13.ささやかな誓い
夜9時の鐘が響き渡り、現実の世界へ戻ってることができたトリスタンは、胸を押さえたまま王家図書館の暗がりに立っていた。
(昨日、さよならと言って逃げてしまったし…一目だけでも…。いえ、ダメよ。)
そう心に言い聞かせながらも、彼女の足は抗えない引力に引き寄せられるように、いつもの西の中庭へと向かっていた。
恐ろしい災いからデイトナを遠ざけたい想いと、もう一度だけ彼の声を聞きたいという切ない願い。二つの感情が胸の中で激しくぶつかり合っていた。
暗がりからそっと覗いた中庭。
そこには、今夜も剣を構えて佇むデイトナの姿があった。彼は鍛錬をするわけでもなく、まっすぐにトリスタンが現れる柱の陰を見つめて待っていたのだ。
トリスタンが姿を見せた瞬間、デイトナの蒼い瞳に柔らかな安堵の光が宿った。
「……来てくれたのだね、トリスタン」
デイトナは彼女を脅かさないよう、ゆっくりと歩み寄ってきた。
トリスタンは後ずさりしようとしたが、デイトナのどこまでも穏やかで真摯な眼差しに射抜かれ、その場に足が縫い付けられてしまった。
「デイトナ様……なぜ、待っておられたのですか? 私を忘れなさいと、あれほど……」
「忘れられるはずがないだろう」
デイトナは彼女の数歩手前で足を止め、優しく微笑んだ。
「君が私を巻き込むまいと必死に庇ってくれていることくらい、私にもわかる。君の優しさに救われながら、知らん顔をして忘れることなど、騎士としても一人の男としてもできない」
「ですが……!」
「分かっている。君の秘密を無理に暴こうとはしないよ」
デイトナは静かに首を振ると、地面に腰を下ろし、自分の隣の石畳をトン、と優しく叩いた。
「君が話したくなるまでは、何も聞かない。だから……せめてこの3時間だけでも、君に穏やかな時間を過ごしてほしいんだ」
その言葉に、トリスタンは息を呑んだ。
警戒し、恐れていた自分が恥ずかしくなるほど、彼の気遣いは温かかった。
トリスタンは戸惑いながらも、デイトナの隣へと腰を下ろした。
すっと触れ合った肩から、デイトナのあたたかな体温がじんわりと伝わってくる。
「……何を話せばいいか分からないな」
デイトナは少し照れたように苦笑すると、夜空を見上げながらぽつりぽつりと話し始めた。
「では、昼間の城の出来事でも話そうか。今日、遠征から戻った騎士団の仲間が珍しい土産を持ってきてな……」
デイトナが語る城の日常、騎士たちの笑い話、庭園に咲いた新しい花の話。
それは、300年の間、暗く冷たい塔に閉じ込められていたトリスタンにとって、どれも眩しく、愛おしい外の世界の風だった。
「ふふっ……そんなことがあったのですか」
トリスタンの唇から、小さな輪を描くように可憐な微笑みがこぼれ落ちた。
300年間、一度も浮かべることがなかった、本当の笑顔だった。
デイトナはその笑顔に見惚れるように目を見張り、それから嬉しそうに目を細めた。
「……やっと、笑ってくれたね」
「え……?」
「君の笑顔が見たかったんだ。……トリスタン、私は誓うよ。君がどんな暗闇に囚われていようと、私はいつだって君の味方だ」
まっすぐな瞳で告げられたささやかな誓い。
トリスタンの胸の奥で、氷のように固まっていた300年ぶんの孤独が、あたたかな涙となって溶け出していくのを確かに感じていた。




