4話
第四話 五歳
肉の焼ける匂いがした。
エルネストは掛け布の中で鼻を動かした。台所から油のはぜる音が聞こえる。鍋の触れ合う音に混じって、グレタが何かを言い、ヨハンが短く答えた。
朝から二人とも台所にいるなんて、珍しい。
寝台の縁に腰を下ろし、足を床につけてみる。手を握る。開く。頭の奥に残る鈍さも、身体の芯が抜けてしまったような頼りなさも、今朝はなかった。
これなら起きられる。
戸を開けると、グレタが鍋から顔を上げた。
「おや、起きたかい。五歳、おめでとう」
「……五歳?」
「そうさ。今日から五歳だよ」
ヨハンも卓の向こうから振り返る。
「おめでとう、エル」
「ありがとう」
五歳。
エルネストは自分の手を見下ろした。指は昨日と同じ五本ずつ。握り直してみたところで、力の入り方が変わった気もしない。
「何か変わった?」
「何がだい?」
「五歳になったから」
グレタは一瞬きょとんとした顔になり、それから腹を抱えて笑った。
「誕生日になっただけで、急に大きくなるわけないだろ!」
「そうなの?」
「そうなの、って……昨日より一日分は大きくなっただろうさ」
一日分。
それなら、昨日とあまり変わらないのも仕方がない。納得したところで、鍋から漂う匂いに気を取られた。
「母ちゃん、手伝う?」
「今日はいいよ。あんたの祝いなんだから、座ってな」
「でも、忙しそう」
「忙しいのは確かだね。だから、そこの鍋をひっくり返さないでおくれ」
ひっくり返すつもりはなかった。けれど、これ以上近づいたら本当に叱られそうだ。
エルネストが卓へ向かうと、ヨハンが戸口を通り過ぎた。その袖に、細かな木屑がついている。
「父ちゃん、もう仕事してたの?」
「ああ、ちょっとな」
「何作ってるの?」
「あとで見せる」
「今は?」
「まだ駄目だ」
「……どうして?」
「まだ終わってないからだ」
それなら終わってから見ればいい。そう思ったのだが、何を作っているのかは気になる。
ヨハンはその顔を見て、先回りするように言った。
「覗きに来るなよ」
「……うん」
返事をすると、父ちゃんは満足そうに頷いて仕事場へ戻っていった。
どうやら、もう少し待つしかないらしい。
◇
昼前、戸を叩く音より先に声が飛び込んできた。
「エル! 五歳になったんだってな!」
エルネストが戸を開けると、ルーカスが胸を張って立っていた。後ろにはリリーとアールハイド。さらにアールハイドの服の陰から、小さな女の子がこちらを覗いている。
「俺も五歳だぞ!」
「知ってる」
「じゃあ一緒だな!」
「昨日も一緒だったよ」
「今日はもっと一緒なんだよ!」
何が増えたのだろう。
エルネストが考えているうちに、リリーがルーカスの前へ一歩出た。
「おめでとう、エル。これ、みんなで食べてね」
差し出された布袋からは、乾いた木の実がころころと音を立てた。
「ありがとう」
「ルーカスも何か持ってくればよかったのに」
「俺は来たぞ!」
「来ただけでしょ!」
リリーが眉を寄せる。ルーカスは何が悪いのか分からない顔をしていた。
アールハイドは二人を見て笑うと、服を掴んでいる女の子へ顔を向けた。
「ほら、エナ。言いたかったんでしょ?」
小さな顔が、ほんの少しだけ前へ出る。
「……おめでと」
「ありがとう。エナ、だよね」
こくりと頷いた。アールハイドの妹で、三歳だと教えてもらう。
「アールの妹?」
「うん。今日は一緒に来たがったんだ」
エナは兄の服を掴んだまま、エルネストの顔をじっと見上げていた。
「何してるんだい。そんなところにいないで、入っておいで」
台所からグレタが声をかけた。
ルーカスはすぐに中へ入っていったが、アールハイドは戸口に残った。エナが段差へ足を掛けると、片手を差し出し、彼女が上がるまで待っている。
「お前さんも遠慮しなくていいんだよ」
「はい。お邪魔します」
アールハイドの返事にグレタが少し眉を上げ、それから笑った。
「腹は減ってるかい?」
「減ってる!」
今度も最初に答えたのはルーカスだった。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ」
