↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルネスト(仮)  作者: 腐った生ゴミ
7/8

6話

第六話 懐かしい匂い


 ヨハンに木彫りの鳥を渡してから何日かが過ぎた。昨日は深い眠りで一日をほとんど寝台で過ごしたが、今朝は手足が動く。


 庭の隅では、朝から木片の触れ合う音がしていた。


 エルネストは膝の上に木箱を載せ、二枚の薄い板を交互に差し込んでいる。片方を立てるともう片方が倒れ、二枚を組み合わせようとすれば今度は蓋につかえてしまう。


「……もう少し短い方がいい」


 印をつけて、板を取り出す。父ちゃんの仕事場で削ってもらおう。そう思ったところで、道の向こうから聞き慣れない音が届いた。


 がらがらと木が鳴り、時折、硬いものが地面を打つ。馬の蹄の音まで混じっている。


 エルネストが門の方を向くと、鍛冶場からグレタが顔を出した。


「マティアスが戻ったみたいだな。塩を受け取りに行くが、エルも来るかい?」


「行く」


「父ちゃんも広場に寄るそうだ。離れて歩くんじゃないよ」


「うん」


 木箱を置いて立ち上がる。けれど、さっきの音がもう一度聞こえると、気になって箱を抱え直した。


「それも持っていくのかい?」


「うん」


「荷物を入れるつもりか?」


「……分かんない」


 グレタが笑った。エルネストは箱の蓋を確かめ、母ちゃんの後を追って家を出た。


     ◇


 村の広場には二台の荷車が止まっていた。


 積まれた袋や木箱の周りを大人たちが行き来し、受け取った荷をそれぞれの家へ運んでいるようだ。馬が鼻を鳴らすと、繋いだ革具がきしむ。乾ききらない車輪には泥が張りつき、木の縁を覆う鉄の帯が所々で光っている。


「あ、エル!」


 リリーが見つけて手を振った。隣には杖を持った女の人がいる。リリーの母親、アニエスだ。


「お母さん、帰ってきたの!」


「お帰り」


「ありがとう。エルネストも大きくなったわね」


 アニエスは屈んで目線を合わせてくれた。腰の杖には小さな石がはまっている。


「それ、魔法の?」


「ええ。でも今日は荷下ろしの邪魔になるから使わないわよ」


「……うん」


 残念だったが、エルネストの目はすぐに荷車へ戻った。


 荷車の片側で、ルーカスが車輪に手を伸ばしている。


「すげえ! 俺よりでかい!」


「ルーカス、そこへ指を入れない!」


 荷台の上から男の声が飛んだ。リリーの父親、マティアスだ。ルーカスが慌てて手を引っ込めると、マティアスは袋を抱えたまま笑った。


「今から少し動かすんだ。車輪のそばは危ないぞ」


「動くの!?」


「馬をつなぎ直すだけだよ」


 マティアスが手綱を取る。馬がゆっくり進むと、大きな車輪が回り始めた。


 そのまま広場の端まで行こうとして、車輪の片方が石の出っ張りを踏んだ。


 がたん、と荷車が跳ねる。


 荷台の袋が揺れ、積んであった木箱が隣の箱にぶつかった。マティアスがすぐに馬を止めて縄が緩んでいないか確かめる。


「まったく。この道は何度通ってもひどいな」


 エルネストは荷台ではなく、車輪を見ていた。


 丸い輪はもう地面に落ち着いている。それなのに、上の荷物はまだわずかに揺れている。


 車輪が石を越えた。荷台まで跳ねたのは、車軸と荷台がほとんど一緒に動くからだ。


「……何もついてない」


 エルネストは木箱を抱えたまましゃがんだ。


 車輪の真ん中には太い木の部分があり、その奥へ一本の軸が延びている。反対側の車輪までつながった軸を、荷台の下の木組みが受け止めていた。車輪は軸の端で回っているが、荷台を支えるところに揺れを逃がす仕組みは見えない。


