9.二人の夜の密会
翌夜、時計塔が9時の鐘を打ち鳴らすと同時に、トリスタンの心は激しく乱れていた。
(行ってはダメ……巻き込んでしまうわ)
そう自分に言い聞かせながらも、足は無意識のうちにあの鍛錬場へと向かっていた。彼を危険に晒したくない恐怖と、もう一度だけあの蒼い瞳に見つめられたいという切ない想いが、胸の中で激しくせめぎ合う。
月明かりが照らす中庭。
デイトナは剣を構えたまま、鍛錬の手を止めて待っていた。まるで、彼女が今夜も現れることを確信していたかのように。
トリスタンが柱の影からそっと姿を見せた瞬間、デイトナはゆっくりと剣を収め、静かに歩み寄ってきた。
「……逃げないでくれたのだな」
デイトナの声には威圧感など一切なく、ただ深く優しい響きがあった。
トリスタンは思わず後ずさりしようとしたが、デイトナは一定の距離を保ち、彼女を安心させるようにそっと足を止めた。
「怪しい者だと思って追いかけたわけではない。ただ……毎夜、あんなにも切ない瞳で私を見つめる君が、ずっと気になっていたんだ」
「っ……」
真直ぐな言葉が、トリスタンの胸を熱く突く。
デイトナは不思議そうに、けれど慈しむような眼差しで彼女を見つめた。
「昨夜、君が去ったあとに手すりへ触れた痕跡を探したが、何も残っていなかった。靴音もしない。……君は一体、何者なんだ? なぜ夜の城に一人でいる?」
トリスタンは小さく唇を噛み締め、声にならない声で呟いた。
「……私は、見えてはいけない存在です。あなたに害をなすつもりはありません。だから……私のことは忘れて、二度と関わらないでください」
「忘れることなどできない」
デイトナは即答した。その強い眼差しに、トリスタンは息を呑む。
「君が私に危害を加えないことくらい、見ればわかる。君の瞳には、恐れと……深い孤独しか映っていないからだ」
デイトナはゆっくりと手を伸ばした。
トリスタンは反射的に身をすくめた。人間には触れられない幽霊のような身体。彼の手は虚しく通り抜けるはずだった。
——けれど。
触れた指先から、じんわりとしたあたたかな熱が伝わってきた。
「え……?」
デイトナの大きな手が、トリスタンの頬をそっと包み込んでいた。
通り抜けることもなく、弾かれることもなく。確かに「実体」として、彼の温もりが肌に伝わってくる。
「触れられる……」
デイトナも驚いたように目を見開いた。
「やはり、幻などではない。君はここにいる」
300年もの間、誰の手も届かなかったトリスタンの世界に、初めて他人の温もりが差し込んだ瞬間だった。トリスタンの瞳から、溢れる涙が静かにこぼれ落ちていった。




