってきたような気がします。
同じく、ギリアンに目で返すマシルは、体がむず痒い。
リリックを異性として見たことはないが、どうしてもその見た目に惑わされるのは持って生まれた性だ。そのうえ上官の色恋など見せられたくはない。
これにあてられたのが他でもないフルールならよかったのだが、残念ながら他だった。当のフルールは「ほんとうに?」と申し訳なさそうな顔でリリックを見上げる。
その顔はマシルからみてもかわいい! と叫びたくなるほどの上目使いで、リリックは戸惑っているようでも顔が真っ赤だ。
その顔はなにやら色気をはらんでいる。
これ、危険じゃない?
これが歩き回るとかある意味で有事だわ。
フルールから離せばリリックの症状は落ち着くのか、はたまた、そのままの状態が続くのか未知数である。




