5話
ルビの入れ方を学びました。
第五話 できないこと
五歳の誕生日から二日が過ぎた。
木箱の中で、かたかたと音がした。
エルネストは蓋を滑らせ、誕生日にしまった木片を取り出す。互いに噛み合う二本、切り込みが浅くて途中までしか入らない二本、それに、まだ手をつけていない短い板。どれもヨハンの仕事で余った木だ。
並べたままにしておけば違いが分かる。けれど箱へ戻すと、どれがどれだか混ざってしまう。
「ここに、仕切りがあれば……」
箱の内側へ板を当てる。長すぎて蓋が閉まらない。別の板を横に置くと、今度は倒れる。角を切り落とせば収まりそうだが、指で押しても木は曲がってくれなかった。
庭からは雨の音が聞こえてくる。細い雨が屋根の端を伝い、軒下の桶へぽつぽつと落ちていた。今日は友達も遊びに来ないらしい。
エルネストは木箱と板を抱え、裏手の仕事場へ向かった。
中ではヨハンが長い板に鉋をかけている。刃の下から薄い木屑が伸び、くるりと丸まって床へ落ちた。もう一度、同じところを通る。先ほどよりわずかに薄い木屑が続く。
「父ちゃん」
「どうした」
「この板、短くしたい」
ヨハンは鉋を置き、差し出された木片と箱を見比べた。
「仕切りか」
「うん。ここに立てたい」
「長さを詰めるだけじゃ、また倒れるぞ」
「じゃあ、こっちにも溝を作る」
エルネストが箱の底を指すと、ヨハンの手が止まった。
「……箱にか?」
「うん」
「それはやめとけ。せっかくの箱だ。まず余り木で試せ」
ヨハンは仕事台の端に短い板を二枚置いた。
「一枚を底、もう一枚を仕切りだと思って、どう合わせるか考えてみろ」
エルネストは箱を脇へ寄せ、二枚を直角に立ててみた。指を離せば倒れる。誕生日に試した木組みと同じように、互いに切り込みを作ればいい。
ただ、今度は木の厚みが違う。
「父ちゃん、ここの木を削ってもいい?」
「どこだ」
「こっち。ちょっとだけ」
ヨハンは印をつけた場所を見たが、すぐには道具を取らなかった。
「どれくらい削る?」
エルネストは二枚を重ねたまま考えた。頭の中にはきれいに組み合った板が浮かんでいるのに、削る深さを指で示そうとすると、どうにも曖昧になる。
「……ここまで?」
「疑問形だな」
「測ったら分かる」
「そうだな」
ヨハンが細い木片を差し込み、板の厚みを移してみせた。印の位置が少し変わる。エルネストはその線を見つめた。
「さっきのまま切ったら、広すぎた?」
「たぶんな。やってみないと分からんが」
エルネストは印とヨハンの顔を見比べた。ヨハンはその先を教えず、もう一度板を合わせている。
エルネストは唇を尖らせ、作業台の上を見回した。
ヨハンの鋸、鑿、鉋。どれも使い道は見当がつく。見たことのない形の道具でさえ、何かを作っていたときの手応えが、不意に頭の奥から浮かぶことがある。
「父ちゃん。あれ、やってみたい」
指さしたのは鉋だった。
「それはまだ大きい」
「持てるよ」
「持てるのは知ってる。板を真っすぐ削れるかは別だ」
ヨハンはエルネストの手と鉋の幅を見比べ、棚から小さな柄の刃物を取り出した。
「細い木なら、こっちで形を変えられる。使ってみるか」
「いいの?」
「俺がいるときだけだ。刃の前に手を出すな。力で押し切ろうとするなよ」
「うん」
エルネストが手を伸ばすと、ヨハンは刃先の向きを変え、柄の方を差し出した。
受け取ってみる。
軽い。けれど、持つときの指の形が、思っていたものと違う。もっと長い柄を握っていた気もするし、指先だけで刃を動かしていた覚えもある。そのときの手は、こんなに小さかっただろうか。
「何か作りたいものでもあるのか?」
エルネストは木片を見下ろした。
細長く、片端が少し丸い。立ててみると、何かの頭にも見える。
「……鳥」
「鳥か。なら、どこを残すか先に考えろよ」
エルネストは指で木片をなぞった。ここが胴。少し細い方を首にして、先に嘴を残す。羽のところは左右に広げて……いや、木が足りない。だったら羽は畳んだ形にしよう。
頭の中で鳥はもう出来上がっている。
エルネストは作業台の端で木を押さえ、刃を当てた。
思ったより、削れない。
少しだけ力を加えると、急に刃が食い込んだ。
「ん……」
「止めろ。そこから無理に押すな」
ヨハンが横から声をかける。エルネストは刃を戻し、木を持ち直した。
二度目は角度を浅くする。薄い木屑がひとつ、作業台に落ちた。
「できた」
「そのくらいでいい。先に大きく削ると戻せんからな」
