10、好意が生んだ奇跡
肌を伝うデイトナの掌のあたたかさに、トリスタンは息を忘れたように固まっていた。
「泣かないでくれ……不躾に触れてしまってすまない」
デイトナは慌てて手を引こうとしたが、そのぬくもりが離れていくことに寂しさを覚えたトリスタンは、思わず自分の小さな手で彼の袖口をそっと掴んでいた。
掴める。しっかりと布地の感覚があり、その下に感じる彼の腕の熱が、震える指先にまで伝わってくる。
「……なぜ……?」
トリスタンは掠れた声で呟いた。
誰の目にも見えず、何にも触れられなかったはずの自分が、なぜ彼にだけは見え、こうして触れ合えるのか。
デイトナもまた、自分の手とトリスタンの顔を交互に見つめ、不思議そうに首をひねった。
「私にも理由は分からない。だが……初めて君が柱の影に立っていた夜から、なぜか気配がはっきりと感じられたんだ。姿が見えないはずの暗闇の中に、透き通るような美しい人が確かにいると……そう確信していた」
デイトナのまっすぐな瞳に見つめられ、トリスタンの頬がぽっと赤く染まる。
(私の……想い……?)
トリスタンは胸元に手を当てた。
300年間、彼女は世界のすべてに心を閉ざしていた。誰も自分に気づかないのが当たり前で、誰も愛することなどないと思っていた。
けれど、夜な夜なこの鍛錬場で真摯に剣を振るうデイトナ姿を見つめるうちに、彼女の心に命の灯火がともったのだ。
『この人に気づいてほしい』
『あたたかな手に触れてみたい』
恋を知らなかった彼女が初めて抱いた、切ないほどの強い好意。
そして同時に、デイトナの側でも、姿なき視線の主に惹かれ、その正体を知りたいと深く願う誠実な想いが芽生えていた。
ふたりの間に生まれた強い引き合いと強い好意が、現実と本の世界を隔てる「見えない境界」を溶かし、彼にだけ彼女を「実体」として認識させる奇跡を起こしたのだ。
「君の手は……こんなにも冷たいのだな」
デイトナは優しく微笑むと、今度は両手でトリスタンの冷え切った小さな手を包み込んだ。
あたたかな熱が、トリスタンの全身へとじんわりと広がっていく。
「私に見えるのが奇跡だと言うのなら、私はその奇跡に感謝したい。もう君を『幽霊』のように一人で彷徨わせたりはしない」
「デイトナ様……」
名前を呼ぶと、デイトナは少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに目元を緩めた。
「名前を知っていてくれたのか」
「はい……いつも、影から見ておりましたので……」
初めて交わす言葉と、手から伝わる確固たる存在感。
300年という果てしない暗闇の中に、一筋の強い光が差し込んだ瞬間だった。
しかし、そのあたたかな時間の中でも、トリスタンの胸の奥には消えない影が残っていた。
時計塔の針は、容赦なく12時へと近づいている。