「聞かれたから答えたんだ!」
「そりゃそうだ。じゃあ、エルの祝いを手伝ってもらおうかね」
グレタが鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に肉の匂いが広がった。ルーカスが口を開いたまま鍋を見つめる。
エルネストにも、その気持ちはよく分かった。
◇
卓には肉の煮込みと豆、野菜、それから焼きたてのパンが並んだ。
ルーカスは皿が配られるたびに中身を覗き込み、そのたびリリーに袖を引かれている。エナはアールハイドの隣に座り、両手でパンを持っていた。
エルネストも匙を取った。
ひと切れ口へ運ぶと、煮込まれた肉が舌の上でほろりと崩れた。もうひと切れ、と皿を見る。まだある。
「母ちゃん、明日もこれ?」
「ずいぶん気に入ったねえ。でも明日も祝いをするわけじゃないよ」
「そっか」
少し残念だった。
五歳になったから、こんなご馳走が食べられるのだろうか。だとしたら、明日も五歳なのに。
考えながら匙を動かしていると、湯気の向こうに、別の食卓が浮かんだ。
見覚えのない椅子。聞き慣れない声。そこに座っていた自分には、今よりずっと大きな手があった気がする。
何か大切な話をしていたはずなのに、思い出そうとすると顔も声も遠のいていく。
「エル。もっと食べるか?」
ヨハンの声に顔を上げた。
目の前には、鍋を持った父ちゃんがいる。
「うん」
「なら皿を出せ」
差し出した皿へ肉が盛られる。その横から、小さな手がぬっと伸びてきた。
「これ、あげる」
エナが自分のパンをちぎっていた。
「エナの?」
「うん」
「僕の、まだあるよ」
「……あげたいの」
差し出した手は引っ込まない。
エルネストは少し考え、それを受け取った。
「ありがとう」
口へ運ぶと、エナがじっと見ている。
「おいしい?」
「うん」
するとエナは満足したように頷いて、自分のパンへかぶりついた。隣でアールハイドもようやく自分の皿へ目を戻した。
ルーカスがおかわりを頼む声が響く。リリーが何か言い返し、グレタが豪快に笑う。
エルネストはもう一度、エナにもらったパンを見た。自分のパンと同じ味なのに、なぜかそちらを先に食べたくなった。
食事が落ち着いた頃、ヨハンが腰を上げた。
「エル。ちょっと待ってろ」
仕事場の方へ出ていったかと思うと、すぐに戻ってくる。手には、小さな木箱があった。
「これをやろう」
両手で受け取る。表面は滑らかで、角には指に引っかかるようなささくれもない。
蓋を持ち上げようとしても、開かない。
「あれ?」
「そこを横に押してみろ」
ヨハンが蓋の端を指す。エルネストが指で押すと、すうっと蓋が滑った。
「開いた」
中は空っぽだ。
「何を入れるの?」
「お前が決めろ。拾った石でも、木の欠片でもな」
「僕の?」
「ああ。お前の箱だ」
エルネストは蓋を閉め、今度は箱の角を見た。
四枚の板が合わさっている。けれど、釘の頭はどこにも見えない。板の端を指でなぞっても、ぐらつく気配すらなかった。
先日、友達と作った城を思い出す。
あの壁も、最初は立っていた。それなのに、ルーカスが飛びつくと簡単に崩れてしまった。
この箱は、誰も支えていないのに動かない。
「父ちゃん。ここの木、どうして外れないの?」
ヨハンは箱を受け取り、内側が見えるように傾けてくれた。
「端を互いに噛み合わせてあるんだ。こっちへ引くと、反対側が引っかかる」
「押したら?」
「どこを、どっちへ押すかによるな」
指先で角を軽く押し、ヨハンは箱を返してくれた。
「ただ並べただけの板とは違うだろ」
「うん」
継ぎ目の形を確かめる。
こんなふうに木を組む方法は、頭の中にいくつも浮かんだ。けれど、目の前の角のどこに刃を入れれば、この小さな板がきっちり収まるのか。指で線をなぞろうとすると、思っていた位置から少しずれてしまう。
「ここを切ったら、入る?」
「切るだけじゃ駄目だ。相手の厚みを見て、合わせるんだよ」
ヨハンの指が、二枚の板の境目を辿った。
「ほんの少し違っても、入らなかったり、ゆるくなったりするからな」