エルネストは頷き、もう一度刃を動かした。
少しずつ角が落ちていく。頭を丸めて、胴を細くする。羽を残すために、刃先を途中で止めたい。
止まらなかった。
「あ」
小さな欠片が飛び、鳥の頭になるはずの場所まで削れてしまう。
エルネストは木片を回した。こちらを頭にするには短い。反対側には節がある。削り直そうとしても、失った木は戻ってこない。
「……違う」
「どこがだ?」
「もっと丸くしたかった」
「なら次は、そこを一度に削るな」
「分かってたのに」
ヨハンは答えず、刃の向きと木の持ち方を確かめていた。
分かっていた、というのは本当だ。どんな順番で削れば形になるかも、そのときの手の動きも、どこかに残っている。なのに、いざ刃を持てば、握る強さも手首の角度も思いどおりにならない。
手元の木は、頭の中にある鳥とは似ても似つかない。
「エル。疲れたか?」
「まだできる」
「そうか。なら、一度置いて見てみろ」
エルネストは言われたとおり刃物を置き、木片を少し離して眺めた。
胴が太い。頭は小さすぎる。どこを削ればいいのか考えているうちに、視界の端でヨハンの手が動いた。
何かを言おうとした。
その前に、床が近づいた。
作業台の縁へ伸ばしかけた指が、何にも触れずに落ちていく。
◇
どこかで水が流れている。
最初にあったのは、薄い膜の向こうから伝わる水の揺れだ。膜を破って這い出た身体は小さく、泥のくぼみから出るだけでも時間がかかる。水に混じる食べ物の匂いを追い、草の根の陰で腹を満たした。
何か大きな影が水面を横切ると、泥の奥へ潜った。背中に冷たい雨を受けた日も、流れが細くなって身体の表面が乾きかけた日もある。隠れ場所を移り、獲物を探し、また朝を迎えた。やがて身体は大きくなり、自分より小さなものを捕まえられるようになる。いくつも季節が巡った。
最後の頃には、食べ物の匂いがしても身体がなかなか動かない。水際の暗がりに横たわったまま、冷たい流れが背中を通り過ぎていった。
けれど、今は水の音がしない。
代わりに、人の声がする。
「……エル」
聞き覚えのない名前だった。いや、どこかで……。
目を開けると、木の梁が見えた。湿った草も泥もない。身体の下に柔らかな寝具があり、誰かが額へ手を当てている。
「エル。母ちゃんが分かるかい?」
黒い髪。見覚えのある顔。
この人は、誰だっただろう。
「……かあ、ちゃん?」
「ああ、そうだよ。ここは家だ。もう大丈夫だからね」
その声を何度か聞くうち、庭に並べた木片が浮かんだ。父ちゃんの仕事場で、鳥を削ろうとしていたことも。
「鳥」
「鳥?」
「……木の」
「ヨハンが片づけたよ。ちゃんと取ってあるから、今は寝てな」
グレタはそう言って、額に触れていた手を動かした。
エルネストは起き上がろうとして、すぐに諦めた。腕が重い。寝具を掴む指に力が入らない。
目を閉じても、泥の匂いと冷たい流れがすぐ近くにあるような気がした。
何か言いたかったのに、目を閉じるとそのまま眠りに落ちた。
◇
翌朝、ヨハンの仕事場へ行こうとすると、グレタに呼び止められた。
「エル。まだ顔色がよくないね」
「歩けるよ」
「歩けるのは見れば分かるさ。今日はここで休んでおいで」
「……鳥、見たい」
「なら父ちゃんに持ってきてもらいな」
グレタに言われ、エルネストは寝台の端に腰掛けたまま待った。
しばらくしてヨハンがやってきた。手には昨日の木片と、削る前の木を何本か持っている。
「刃物は置いてきた」
「分かった」
「これが昨日のだ」
エルネストが受け取った木片は、欠けたところがそのまま残っていた。
「……頭が、小さい」
「そうだな」
「羽も、まだない」
「そこは削ってないからな」
エルネストは木片を裏返す。もう元の形には戻せない。どちらを上にしても、想像した鳥とは違う。
「父ちゃん。ほかの木にしていい?」
「構わんが、それはどうする?」
エルネストは欠けた木を見つめた。
捨ててしまえば、最初からやり直せる。
でも、どこを削りすぎたのかも、どんな角度で刃が入ったのかも、よく見れば残っている。
「……取っとく」
「そうか」
ヨハンが小さく頷いた。
昼過ぎ、ようやく身体の重さが和らいだ頃、エルネストはヨハンに連れられて仕事場へ戻った。作業台には削りかけの木と、前の日の失敗を見て選び直した短い木片が並んでいる。
「今日は、こっち」
「最初から別のを作るのか?」
「ううん。同じ鳥。でも、頭は先に小さくしない」