 地面の凹凸を拾うたび、下から上へ衝撃が伝わる。


 どうしてだろう。


 車輪と荷台の間に、衝撃を受け止める仕組みがあってもいいはずなのに。


 いや、あってもいい、ではない。エルネストの知っている馬車には、そういうものがあった。


薄い金属を重ねてしならせるもの。巻いた金属が縮んで戻るもの。空気や液体の圧力を利用するもの。磁力で車体を浮かせるもの。魔法で衝撃を吸収するものや、魔術によって車体そのものを宙に浮かせるものまで。


思い浮かぶ仕組みはいくつもある。けれど、目の前の荷車には、そのどれも見当たらなかった。


「エル、そこで何してる?」


 声の方を向くと、ヨハンが金具の包みを持って立っていた。


「父ちゃん、こっち」


「車輪か」


「これ、回るでしょ」


「ああ」


「でも、ここは動かない」


 車輪の中心から荷台へと、順番に指を向ける。ヨハンも膝を折り、息子が見ている場所を確かめた。


「車軸を支えてるところだな」


「この間に、何もないの?」


「木で留めてある。外れたら困るからな」


「そうじゃなくて……」


 エルネストは言葉を探した。


 車輪が跳ねても、荷台まで同じだけ跳ねる必要はない。曲がって元へ戻る金属、それを組み込む位置、揺れを収めるための仕組みまで、頭にはある。


 見慣れた構造なのに、今の言葉で父ちゃんへ伝えようとすると、名前が見つからない。


 エルネストは空いている手を上下させた。


「下が、がたんってなっても、上は、こう……」


 途中で手を止め、掌だけゆっくり動かす。


 ヨハンはエルネストの手と荷車を見比べた。


「車輪と荷台の動きを、分けたいのか?」


「うん! そういうの、ないの?」


「ないのかって……」


 ヨハンは改めて荷台の下を覗き込んだ。


「少なくとも、俺が直してきた荷車にはないな」


「どうして?」


「どうしてと言われてもなぁ」


 ヨハンは少し考え、車軸の上を手の甲で軽く叩いた。


「ここは荷の重さを受けるところだ。何か挟んで動くようにしたとしても、柔らかいだけじゃ潰れるぞ」


「……重いから?」


「そうだ。しかも道の上で何度も揺さぶられる」


 エルネストは車輪の鉄の縁を見た。ぶつかった跡がいくつもあり、木の部分には細かな傷がついている。


「父ちゃん、これ作ったことある?」


「車輪そのものはな。荷車丸ごとなら修理の方が多い」


「壊れる?」


「そりゃ壊れるさ。だから直す」


「どこが?」


「多いのは車輪の傷みや車軸のがたつきだな」


 ヨハンが軸の端を指そうとしたところで、マティアスが荷台から顔を出した。


「ヨハン、そこ、また具合が悪そうか?」


「いや。エルが気にしてるだけだ」


「なんだ、エルネスト君か! 大きくなったなぁ」


「会ったことある?」


「覚えてないか……。前はずっと小さかったからなぁ」


 マティアスは笑いながら荷台を下りてくる。


「どうした? 乗ってみたいのか?」


「ううん。揺れるの」


「そりゃ揺れるよ。道が悪いからな。割れやすい荷を積むときなんか、布や藁で包んでも気が抜けない」


「揺れない馬車はないの?」


「揺れない馬車?」


 マティアスが目を瞬かせた。


「そんなのがあったら、俺も乗ってみたいなぁ」


「ないの?」


「少なくとも、俺の荷車はご覧のとおりだよ。立派なお屋敷の馬車なら、何か工夫してあるのかもしれないけどね」


 エルネストは荷台の下をもう一度見た。


「……揺れなかったら、包まなくてもいい?」


「それなら助かるけど、荷車が荷車じゃなくなっちまうんじゃないか?」


「どうして?」


「どうしてって……」


 マティアスが困っていると、ヨハンが小さく笑った。


「エル。今は荷車を直す仕事じゃないぞ」


「……うん」


「そんなに気になるなら、帰ってから見てみるか」


「何を?」


「うちにも古い車軸がある。壊れたやつだがな」


「見たい!」


「なら、荷下ろしが終わってからだ」


 エルネストは頷いた。


     ◇


 荷下ろしが始まると、広場はいっそう賑やかになった。