「……そっか」
エルネストは継ぎ目に指を当て、端から端までゆっくり滑らせた。
「あんた、箱の中より外の方が気になるのかい?」
グレタが笑いながら近づいてきた。
「うん」
「まったく、父ちゃんに似たもんだね」
そう言いながら、何かを取り出す。
黒く磨かれた、小さな鉄の板だった。両端には穴が二つあり、表には細い線が刻まれている。
「こっちはあたしから。名前を刻んでおいたよ」
「名前?」
「エルネスト、ってね」
エルネストは鉄板を持ち直した。見覚えのある文字とは形が違う。読むことができる文字も頭には浮かぶのに、目の前の線がどんな音になるのかは分からなかった。
「母ちゃん。どう読むの?」
「ここから、こうさ」
グレタの指が文字を一つずつ辿る。エルネストも、そのあとを追った。
「これが、僕の名前」
「そうだよ。なくさないように覚えておきな」
ヨハンが木箱の正面をこちらへ向ける。
「取りつけるなら、蓋に当たらない場所がいいな」
「ここは?」
エルネストが正面の板を指すと、ヨハンは鉄板を当て、蓋を何度か滑らせた。
「ここなら大丈夫だ」
グレタは小さな留め具を二つ差し出した。
「じゃあ、父ちゃん。お願いするよ」
「お前がつけた方が早いだろ」
「せっかくの誕生日なんだ。あんたにも働いてもらわないとね」
ヨハンは苦笑しながら鉄板を留めた。
正面に黒い名札のついた木箱が、再びエルネストの手に戻ってくる。
蓋を開ける。閉める。もう一度開ける。
「……すごい」
「何がだ?」
「ここ、動かないのに、こっちは動く」
箱の角と蓋を順番に指すと、ヨハンは口元を緩めた。
「そういうふうに作ったからな」
当たり前のことを言われたはずなのに、エルネストはもう一度蓋を滑らせずにはいられなかった。
◇
客が帰っても、エルネストは木箱を手放さなかった。
帰り際のルーカスは「今度こそ倒れない城を作ろうぜ!」と張り切っていた。リリーは「まず、ちゃんとつなぐところからでしょ」と言い返し、アールハイドはヨハンに箱の角のことを尋ねていた。
アールハイドは教わった継ぎ目をじっと見ていた。あれほど賑やかだったのに、ヨハンが木の合わせ方を話し始めると、急に静かになる。エルネストも聞きたかったが、ルーカスが帰るときに何度も呼ぶので、話の続きを聞けなかった。
今度、もう一度聞こう。
庭へ出ると、ヨハンが仕事場の前で余った木を選り分けていた。
「父ちゃん」
「どうした?」
「箱の角、僕も作ってみたい」
「箱がもう一つ欲しいのか?」
「ううん。この、外れないところ」
ヨハンは息子が差し出した箱の角を見た。それから足元の端材を二本拾い、仕事台の上に置いた。
「なら、こっちで試すか」
エルネストはさっそく二本を立てかけた。手を離すと、倒れた。
「……立たない」
「この前の城はどうだった?」
「支えをつけた。でも、外れた」
「じゃあ、その支えが外れないようにできるか、考えてみろ」
エルネストは二本の端を重ねる。押してみる。ずれる。
支えるだけでは駄目だ。木と木を引っかける。
エルネストは箱の角と手元の木を見比べた。板の端に指先を置き、押さえる位置を探す。
「ここ、へこませる?」
「どのくらいだ?」
ヨハンが木を一本持ち上げた。
「……このくらい?」
指で幅を示してみる。ヨハンは首を傾けた。
「それじゃ分からん。相手の木を当ててみろ」
言われた通りに重ねると、思っていたより厚みがある。指を置いた位置では、窪みが足りなくなりそうだ。
「……もう少し広い」
「そうだな」
ヨハンはエルネストが示した場所を確かめて印をつけると、鋸で浅い切れ込みを入れた。間の木を取り除き、片方にも同じような窪みを作る。
「ほら、合わせてみろ」
受け取って、重ねる。
入らなかった。
「……狭い」
「どこが?」
「こっち。相手の木が入らない」
「ならどうする?」
「広げる」
そう答えてから、エルネストは切り口を見直した。
「でも、ちょっとだけ」
「どうして?」
「広すぎたら、動いちゃう」
ヨハンは口元を緩め、ほんの少し削り足した。
もう一度合わせる。今度は途中まで入ったが、木の端が浮いている。