ヨハンはエルネストが台へ手をついたまま立っていられるのを確かめ、小さな板を一枚差し出した。
「先に、形を描いとけ」
「描く?」
「どこまで削るか、目印だ。木は戻らんからな」
エルネストは炭の欠片を借り、鳥の胴らしい丸みを木に描いてみた。頭を大きめに残して、羽は最後に細くするつもりだ。
ただ、描いた線も左右で揃わない。
「……曲がった」
「削る前なら、まだ直せる」
ヨハンの言葉に、エルネストは線を少し引き直した。
そのとき、戸口でグレタが足を止めた。鍛冶場の仕事を抜けてきたらしく、袖には煤がついている。
「また削るのかい?」
「うん。今日は線を描いた」
エルネストが木片を掲げると、グレタは描かれた輪郭に目を細めた。
「刃を動かす先に、指は置かない。覚えてるね?」
「うん」
「ならやってごらん」
ヨハンは道具を手に取ったまま、エルネストの顔色を確かめている。
「まだ昨日の今日だぞ」
「そうだね。辛くなったら止めるんだよ、エル」
「うん」
グレタが鍛冶場へ戻ると、ヨハンは踏み台を引き寄せ、木が滑らないよう作業台に据えてくれた。
「指はこっち。無理に力を入れるなよ」
それから刃を受け取る。柄に指を添え、まずは浅くひと削り。次も、その次も、いったん刃を離して木を確かめる。
思った形になるまでには時間がかかった。
その日は胴の形を整えるところで手を止めた。翌日も深い眠りに落ち、目を覚ましてからは起き上がれない。仕事場から聞こえる木を削る音だけを、寝台に横たわったまま聞いて過ごした。
その後も、ヨハンの手が空き、エルネストの身体も動かせるときにだけ、少しずつ刃を入れる。途中で木が欠けたら線を引き直し、羽が厚すぎればもう少し削る。刃が思ったところへ進まないときは、ヨハンが手を止めさせ、木目と刃先の向きを確かめてくれる。エルネストは握り直し、同じところをもう一度試した。
最後のひと削りを終えたとき、木片は小さな鳥になっていた。
右の羽が少し大きい。嘴は短く、胸の辺りには削りきれなかった角が残る。平たい底のおかげで立てられるが、横から見ると少し傾いている。
「……鳥に見える?」
ヨハンは仕事の手を止め、掌へ載せて眺めた。
「鳥には見えるな」
「ちゃんと?」
「ちゃんと。何の鳥かは知らんが」
「……鳥だよ」
「そうか」
エルネストは鳥を受け取った。
羽の端に指を当てると、ざらりとした削り跡が残っている。目の前の木を何度も裏返し、どこを削るか考えた跡だ。
最初の鳥と並べてみる。
片方は頭を大きく削りすぎて、嘴になるところまで欠けている。もう片方は形が歪んでいるが、羽も首も残っていた。
「父ちゃん」
「なんだ」
「これ、父ちゃんにあげる」
「俺にか?」
「うん」
「自分で作ったんだろ」
「父ちゃんが、切ってくれた」
ヨハンは鳥を受け取ると、しばらく角度を変えて見ていた。
「なら、預かっておくか」
「どこに置く?」
「ここだな」
ヨハンは仕事道具の棚の端を少し片づけ、鳥を置いた。平たい底が木の棚へ触れ、小さな音がする。少し斜めを向いてしまったので、指先で向きを直した。
「落ちない?」
「そう簡単には落ちん」
そう言いながら、棚の奥へわずかに寄せる。
エルネストはその手元を見ていた。
ふと、最初に作った箱の仕切りを思い出す。あれも、まだ途中だ。削るだけではなく、組み方も考えなければいけない。
「父ちゃん、次は――」
「今日は終わりだ」
「まだ言ってない」
「顔に書いてある」
「何が?」
「何か作りたい、ってな」
エルネストは自分の頬に触れた。
ヨハンは小さく笑い、道具を棚へ戻し始める。
「片づけを手伝うなら、そこの木屑を集めてくれ」
「うん!」
渡された小さな籠を抱えて床へしゃがむ。鉋屑は軽く、指でつまむとふわりと動いた。大きな欠片は別に寄せる。
さっきまで刃を握っていた手で、今度は木屑を拾う。
棚の鳥は、ヨハンが道具を取るたびに目に入る場所にある。
「父ちゃん」
「今度はなんだ」
「明日は箱の仕切り、やっていい?」
「体が元気ならな」
「うん」
エルネストは籠の中を覗いた。細かな木屑が、少しずつ溜まっている。
エルネストは籠を持ち直した。床には、まだ細い木屑が一本残っている。拾い上げると、指にくるりと巻きついた。
それを籠へ落としてから、もう一度棚の鳥を見上げた。次は、嘴をもう少し長くしてみたい。
素人なので書き直したり変なとこあったりします。勘弁してください




