4. 深夜の王城を歩く
ゴーン、ゴーン、ゴーン——。
夜の9時を告げる鐘の音が、城下に重く響き渡る。
本の世界の地下祭壇でバーンが深い眠りにつくのと同時に、トリスタンの意識は現実の世界へと引っ張り出された。
ふっと浮遊感を覚えた瞬間、彼女は王家図書館の暗がりの中に立っていた。
そっと自分の足元を見る。300年前と変わらぬ大理石の床。だが、踏みしめても靴音ひとつ鳴らない。人々の目には見えず、手で何かに触れることもできない、真夜中だけの不確かな存在。
「……ふう」
トリスタンは静かに息を吐き出すと、図書館の重厚な扉をすり抜けた。
夜の王城は静まり返っていた。
時折、見張り巡回中の騎士たちが甲冑の音を響かせて通り過ぎる。トリスタンはその横をすり抜けるが、彼らが彼女に気づく様子は一切ない。一瞬、冷たい風が通り抜けたかのように首を傾げるだけだ。
幽霊のように壁をすり抜け、廊下を歩く。
この300年間の夜の散歩で、トリスタンは城のあらゆる場所の変化を見てきた。
かつて父と母が暮らしていた玉座の間は、より絢爛豪華な装飾へと変わっていた。
自分がかつて使っていた小さな庭園は、今では新しい王妃の薔薇園になっている。
300年という月日は、彼女の記憶にある「我が家」を少しずつ、けれど確実に塗り替えてしまっていた。
(知っているものが、どんどん無くなっていく……)
寂しさが胸を締め付ける。
自分が生きていた証など、あの図書館の禁書棚に眠る一冊の本の中にしか残っていないのだ。
トリスタンは何かに引き寄せられるように、城の西側に位置する中庭へと足を向けた。
そこは城内でも特に日当たりが悪く、夜になれば月光だけが頼りの静かな場所だった。
昼間はめったに人が訪れないその中庭から、微かに「シュッ、シュッ」と空気を切り裂くような音が聞こえてくる。
(こんな夜遅くに、誰かしら……?)
トリスタンは好奇心に背中を押され、大理石の柱の影からそっと中庭を覗き込んだ。
月明かりが照らす石畳の上で、ひとりの若い男が汗を流しながら愚直に剣を振るっていた。
白銀の甲冑を脱ぎ捨て、薄手のアッシュグレーの訓練着に身を包んだ男。その鋭い素振りのたびに、鍛え上げられたしなやかな筋肉が動き、飛び散る汗が月光に反射してキラリと光っていた。
トリスタンは息を呑んだ。
騎士たちの巡回や訓練は何度も見たことがあったが、誰もいないこんな真夜中に、ただ一人で黙々と刃を研ぐように剣に向き合う者など見たことがなかった。
男の真剣な横顔、一切の隙もない引き締まった立ち姿、そして何より——その瞳に宿る、どこまでも澄んだまっすぐな光。
(……綺麗な目)
人知れず佇む幽霊のようなトリスタンは、柱の陰からただじっと、その剣士の姿を見つめていた。




