1. 300年目の誕生日
王家図書館の深奥、めったに人が足を踏み入れない禁書棚の片隅に、重厚な革表紙の古書が眠っている。
そこに刻まれた題名は——『魔法使いと囚われの姫』。
時計塔の鐘が、夜の9時を告げる重々しい音を響かせた。
静まり返った図書館の暗闇の中、古書から淡い金色の光が溢れ出す。光は粒子となって空気中を漂い、やがてひとりの少女の姿を結んだ。
澄んだ大きな瞳、夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪。
トリスタンは、ゆっくりと自分の指先を見つめた。
少し透けて見えるような、頼りない手。床を踏みしめても足音ひとつ聞こえない。
(……今日も、この時間が来たのね)
トリスタンは小さく息を吐いた。
夜9時から12時までの3時間。
魔法使いバーンの魔力が底をつき、彼が本の世界の祭壇で眠りにつくこの時間だけが、彼女が現実の世界へ抜け出せる唯一の「自由」だった。
壁に掛けられた姿見の鏡に寄り添う。だが、鏡の中に彼女の姿は映らない。
人々の目には見えず、声も届かず、物にも触れられない。まるで王城を彷徨う幽霊のような存在。それが、今のトリスタンの真実だった。
トリスタンは遠い目をして、誰もいない暗い図書室を見渡した。
300年前の今日——彼女の18歳の誕生日。
国中が彼女のお祝いに沸き、婿選びの豪華な舞踏会が開かれていた。
数多の貴族や騎士たちが彼女に花を贈り、未来の王配になろうと躍起になっていたあの日。
王家に仕える筆頭魔術師であったバーンが、突然牙を剥いたのだ。
恐ろしい暗黒の魔術が舞踏会場を包み込み、悲鳴と混沌の中で、トリスタンは彼の手によってこの本の中へと攫われた。
『トリスタン様、恐れることはありません。貴女はこれから一生、私だけのものです』
耳元で囁かれたバーンの冷たい声、狂気に満ちた眼差し。
あの日から、トリスタンの時間は止まったままだ。18歳の姿のまま、愛を知ることも、外の世界の温もりを知ることもなく、300年という果てしない月日が流れてしまった。
「もう……300年も経ってしまったのね」
声に出してみても、その音は誰の耳にも届くことなく空気の中に消えていく。
王城の飾りや配置は、300年の間にすっかり様変わりしていた。当時の面影を残すものなど、この図書館の古い匂いと、自分を閉じ込めているこの本くらいのものだ。
半ば諦めたように、トリスタンは力なく微笑んだ。
自分を探していた父上も母上も、もうとっくにこの世にはいない。自分がかつて生きていた世界には、もう誰も自分を知る人はいないのだ。
(どこに行っても、私は一人……)
それでも、本の世界の重苦しい塔の中に閉じ込められているよりは、誰もいない夜の城を歩く方がずっと息ができた。
トリスタンはふわりと体を浮かべるようにして、静まり返った図書室の扉をすり抜け、月光が差し込む廊下へと踏み出していった。