 塩、針、糸、工具の金具。それぞれの荷には受取人が決まっている。マティアスは袋を持ち上げては名前を呼び、頼んだ者に渡していった。


「エルネスト君。この包みをあっちへ持っていってくれるかい?」


 渡されたのは軽い布包みだ。


「大きいのも持てるよ」


「知ってる、知ってる。でも、こっちを先に頼むよ。行き先を間違えられると困るからね」


「どこ?」


「ほら、アニエスがいるところ。隣の木箱だ」


 エルネストが頷いて運び始めると、荷車の向こうからルーカスの声がした。


「俺も持つ!」


「じゃあ、そっちの空の袋を頼む!」


「もっと重いの!」


「なら袋を三つ!」


「よし!」


 得意そうに抱えた袋を一つ落とし、リリーに叱られている。


 エルネストは包みを置くと、また荷車の方を見た。止まっている車輪には、人が近づいても何も起こらない。ただ大きく、丸く、荷台を支えている。


 車軸の下をもう一度確かめていると、荷の隙間から乾いた香りが流れてきた。


 木でも土でも、鍛冶場の炭でもない。鼻の奥をつんと刺激する、覚えのある匂いだった。


 鍋を覗く幼い息子。笑う妻。最後に手を握ってくれた、白髪の息子。生まれてから老いるまでを生きた、あの家族の匂いだ。


 エルネストはしばらく動かず、風がもう一度吹くのを待った。


「……エル?」


 隣に来たアールハイドが顔を覗き込む。


「大丈夫? いつもの夢?」


「今は見てない」


「そうなんだ」


 アールハイドはそれ以上聞かず、エルネストの視線の先を追った。


「何か匂いがするね」


「うん。知ってる匂い」


「食べ物?」


「うん」


 エルネストは小さく頷いた。


 マティアスが二人の様子に気づき、袋をひとつ手に取る。


「これか? 南の方から来る香辛料だよ」


 口を開いて見せると、中には黒い粒がいくつも入っていた。


「何ていうの?」


 名前を聞いても、覚えている呼び方とは違う。口の中でその名を確かめようとして、エルネストはやめた。


「夢で食べたことがある」


「エルネスト君の夢かい? どんな料理だった?」


「肉とか、煮たもの。……いっぱい」


「へえ。便利な夢だなぁ」


 エルネストの指が、抱えていた木箱の名札をなぞった。


「……便利じゃないよ」


 マティアスは目を瞬かせ、それから袋の口を結び直した。


「そうか。悪いことを言ったな」


 別の荷を呼ぶ声がして、彼は荷車の方へ戻っていく。


 アールハイドは一緒に袋を見送ってから、隣の木箱へ腰を下ろした。


「いい夢だった?」


「うん」


「なら、よかった」


「……もう会えないけど」


「誰に?」


「家族」


 アールハイドはエルネストを見た。少し口を開きかけたが、何も言わず、隣の空いたところを手で叩いて座るよう促す。


 エルネストもそこへ腰を下ろす。


 少し離れたところで、ルーカスがリリーに叱られている。どちらの声もよく聞こえた。


     ◇


 昼を過ぎた頃、荷物はだいぶ減っていた。


 ヨハンがマティアスから小さな金具を受け取り、袋の中を確かめている。グレタは先に塩を持って家へ戻り、残りの荷はヨハンが運ぶことになったらしい。


 エルネストはヨハンのそばで、もう一度車輪を眺めた。


 荷台が軽くなったせいか、マティアスが車を少し押すと、さっきより滑らかに動く。それでも車輪が石を踏めば、荷台の板ががたんと音を立てた。


「……同じだ」


「何が?」


 アールハイドが隣にしゃがむ。


「荷物が減っても、上が揺れる」


「そりゃ、車輪が石に乗るからじゃない?」


「うん。でも、ここが動けば違うのに」


 エルネストは軸を指してから、荷台を指した。さらに、その間へ掌を差し込もうとして、ヨハンに袖をつままれる。


「動くところへ手を入れるな。見るだけにしろ」


「……うん」


「そこへ何か挟むつもりか?」


「そう。下が動いても、上はあんまり動かないの」


 ヨハンは手を離し、車軸から荷台へつながる木組みを眺めた。


「随分難しいことを言うな。何を挟むんだ?」


「……」


