2. 拒絶の雷光
鐘の音が夜の終わりを告げ、12時を回る。
現実の世界で漂っていたトリスタンの身体が粒子となって崩れ、強制的に引き戻されたのは——陽の光も届かない、果てしない闇に包まれた本の世界だった。
そこは、魔法使いバーンが己の魔力で創り出した歪んだ空間。
その中央にそびえ立つ黒真珠のような塔の最上階、重々しい鉄格子に囲まれた部屋がトリスタンの囚われの自室だった。
「……はぁ」
トリスタンは豪奢だが冷たいベッドに深く腰掛け、そっと溜息をついた。
現実世界での儚い3時間の自由は終わり、また長く息苦しい「昼」が始まる。
軋む音を立てて、部屋の重厚な扉が開かれた。
現れたのは、漆黒のローブを纏った男——300年前に王家の筆頭魔術師であり、トリスタンの時を止めた元凶、バーンだった。
40代の落ち着いた容姿、鋭い眼光と彫りの深い顔立ち。だがその瞳の奥には、濁った執着と狂気の火が絶えず揺らめいている。
「おはよう、トリスタン。今日も美しいな」
バーンは手に持っていた銀のトレイをテーブルに置いた。そこには色鮮やかな果物や焼きたてのパンが並んでいるが、トリスタンは一切視線を向けない。
「……用がないのなら、出ていってください」
淡々とした、拒絶の籠もった声。
バーンは苛立ちを隠そうともせず、歪んだ笑みを浮かべてトリスタンの元へと歩み寄った。
「相変わらず冷たい言い様だな。だが、私は気にしていないよ。100年待とうが、200年待とうが、私が手に入れたいのはお前の心だ。どれだけの年月がかかろうと、私には無限の時間がある」
バーンは手を伸ばし、トリスタンの白く細い頬に触れようとした。
「諦めろ、トリスタン。この世界には私とお前しかいない。早く私に心を開くんだ」
その指先がトリスタンの肌に触れようとした、まさにその瞬間——。
――バリバリッ!
激しい青白い雷撃がトリスタンの身体から弾け飛んだ。
「ぐ……っ!?」
空気を引き裂くような衝撃音が響き、バーンの手は激しい電気に撃ち抜かれ、彼は数歩後ろへと大きく弾き飛ばされた。
焦げたローブの袖口から煙が立ち上り、バーンは苦痛に顔を歪ませて自分の手を見つめる。
「くっ……相変わらず忌々しい『王家の加護』め……!」
トリスタンは微動だにせず、ただ静かにバーンを見下ろしていた。
王家の血筋に生まれながらに宿る、絶対なる守護の力。
——『心が拒絶する者が触れようとすれば、いかなる魔力をも弾く雷撃となる』。
300年もの間、バーンはこの力ゆえに、トリスタンの指先一本にすらまともに触れることができずにいた。
「一生二人きりなのだから、早く自分に心を開けと……何度言えばわかるのだ!」
怒りに打ち震えるバーンが声を荒らげる。かつて王家の知宝とまで称えられた男の面影はなく、そこにあるのは思い通りにならない玩具を前に暴れる愚かな男の姿だった。
「お前の身寄りも、国すらも、300年の時の彼方に消えた! お前を救う者など、この世のどこにも存在しないのだぞ! お前を愛しているのは私だけだ!」
バーンの叫びが部屋に空しく響き渡る。
トリスタンは静かに胸元で手を組み、澄んだ瞳でバーンを見つめ返した。
「……私の心は、誰のものにもなりません。どれほど時が流れても、あなたを拒絶し続けます」
「ぬぬ……っ!」
バーンは悔しそうに歯噛みし、乱暴に足音を立てて部屋を去っていった。重い鍵が閉められる音が空しく響く。
一人残された静寂の中で、トリスタンは小さく肩を落とした。
言葉では毅然と振る舞ったものの、胸の奥には冷たい孤独が深く深く沈んでいた。
(……助けなど、来るはずがないわ)
王家も、家族も、友人たちも、誰もが300年前に去ってしまった。
この本の世界で死ぬことも叶わず、永遠の時を一人で耐え続けるしかない。
トリスタンは窓の外の、星のない暗い空を見上げた。
現実の世界へ逃げ出せる、次の「夜9時」をただひたすらに待ちながら。




