6. 初めて知る胸の痛みに
夜の9時を告げる鐘が鳴ると、トリスタンの足は自然とあの中庭へと向かうようになっていた。
あの日以来、彼女の夜の散歩の目的地はひとつしかなかった。
暗い廊下を通り抜け、月光が降り注ぐ鍛錬場の柱の陰へ。そこに佇めば、今夜も変わらず剣を振るうデイトナの姿があった。
「はっ……ふぅ……!」
デイトナの刃が描く白銀の軌跡。
一閃、また一閃。彼の振るう剣は、夜空を切り裂く流星のように美しく、そして切ないほどに真摯だった。
トリスタンは柱にそっと寄りかかり、胸の上に両手を重ねた。
ドクン、ドクン、と鼓動が早打ちしている。
本の中に閉じ込められてから300年。心臓などとっくに止まってしまったかのように冷めきっていた彼女の胸の奥が、今や焼けつくように熱い。
(これが……誰かを想うということなの……?)
18歳で時を止められたトリスタンは、恋を知らなかった。
300年前に贈られた無数の薔薇も、詩人たちが捧げた愛の言葉も、彼女の心を動かすことはなかった。ただ恐ろしく、ただ誇らしげに自分を飾るための道具にされているようで、心を閉ざしていたのだ。
だが、デイトナへの想いは違った。
見返りを求めるでもなく、言葉を交わしたわけでもない。
ただ、彼の真直ぐな生き様と佇まいに触れ、胸が押しつぶされそうになる。
(届かない……私の声も、姿も、熱も)
切ない痛みがこみ上げてくる。
300年間、自分が「見えない存在」であることに疑問も絶望も抱かなくなっていた。諦めていたのだ。自分は歴史の陰に消えた存在なのだと。
けれど、いまは違う。
触れたい。
あたたかなその手に触れてみたい。
「こんばんは」と、微笑みかけてみたい。
自分の名前を、彼の心地よい声で呼んでほしい。
叶うはずのない望みが胸の中で膨らみ、トリスタンの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。涙は床に落ちる前に粒子となって、夜の風に消えていく。
「……あ」
時計塔の鐘が、悲しく12時を告げ始めた。
3時間の儚い奇跡が終わる時間だ。
トリスタンの身体が淡い金色の光に包まれ、少しずつ透明になっていく。
彼女は消えゆく意識の中で、最後までデイトナの姿を目に焼き付けようと見つめ続けた。
(また明日……明日も、あなたに会いに来ます)
本の世界の、あの冷たく暗い塔へ引き戻されながら、トリスタンは初めて自分の運命に抗いたいと強く願っていた。