 答えは幾つも浮かんでいる。


 薄く鍛えた鋼を曲げたもの。巻いて弾ませるもの。揺れを抑えるために動きを鈍らせるもの。反発する力によって支えるもの。魔術により浮かせているもの。


 組み方も、寸法を決める手順も知っている。


 けれど、そのどれを口にしても、父ちゃんに伝わる言葉にはならなかった。


 エルネストは地面へしゃがみ、落ちていた小枝で丸を二つ描いた。その間に一本線を引き、上に四角を置く。線と四角の間へ、少し曲がった線を足してみた。


「ここが……こう」


 曲がった線を指で押さえ、少し下へ動かす。


「押したら縮んで、離したら戻るの」


 ヨハンは地面の図を見てから、エルネストの手にある小枝を見た。


「なるほど。車輪が跳ねた分を、そこで受けるわけか」


「うん」


「だが、それじゃ荷台をどう支える?」


 エルネストはもう一本、線を描き足した。


 ヨハンが覗き込む。


「……これも動くのか?」


「うん。こっちは、こう」


 説明しようとするたびに、欲しい言葉が見つからない。エルネストは小枝を動かし、描いた線を指でなぞった。


 ヨハンはしばらく図を眺めていたが、やがて息子の顔を見た。


「小さく作ってみるか?」


「いいの?」


「動くかどうかくらいなら確かめられるだろう。ただし、家に帰ってからだ。ここじゃ馬も動くし、荷車の邪魔になる」


「うん!」


 アールハイドは地面の曲がった線を見つめ、少し首を傾げた。


「下だけ動くようにするの?」


「うん。上は、なるべく動かさない」


「……それ、どうやるんだろうね」


 エルネストは小枝を持ち上げた。


「作って見せる」


     ◇


 帰り道、ルーカスはずっと荷車の話をしていた。


「俺たちも車輪を作ろうぜ! あんなに大きいやつ!」


「そんなの、どこに置くのよ」


 リリーが呆れる。


「エルの家!」


「勝手に決めないでよ」


「エルは作るだろ?」


「……小さいのなら」


「なんだよ、小さいのかぁ」


 ルーカスは肩を落としたが、すぐに「じゃあ先に小さいの!」と言い直した。


 アールハイドはエナの手を引き、道の端の深い轍を避けて歩いている。エナが小石を拾おうとすると、足を止めて一緒にしゃがんだ。


「またね、エル」


「うん。またね」


 友達と別れたあと、エルネストはヨハンの横を歩いた。


「父ちゃん」


「なんだ?」


「丸い木、ある?」


「どのくらいだ」


 エルネストは両手で輪を作った。


「このくらい」


「あるにはあるが、何に使う」


「車輪」


「……あの荷車のか?」


「小さいの」


 ヨハンはエルネストの腕の中の木箱へ目をやった。


「箱に車輪をつけるなよ」


「……つけないよ」


 少しだけ考えたことがあったので返事が遅れた。


 ヨハンがその間を見逃さず、口元を緩めている。


     ◇


 家へ戻ると、グレタが鍛冶場から顔を出した。


「お帰り。塩はもうしまったよ。あんた、ずいぶん遅かったね」


「車輪、見てた」


「車輪?」


「揺れるの」


「……ははぁん? ヨハン、また何か見せたね?」


「俺じゃない。勝手に見つけたんだ」


「そりゃ結構」


 グレタは笑ってから、エルネストの顔を覗いた。


「疲れてないかい?」


「うん。作りたいものがある」


「それなら、まず手を洗っておいで」


 昼の残りのパンを食べてから、エルネストはヨハンの仕事場へ向かった。


 ヨハンが出してくれたのは、小さな丸い木片二つと、まっすぐな棒だった。丸い木の中心には穴がある。試作で余ったものらしい。


「本物の車輪とは違うが、回るかどうかは分かる」


「うん」


 棒へ木片を通す。回そうとすると、片方がすぐ引っかかった。


「こっち、回らない」


「穴が曲がってるな」


「削ればいい?」


「削りすぎると、今度はがたがたするぞ」


 エルネストは鳥の木彫りを作ったときのことを思い出し、木片を目の高さへ持ち上げた。穴は確かに少し傾いている。道具を借りて直そうとしたが、先に鉛筆代わりの炭で印をつけることにした。