「……こっちも浅い」
「よく見ろ。どこが当たってる?」
エルネストは二本を外した。削られた面の端に、小さな擦れた跡がある。
「ここ」
「そうだ。じゃあそこを直そう」
二度目の手直しで、二本の木がようやく組み合わさった。
「できた」
持ち上げると、さっきまで別々だった木が、一緒についてくる。指で揺らしても簡単には動かない。
けれど、ヨハンが一本を別の向きへ引くと、するりと抜けた。
「あ」
「組んだだけで、どの向きにも強くなるわけじゃない。どこに使うかで、形も変わる」
エルネストは抜けた木を受け取り、もう一度はめた。
引く。抜ける。向きを変えて引く。今度は外れにくい。
「父ちゃん、こっちは抜けない」
「ああ。なら、反対からも抜けないようにするには?」
エルネストは木を回し、抜けてしまった方向からもう一度引いた。やはり、外れる。指でその隙間を押さえてみると、二本が少し動きにくくなった。
「……もう一本、使っていい?」
「どうするつもりだ?」
「ここを押さえる」
ヨハンは短い板をもう一本差し出した。
「やってみろ。まず置いてみるところからだ」
エルネストは三本目を重ねてみた。支えたい場所へ当てると、今度は別のところが邪魔になる。
なら、違う形で組めばいいのだろうか。
もう二本の端材を使い、今度は別の向きに重ねてみる。ヨハンに印をつけてもらい、切り込みを入れてもらったものの、二本は途中までしか入らなかった。
「ここも、もう少し削る?」
「まず、どこが当たってるか確かめてみろ」
エルネストは二本を外し、切り口を覗き込んだ。
どうやら、まだ考えることがあるらしい。
◇
「二人とも! いつまでやってるつもりだい!」
鍛冶場の方からグレタの声が飛んできた。
ヨハンが顔を上げる。仕事場の外には、長い影が伸びていた。
「もうそんな時間か」
「まったく、親子そろって夢中になっちまって。夕飯が冷めるよ!」
ヨハンは小さく笑って、息子を見た。
「エル、腹は減ったか?」
「うん」
「……じゃあ今日はここまでだ」
エルネストは仕事台の木片を集めた。
うまく噛み合った二本。切り込みが浅くて、まだ途中までしか入らない二本。それから、これから使うつもりだった短い板。
同じような木なのに、切り込みの位置が少し違うだけで、動き方も違う。
「父ちゃん。これ、もらっていい?」
「余り木だからな。いいぞ」
エルネストは木片を全部抱えた。
「箱にも入れる?」
「入るならな」
さっそく蓋を開け、組んだままの木を収めようとしたが、縁につかえてしまう。
「……入らない」
組み合わせを外して一本ずつ並べると、今度は収まった。
「せっかく作ったのに、ばらすのかい?」
グレタが覗き込んできた。
「うん。でも、また組める」
「そうかい」
「こっちはできた。こっちは、まだ」
木片を左右に分けてみせると、グレタは箱の中を覗いた。
「それなら、混ざらないように分けておきな。どれがどれだか、分からなくなるよ」
「うん」
エルネストは木箱を傾けた。木片はころころと片側へ寄り、さっき分けたばかりの二組が重なってしまった。
「……あれ」
「ほらね」
なら、間に板を立てればいい。
そう考えて、小さな板を箱の中へ当ててみる。指を離すと、当然のように倒れた。
「……」
グレタが笑って、エルネストの肩へ手を置いた。
「それはまた今度だよ。今日は腹いっぱい食べて、早く寝な」
「うん」
「返事はいいねえ」
隣でヨハンが小さく笑った。
エルネストは木片を箱へ戻し、蓋を滑らせた。中で小さな音がする。今は仕方がない。
戸口へ向かいながら、正面の黒い名札に指を触れた。
母ちゃんが刻んだ、自分の名前。
文字はまだ全部読めない。けれど、これは自分の箱で、中に入っているのも、今日父ちゃんと作った自分の木片だった。
「エル、手を洗っておいで!」
台所からグレタが呼んでいる。
「うん!」
エルネストは箱を抱え直した。
次は仕切りを作ろう。まだ噛み合わない木も直したい。それから、名札の文字も、もう一度教えてもらおう。
ひとつ思い出すたび、箱の中の木がかたかたと鳴った。




