5. 鍛錬場の影
シュッ、シュッ――
月明かりだけが照らす静寂の中庭に、幾度も空気を引き裂く鋭い風切り音が響く。
トリスタンは柱の陰から、じっとその姿を見つめていた。
剣を振るう若き男――デイトナ。
若くして王家近衛騎士団の副団長へと上り詰めた彼は、城内でも「氷の副団長」と噂される実力派だった。
「ふぅ……」
短い吐息とともに、デイトナがぴたりと剣を止める。
額から一筋の汗が顎を伝い、首元へと落ちていく。彼の身のこなしには一切の無駄がなく、流れるような美しさがあった。
トリスタンは、300年間一度も感じたことのない高鳴りを胸に覚えていた。
これまで見てきた貴族や騎士たちは、誰もが身分や手柄、己の欲望のために動いていた。300年前に彼女を攫った魔法使いバーンもそうだ。「自分を愛せ」と押し付けてくるばかりで、そこに純粋な心など存在しなかった。
けれど、いま目の前にいる青年は違う。
誰に見せるためでもなく、ただ己の誇りと責務を全うするために、人知れず夜の闇の中で努力を重ねている。その愚直なまでの誠実さが、佇まいから溢れ出ていた。
(こんなにも……澄んだ剣を振るう人がいるなんて)
トリスタンは思わず、柱の陰から一歩前へ踏み出していた。
どうせ自分は、誰の目にも見えない幽霊のような存在だ。どれだけ近くに寄っても、気づかれるはずもない。
彼女は音もなく石畳を踏み、デイトナの数歩手前まで近づいた。
月光に照らされた彼の横顔を間近で見上げる。
薄い唇、すっと通った鼻筋、そしてどこまでも深く澄んだ瞳。
デイトナがふと手に持った剣を鞘へと納める。カチリ、と硬質な音が夜の空気に溶けた。
「……ッ」
その瞬間、トリスタンの胸が激しく締め付けられた。
触れられる距離にいるのに、触れられない。
話しかけられる距離にいるのに、声は届かない。
幽霊のように浮遊する自分と、たしかに命を燃やして生きている彼。
これまで「見えない存在」であることに諦めを感じていたトリスタンだったが、初めて——『この人に気づいてほしい』という、叶うはずのない強い願いが胸の奥底から芽生え始めていた。
デイトナは大きく息を整えると、汗を拭い、再び剣の柄に手をかけた。
(明日も……彼はここに来るかしら)
気づけばトリスタンは、残り少なくなった現実世界での時間を惜しむように、彼が剣を振り終えるその瞬間まで、食い入るように視線を注ぎ続けていた。




