8.届いた声
「そこに、誰かいるのか?」
デイトナの言葉が、夜の静寂の中にくっきりと響き渡った。
トリスタンは息を呑み、足がすくんで動けなくなった。
デイトナの澄んだ蒼い瞳は、惑うことなく彼女の姿を捉えている。ただ気配を感じ取っているのではない。彼女の輪郭、黒髪、震える瞳のすべてを、確かに「見て」いる眼差しだった。
(なぜ……? 人間には見えないはずなのに……!)
300年間、城を巡回する警備の兵士も、夜更かしをする侍女たちも、誰一人として彼女に気づく者はいなかった。自分は本の世界から抜け出した、光の粒のような影に過ぎないはずなのだ。
デイトナはゆっくりと剣を鞘に納めると、怪しむ風でもなく、どこか不思議そうにトリスタンを見つめた。
「毎夜、あそこの柱の陰から私を見ていたのだろう。……違っているか?」
「っ……あ……」
声が出ない。
300年もの間、誰とも言葉を交わすことのなかった喉が、震えるような音しか紡ぎ出せない。
声が届いたことに、トリスタン自身が一番驚いていた。
自分の存在が彼に認識されている。声が届いている。その事実が恐ろしくもあり、同時に胸を締め付けるほど愛おしかった。
しかし、次の瞬間、頭の中にバーンの冷酷な顔が浮かんだ。
『お前を救う者など、この世のどこにも存在しないのだ』
(ダメ……この人を巻き込んではいけないわ。バーンに気づかれたら、この人は殺されてしまう……!)
恐ろしさが愛おしさを塗りつぶした。
トリスタンは青ざめた顔で小さく首を振ると、デイトナから弾かれたように背を向けた。
「待ってくれ!」
デイトナが伸ばした手が空を切る。
トリスタンは音もなく石畳の上を滑るように駆け出し、月光の届かない城の暗がりへと逃げ込んだ。
「待ちなさい!」
デイトナの足音が後ろから追いかけてくる。騎士としての俊敏な足取り。けれど、実体を持たないトリスタンの足は、風のように廊下を吹き抜けていく。
曲がり角を幾つもすり抜け、姿を完全に闇に溶かした頃、追撃の足音は遠ざかっていった。
柱の陰に身を潜めたトリスタンは、激しく上下する胸を押さえた。
胸の奥で、かつてないほどの感情が渦巻いている。
(私が見えていた……私に話しかけてくれた……)
驚きと恐怖、そしてそれを遥かに上回る切ない歓び。
涙が頬を伝い、夜の風に溶けて消えていく。
デイトナに自分が見えている理由はわからない。けれど、もう二度と彼に近づいてはいけないと、トリスタンは自分に言い聞かせた。
……そう心に誓ったはずなのに、彼女の胸は、彼に名前を呼んでもらえた奇跡に、震え続けていた。