 エルネストが穴の縁を少しずつ削り、ヨハンがずれを確かめる。いったん削り過ぎると戻せないので、何度も棒へ通して回した。ようやく二つの木片が引っかからずに回る。


 棒の上へ小さな板を載せると、それだけでも荷車の形に見えた。


「動かすよ」


 作業台に並べた細い木片を、道のでこぼこに見立てる。車輪を転がすと、板が跳ねて外れた。


「あ」


 拾って、もう一度。今度は小さな石を載せてみる。段差に乗り上げた瞬間、石が転がり落ちた。


「やっぱり」


 ヨハンが石を拾って返してくれた。


「で、これをどうする?」


 エルネストは小さな板を持ち上げ、棒との間を空ける。細い木の削り屑を挟んでみたが、押すと潰れてしまう。少し硬い枝を曲げて入れると、今度は板が傾いた。


 頭にあるなら、押せば滑らかに縮み、手を放せば決めた位置へ戻る。こんなふうに片側だけが沈んだりしない。


「……違うなぁ」


「どこが?」


「これ、押すと戻らない。こっちは片方だけ上がる」


 ヨハンは枝を指で曲げ、離してみた。細い枝は少し跳ねて、元の形へ戻る。


「木でも戻るものはある。ただ、荷を載せて何度も揺らすと、どうなるかだな」


「折れる?」


「折れるかもしれん」


 エルネストは枝を掌へ載せた。


 薄い鋼を使えば、狙った動きにずっと近づけられる。何度も同じように曲がるようにするには、材質も熱の加え方も大切だ。


 そこまでは分かる。


 でも、手の中にあるのは枝一本。エルネストはそれをもう一度曲げてみた。


 木の枝を掌で転がしていると、グレタが呼んだ。


「エル! ご飯だよ!」


「……もう?」


「もう、だ。続きは明日にしろ」


 ヨハンが道具を片づけ始める。エルネストも棒から車輪を抜き、散らばった木片を拾った。


     ◇


 夕食は豆の煮込みとパンだった。


 卓の上から立つ湯気に顔を近づけると、食欲をそそる香りがする。昼間に嗅いだ香辛料は入っていない。エルネストは最初のひと口を食べ、それからグレタに尋ねた。


「母ちゃん、あの黒い粒、今日使わないの?」


「マティアスのところで見たやつかい? あれは肉のある日に試そうと思ってるんだよ」


「……豆にも合うよ」


「そうかい。じゃあ今度、少しだけ入れてみようかね」


「うん」


 ヨハンがパンを割り、エルネストの皿へ半分置いた。


「車輪はどうするんだ?」


「また作る。今度は、曲がって戻るのをつけたい」


「そうか」


「父ちゃん、明日も手伝ってくれる?」


「仕事が終わったらな」


 エルネストは頷いて、パンを煮込みに浸した。


 口に運ぶと豆の温かさが広がり、思わずもうひと口食べた。昼間に思い出した食卓のことも、まだ覚えている。けれど今、向かいではグレタが今日の鍛冶仕事の話をし、ヨハンがそれに短く答えていた。


 エルネストは皿を空にすると、グレタの方へ差し出す。


「もう一杯」


「よく食べるねえ。ほら、おかわり」


 匙で豆をすくいながら、エルネストはさっきの曲がった枝を思い浮かべた。


 あの枝では、思っている動きにならなかった。


 今度は母ちゃんに、曲げても戻る薄い鋼を作れるか聞いてみよう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。