11.語られない過去
デイトナの大きな手につつまれた熱が、トリスタンの冷え切った心を少しずつ溶かしていく。
ふたりの間に流れる静かな時間に、トリスタンは夢でも見ているかのような心地だった。
「君のことも……教えてくれないか?」
デイトナが柔らかい声で問いかける。
「君はいつも、どこから来ているんだ? 夜が深くなると現れ、なぜそんなに悲しそうな顔で城を彷徨っている? ……せめて、名前を聞かせてもらってもいいだろうか」
「名前……」
トリスタンは言葉を詰まらせ、胸の奥で激しい葛藤が渦巻いた。
本当の素性を教えられるはずがなかった。
自分が300年前の舞踏会で攫われた初代姫であること。
いまも本の世界に封じられ、強大な魔力を持つ恐ろしい魔法使いバーンに囚われていること。
真実を話せば、真面目で強いデイトナはきっと自分を救おうとしてしまう。
けれど相手は、300年の時を生きる恐ろしい魔術師だ。若く優秀な近衛騎士であっても、バーンの暗黒魔術の前には命の保証などどこにもない。
自分を救うために彼が傷つくくらいなら、何も語らず去るべきだった。
……けれど、彼があたたかな手で包み込んでくれた奇跡を前に、嘘をつくことも、完全に心を閉ざすこともできなかった。
トリスタンはそっと彼の手から自分の手を引き抜き、消え入りそうな声で呟いた。
「……トリスタン。それが……私の名前です」
「トリスタン……」
デイトナはその名を愛おしそうに反芻し、静かに微笑んだ。
「良い名だな。……トリスタン、君が抱えている秘密をすべて話してほしいとは言わない。だが、なぜそこまで誰かを恐れているんだ?」
トリスタンは切なさそうに首を横に振った。
「これ以上は……お話しすることはできません。私に関わってはいけないのです。私は……過去に置き去りにされた存在。これ以上私を知ろうとすれば、デイトナ様に恐ろしい災いが降りかかってしまう……」
「災い?」
デイトナは眉をひそめた。その眼差しに恐れのの色はなく、ただ彼女を案じる強い意志だけが宿っている。
「君が何に怯えているのかは分からない。だが、私は王家を守る近衛騎士団の副団長だ。目の前で怯える女性一人守れずに、何の騎士か」
「ダメです……! 相手は……相手は、人間の力でどうこうできる存在ではないのです……!」
切羽詰まったトリスタンの叫びに、デイトナは息を呑んだ。
彼女の怯えようは尋常ではない。何者かの影が、彼女を深く苦しめているのは明白だった。
その時——ゴーン、ゴーンと、夜の12時を告げる鐘の音が響き始めた。
「あっ……」
トリスタンの身体が、淡い金の粒子を散らしながら急速に透け始めていく。
デイトナの手から熱が離れ、彼女の輪郭が夜の闇へと溶けていく。
「トリスタン……!? 身体が……!」
「お願いです……私を探さないでください。デイトナ様、私を忘れてください……!」
「待ってくれ!」
デイトナが手を伸ばすが、今度はその手が虚しく空を切った。
12時の訪れとともに「実体」が失われ、彼女は再び触れられぬ影へと戻ってしまったのだ。
「さようなら……」
涙を浮かべた最後の呟きを残し、トリスタンは光の粒となって完全に姿を消した。
残された中庭には、風の音だけが空しく響いている。
デイトナは呆然と己の手を見つめ、それから固く拳を握りしめた。
「忘れることなど……できるはずがないだろう、トリスタン」
初めて教えてくれた彼女の名前。そして彼女を縛りつける「恐怖」の正体。
デイトナの蒼い瞳に、強い決意の火が灯っていた。




